葛飾北斎は、江戸時代中期後半の絵師です。
そんな葛飾北斎はこの生まれなどははっきりわかっていません。
名前や住居を次々変える、変わり者ではありましが、その作風は大胆で魅力的でみる人を惹きつけます。
たくさんの葛飾北斎の絵ののかから、ここでは妖怪絵をみながら、その人柄、天才ぶりの手がかりを見つけてみようと思います。
さらに、もう一歩進んで、そこから、葛飾北斎すごさ、に迫ってみましょう。
葛飾北斎の生まれ
生年は1760年で、生まれ場所は、江戸(東京)の本所割下水(ほんじょわりげすい)という場所で、現在の春日通(かすがどおり)あたりというのが有力な説です。
生地については、式亭三馬(しきていさんば)という江戸時代後期の、地本屋が葛飾北斎んのことを「本所の産」と言っていた頃から、本所の生まれであるのはほぼ間違いないです。
場所で言うと、墨田区亀沢付近ということで、そこからは富士山が、見えたそうです。
両親については、一般的に言われていることがあります。
それは 父は 川村という人物の子供で、のちに、幕府の鏡師 中島伊勢(なかじまいせ)のもとに養子に入った、または中島伊勢 の子供である、ということ。
これも実のところは根拠が不足しています。
確かに1800年近くに作成された、「本所中絵図」という地図が作成されており、本所内南割り(うちみなみわり、割下水の近く)に、
「川村」という家が2件ありますが、どちらも、北斎との関係性は証明されていません。
母親は、小林平八郎(こばやしへいはちろう)を曽祖父に持つ家の生まれ、という説です。
この説も根拠が見つかっていません。
小林平八郎とは、「忠臣蔵」で主人公の敵役、吉良上野介(きらこうずけのすけ))の重要な家臣です。
吉良上野介の邸宅は、本所松坂町にあったため、本所生まれの、葛飾北斎にとって、小林平八郎は馴染みある名前だったの違いありません。
葛飾北斎も、「忠臣蔵」の絵を描いています。
自分の母親が、もし小林平八郎の子孫だったら…自分の絵の良い宣伝ポイントになるでしょうね。
そう考えると、これは、葛飾北斎の創作では?と思われます。
葛飾北斎の身分
葛飾北斎は、絵描きとしての名前ですから、苗字と名前、の両方がつけられていてもおかしくありません。
では生まれた時はどうだったのか。
川村、中島、二つの名前が出てくるところから、武士の生まれ?と思われるのですが、
中島の家は、「鏡師」という鏡を作る職人でした。
中島は、幕府御用達だから、中島という苗字が与えられていたのですね。武士ではありません。
生まれた家の「川村」、も気になるところですが、こちらからも特に武士という説はありません。
母の出身が、忠臣蔵の敵、吉良家の家臣の子孫、と言ってもこちらもなんの資料も残っていませんし、当てにならないところです。
葛飾北斎は、子供時代は貸本屋の下働きをして、それから、だんだんと出世して絵描きとなったのですから、武士階級とは考えにくいです。
そのまま、職人として生涯を送りました。
葛飾北斎の名前
葛飾北斎は自分の名前も、よく変えていました。
生まれた時は、「河村時太郎」それは父の苗字が「川村」だったからです。
次は「鉄蔵」。その次は、「中島伊勢」の養子となり、「中島八右衛門」と名乗ります。
14歳で、彫師の元に修行に行ったのですが、18歳になった時に、自分は、版画ではなく、絵を描きたいのだ、と思いたち、そこから、名前と次々変わります。
全体で見ると、葛飾北斎の改名は30回にも及ぶのですが、その代表的な名前を書きに紹介いたしましょう。
葛飾北斎の名前 ①19歳〜35歳 勝川春朗(かつがわしゅんろう)
浮世絵師「勝川春草」(かつがわしゅんそう)のもとで浮世絵の修行をした時の名前です。
しかし、ここでは兄弟子から、嫌がらせを受けて師匠 春草が亡くなって、勝川を離れました。
葛飾北斎の名前 ② 36歳〜39歳 俵屋宗理(たわらやそうり)
俵屋宗〜と聞くと、思い浮かぶのが画家 俵屋宗達(たわらやそうたつ)ですが、
俵屋宗達を初代とする、琳派(りんぱ)という画派に入りました。
ここで、美人画の画風を習得しました。
またこの頃、葛飾北斎は、社会風刺を詠む「狂歌」に興味を持ち始めます。
しかし、この時期は妻が亡くなり、自分の作品も人気がなく、苦難の時代でもありました。
お金もなかったため、自分の名前、俵屋宗理を同じ門人に売ってしまいました。
これが結構なお金になりました、そこで、名前が売れることに味を占めた、葛飾北斎は、これからも名前を売ろう、と考えたのでした。
葛飾北斎の名前 ③ 39歳〜50歳 北斎
いよいよ、私たちの知る、北斎となりました。
この時代、のぼりに絵を描く仕事をしたら、思いの外お金が入ったので、ここで、独立して絵を描くことに決めました。
その名も「北斎宗理」、「北斎辰政」(ほくさいときまさ)などを名乗ります。
この名前にして、運も上がったのでしょうか。「こと」という新しい妻も迎えました。
亡くなった妻を、ひたすら思い続けたわけではないのですね。
この後もまた、名前が変わります。
葛飾北斎の 姓 葛飾とは?
葛飾北斎の名前の変換は見てきましたが、では「葛飾」とは?
生まれた場所が、本所割下水の生まれで、北斎の時代はそこの一帯が葛飾と呼ばれており、
場所にちなんで、自分で姓としました。
現代でも、本所は葛飾区にあります。
葛飾区は東京でいうと、北東部です。
こうしてみると、葛飾北斎は、自分の生まれた地に愛着があるように見えます。
でも、のちの見出しに書いた、葛飾北斎の性格を考えると、葛飾にいたから、「葛飾」と適当につけたような気がします。
葛飾北斎は引越し魔?
葛飾北斎人生で引越しを繰り返したのは、単に、掃除が嫌い、ということが理由でした。
部屋が汚くなるたびに部屋を変えていたのです。
葛飾北斎、引っ越した回数が90回越え!
葛飾北斎が、引越しを繰り返した、というエピソードは、1893年(明治時代になって)飯島虚心が書いた「葛飾北斎伝」によるものです。
その本には、葛飾北斎は、90歳の人生中、93回引っ越したので、単純計算すると一年に約1回、引越しをした計算になりますね。
ひどい時には一日に3回も引越した、と「葛飾北斎伝」にありますので、葛飾北斎は住所不明になることがあった、という話には納得が行きます。
確かに汚い部屋は嫌ですが、極端すぎるというものです。
葛飾北斎 曰く「引越し好きは大物になるため」?
葛飾北斎の友人で作家の 四方梅彦という戯作者は、「引越しっをするとお金がかかる、それだったらいっそのこと、引っ越さないで、掃除する人を雇ったほうが安上がり」
と進言しましたが、その時の答えは、
幕府に仕えていた坊さん、寺町百庵という人物に倣って、自分も100回引越しをしたい、という希望があったからなのでした。
百庵という人物は、葛飾北斎が活躍した時代にはもう亡くなっていましたが、
俳句や和歌の達人だったために、それに近い、達人の域に達したいと思ったから、引越しを繰り返した、そんな理由もあります。
江戸時代は、著名人の住所を記した人名録「広益諸家人名録」には、葛飾北斎は住所不定、と書かれています。
もちろん、他の著名人でも住所がわからなくなることがよくありましたが、その場合は、黒塗りにされたりしていましたが。
はっきりと「住所不定」と書かれているのは、葛飾北斎ただ一人だったのでした。
葛飾北斎の妖怪絵
葛飾北斎というと、富士の絵が有名ですが、ここでは妖怪の絵を、取り上げてみましょう。
確かに、コワイ!怨霊などの絵もありますからね。
が、同時に、ちょっとかわいく見えてもくるのです。
葛飾北斎、オカルトブームに乗る
葛飾北斎は、1788年〜92年頃、「新板浮絵化物屋鋪、百物語の図」を描いています。
この時代、ちょうど江戸ではオカルトブームが出現しました。
江戸時代は文化文政時代、怪談物語が流行りました。
絵描きとしてますます人気をとるには、このブームに乗らない手はない、と思ったのでしょうね。
葛飾北斎も、妖怪絵を描きます。
江戸の人たちに人気があったのが、「百物語」です。
「百物語」とは、何人か集まって、ろうそくを100本つけて怪談話を次々語っていき、一つの話が終わるごとに、ろうそくを一本つづ消していきます。
そして百本目になった時、お化けたちが現れる…
お化けが出るのは、100本目のろうそくが消える時間が、真夜中の2時〜2時半の頃、丑三つ時。
葛飾北斎の「新板浮絵化物屋鋪、百物語の図」は、百本の怪談が終わった時、お化けたちが現れてきた絵なのです。
「浮絵」(うきえ)とは、絵は遠近法が使われており、お化けの臨場感を感じさせる絵のことです。
葛飾北斎の描く妖怪は、確かに怖いですが、よく見ると、面白い、共感できるお化けもいます。
葛飾北斎の「お菊さん」はろくろ首っぽい?
一番、面白く感じられるのは、「番長皿屋敷」の「お菊さん」。
「番長皿屋敷」の「お菊」は、仕えている家の家宝の10枚揃いの皿を一枚割ったために、主人から成敗、と言われて、切られて、井戸に投げ込まれます。
お菊は、それを無念に思い、毎晩井戸から出てきて、皿を数え、うらめしや〜一枚足りない・・・と悲しげにうめく幽霊となるのです。
その絵ですが、井戸から出てくるのですが、首から下は、お皿がつながったような身体が描かれているのです。
さらにさらには、お菊の髪が絡み付き、口からは霊気と思われるものを吐き出しており、不気味に見えることは事実なのです。
なんとなく、ろくろ首風に見えますが、「お菊さん」のドロドロ感を出したかったのでしょうか?
でも、肝心のお菊さんの顔、特に目がとてもユーモラスで、可愛さすら感じさせます。
葛飾北斎が描く「お岩さん」
「東海道四谷怪談」、お岩さんのお話で有名ですが、北斎が描く小岩さんは、提灯が燃えてそこからお岩さんの亡霊が出てくるシーンを描いたのですが、
提灯そのものが、お岩さんの顔をしており、結構怖いのですが、よく見るとお岩さんの目が悲しそうな表情をしているところが、印象的です。
お菊さん、お岩さんと二つの幽霊絵を見ていると、ぼんやり暗闇に現れている幽霊絵ではなく、実態を持った幽霊、というべきで、幽霊としてはかなり個性的です。
葛飾北斎がモデルにした小幡小平次(こはだこへいじ)
葛飾北斎の「百物語」には、小幡小平次という歌舞伎役者が登場します。
この役者は、歌舞伎や物語に登場しますが、江戸時代中頃にモデルがいます。
小幡平次は、大根役者とか言われていたのですが、顔が幽霊に似ていた、ということで幽霊役を演じたら、当たりました。
しかし、妻の恋敵に殺されてしまうのです。
ここまでは実話と、言われているのですが、その後、小幡平次郎は幽霊となって戻ってきた、ということでした。
この物語が、怪談となって出てくるので、小幡平次郎という人物の存在は、伝説で終わっています。
葛飾北斎は、この物語を百物語に取り入れており、「お岩さん」の提灯の絵を小幡平次郎の顔にしています。
「百物語」だから、絵は百点あるはずなのだけれども、現存しているものは五点しかないのが残念です。
葛飾北斎の人柄
葛飾北斎は、物にこだわらない人でした。簡単に言ってしまうと、ズボラ。
もらった給金も、家族に放り投げるように渡すものだから、この人、お金にありがた味、感じているのかしら?と思うほどです。
当時の評判では、服装も綺麗ではなく、貧乏生活をしていました。
貧乏だったために、自分の名前さえ売ったほどです。
だからと言って、賭け事も酒もやらない人間だったところに、救いがあります。
自由人と言ってしまえばそれまでですが、性格は自由奔放で、しかも頑固。
人付き合いが苦手で、人から話しかけられるのが嫌い、外を一人で歩く時は、何を言っているかわかりませんが、ぶつぶつと独り言をしながら歩いていました。
近所に人たちも、できるだけ葛飾北斎に関わりたくないようでした。
それだけではありません、家族もまさに、北斎の家族、と言えるほど変わり者でした。
娘は極端な掃除下手。とにかく片付かないというのなら、娘だけでなく、一家全員が、掃除嫌い、というのではないでしょうか?
そのために、葛飾北斎の家は散らかり放題、江戸時代版ゴミ屋敷?だったようです。
葛飾北斎と滝沢馬琴
葛飾北斎は、45歳の時から、本の挿絵を描く仕事をしましたが、挿絵画家としても有名になりました。
特に多くの仕事を一緒にしたのが、滝沢馬琴です。
葛飾北斎、滝沢馬琴のコラボ作品
滝沢馬琴(たきざわばきん)と一緒の仕事といえば、「南総里見八犬伝」が一番有名ですが、「八犬伝」以外にも、「新編水滸画伝」(しんせんすいこがでん)、「椿説弓張月」(ちんせつゆみはりづき)があります。
1804年には、236図も書いています。単純計算すると、葛飾北斎は1日半で1枚の絵を描かないとならないことになります。
その挿絵には、巨大な蜘蛛が出てくる気持ち悪いものもあれば、鯉が水飛沫をあげて飛び上がっているような、大胆なものまであります。
葛飾北斎は滝沢馬琴と共同作業で本を仕上げるのですが、
どういう共同作業だったかというと、馬琴がラフスケッチを描き、葛飾北斎はそのラフを見ながら絵を仕上げた、と言う仕事でした。
ちょっと現代の、漫画家の作業に似ていますね。
葛飾北斎、滝沢馬琴の家に同居
仕事をやりやすくするためには、絶えず一緒にいて、意思疎通を図ることが必要です。
そいうして、滝沢馬琴の家に葛飾北斎がやってきて、同居を始めました。
葛飾北斎は、自分の家はゴミ屋敷風だった、と言うのですが、馬琴の家では、相手の家のルールに従って生活していたのでしょうか?
葛飾北斎も滝沢馬琴も頑固者と呼ばれる作家でしたから、二人の意見がうまく纏まったとは、到底思えません。
家の片付けを巡って、喧嘩が起きたかもしれない、と想像してしまいます。
葛飾北斎、馬琴の指示に従わない?
仕事の方は、葛飾北斎が、馬琴の指示に従わず、勝手に自分の好みで、絵を書いてしまったこともありました。
そのエピソードは、馬琴が殿村篠齋(本名 とのむらまさもり)に、手紙で書いています。
殿村篠斎は、当時の国文学者で馬琴の友人でした。
殿村篠斎は、出版された本を、下書きを比べてみたところ、描かれた人物の位置の左右が違っていた、描かれた人物の人数が変わっていたことに気がつき、馬琴に尋ねたところ、
馬琴は、「色々な絵師に挿絵を頼んだところ、葛飾北斎だけが自分の指示に従わず、勝手に描いてしまう」とこぼしていました。
確かに、葛飾北斎の絵の腕は大したものだけれど、とも付け加えてありました。
原稿本は残っていないので、葛飾北斎がどのように改変してしまったのかはわからないのが、残念です。
最も馬琴の方も、葛飾北斎のくせを見抜くと、北斎ならきっとこう描くだろうな、と思ったところをわざと反対に書いたりして、だましてみました。
そんなことも馬琴は、殿村篠齋への手紙に書いていました。
どちらもどちら、と言ったところですね。
葛飾北斎、馬琴とは尊重し合う仲
それでも葛飾北斎は、馬琴を尊重していました。
そんな様子をうかがわせる手紙が、版元(出版社のようなもの)に宛てた手紙に、
葛飾北斎の描いた挿絵を、馬琴にチェックしてもらってくれ、と言う依頼する内容が書かれていました。
葛飾北斎、「八犬伝」の映画に
葛飾北斎は、現在(2024年11月)、滝沢馬琴を描いた映画「八犬伝」に出ています。
内田聖陽さんがキャスティングされています。
滝沢馬琴役の役所広司さんと、才能がぶつかり合う、親友同士の役をやっておられます。
葛飾北斎と滝沢馬琴という天才同士のぶつかり合い、だけではなく、内田聖陽と役所広司との役者としての、力の対決でもあります。
葛飾北斎のすごさ、まとめると
葛飾北斎、といえば、まず、富士山を描いた「富獄三十六景」と思うひとが多いでしょう。
富士山については、また別のところでご紹介します。
葛飾北斎、なんでも描く絵師
もちろんあの大胆な構図を作り上げた、葛飾北斎は、すごい人です。
妖怪絵で、あんなに恐ろしさと、楽しさを同時に感じされる絵を描ける人は、まず歴史上初めて、と言っていいほどだと思います。
巨大蜘蛛のような、不気味な絵から、大胆な水飛沫まで描ける、多彩な富士山も描く、かわいいお化けも描く、時にはユーモラスにと、描けないものは何もない、と言う感じです。
そして描く、全ての絵が人気を集めます。
葛飾北斎のズボラさは、作品に没頭するため?
一方の私生活は、ゴミ屋敷に住まい、家族とともにズボラ、人付き合いが下手、と人間性ではあまり褒められたものではありませんでした。
そんな変わり者と見える生活をしていたのですが、変わり者、だったには理由がありました。
それは、他人を遠ざけることで、絵の世界に没頭したい、と言う気持ちがあったから、と後世の研究家たちは言っています。
何度も引越しを繰り返したり、作家名を変えてみたのは、絵描きとして、初心を忘れないようにしたい、と言う志の現れだった、のでは、と今では推測されています。
いずれにせよ、「天才」と呼ばれる人たちは、どうも、私たちにはわかりにくい思考回路をしているようです。
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