豊臣家に最後まで付き従った戦国武将に、大野治長(おおのはるなが)という人物がいます。
武力で有名になったというより、別の噂から有名になっています。
豊臣秀頼の本当の父親ではないかと・・・・
茶々の乳姉妹、イケメンなどというところからそんな噂が立ったのだと思いますが・・・
妻の恋人かもしれない男性に対し秀吉はどう振る舞ったのでしょうか?
大野治長の性格からきた策が、大坂城は滅亡に走り出したと言います。
茶々との謎、大坂城滅亡の要因に触れながら、大野治長の人物像を解き明かしていきましょう。
大野治長、イケメン武将
大野治長の肖像画は残念ながら見つかっていないのですが、イケメンとの評判の武将でした。
伝わってきている話では、身長は高く、色白のハンサムだったということです。
イケメンというのは女性の美人と同様、時代の感覚で変わるので、どの程度のイケメン度だったかはわかりませんが、当時の女性たちの注目を集めたのではないでしょうか。
身長が高い、顔立ちが整っている・・・というのは当然イケメンの条件になりますが、「色白」という表現は、どんなもんでしょう?
戦国武将が、色白であることがいいことでしょうか?
むしろ多少なりとも、焼けていた方が武将として強そうで魅力的なのでは?と思うのですが。
これが公家(貴族)なら、色白は美しさの一つとなるかもしれませんが、武将とは違うでしょう。
それとも、豊臣家も華やかになり、公家的な生活をするようになってきたから、色白の公家風男性の方が人気あった、と見るべきでしょうか?
しかし、大野治長の性格は、忠義がいつも先にたち、どちらかというと華やかさには、惑わされない無骨者、と言いますから、色が白かろうと、そうでなかろうと本人はどうでも良かったのでしょう。
いえ、イケメンと言われるのも、たいして気にしなかったような人物だったのでしょう。
当時の女性にはそこが魅力的に映ったのかもしれません。
大野治長と茶々(淀殿)との間とは
大野治長と茶々(淀殿)は乳兄妹という間柄でした。
どちらも1569年の生まれだから、どちらが兄か妹に当たるかはわかりません。
乳兄妹というということは、大野治長は茶々の乳母の大蔵卿(おおくらきょう)の息子です。
大野治長の記録で見られるのは、小谷城でずっと茶々に従っていました。
茶々は浅井長政(あざいながまさ)の長女として生まれたから、当然のことです。
二人は、幼馴染のような間柄になっていたと思われます。
ただし、越前北ノ庄が落城してからは大野治長はどうなったか、知られていません。
茶々たち、浅井三姉妹も、本当のところ、どこに保護されていたかの記録がないからです。
ドラマでは、秀吉の庇護のもとにあった、と描けれることが多いのですが、それも実はよくわかっていません。
大野治長も、茶々たちの元にいたか、離れたのか・・・わかっていません。
その後、大野治長が登場したのは茶々が、豊臣秀吉の側室になってからのことです。
幼馴染で、親も亡くなり心身ともに不安な時に、いるものに対し、自然と情愛の気持ちが湧いてきても不思議ではありません。
それもイケメンとなれば、茶々の気持ちが向いていくことも十分ありますし、大野治長側からみれば、辛い時代を送っている美しい女主人に心を寄せることもアリです。
大野治長、秀頼の父の噂!
大野治長は、豊臣秀頼の本当の父親だ、という噂ばあるのです。
その理由を以下に推測して見ました。
秀頼は、秀吉に似ていない?
大野治長と、茶々が一緒にいるところを数多く目撃されていれば、恋愛の疑いあり、と見られてしまうこともあるでしょう。
それだけではありません。
秀吉の一人息子、秀頼が色白で、背が高く、美男だったからです。
秀吉は小男、それに容貌も「サル」と言われたほど、秀頼と秀吉は似ていない・・・
しかし、考えてみてください。
秀吉は、農家の出身、それも貧農と言われる部類。
外を農作業、のちには戦争と走り回っていたから、色が白いわけがない。
成長期にたっぷり栄養のある食事ができるという生活を送ってこなかったのです。
成長期の食事事情が、その人の体格に影響を与えると、今では科学的証明がなされています。
それに対して、秀頼は生まれた時から、若様。
食に困るどころか、美味しいものをたくさん与えられて育てられたから、体格が良いのも納得です。
しかも、秀頼の母方の家系は、身長の大きな人ばかり。
母親の茶々(淀殿)も大きかったし、その父母 浅井長政、お市の方も背が高かったです。
秀頼にとって、大伯父に当たる織田信長も大男で有名です。
ですから、秀頼は身長が大きくなる要素があったのです。
それに、秀吉だって栄養が良い状況にいれば、大きくなっていたかもしれません。
体格を見るだけでは、なんとも言えません。
噂の元となったのは・・・
大野治長が秀頼の父親かも、という噂は全くの推測ではありません。
戦国時代の武将 内藤隆春(ないとうたかはる、大内氏や毛利氏につかえた)人物が、自分の実家にあてて書いた手紙の中で、
「おひろい様(秀頼のこと)のお母君(淀殿)と、八代卿(大蔵卿、淀殿の乳母)の息子 修理殿(しゅりどの、大野治長)と密通をしている」
と書いています、さらに、当時の寺社で書かれていた「多聞院日記」(たもんいんにっき)にも同様のことが書かれています。
ですから大野治長と茶々(淀殿)が恋愛関係にあったということは間違いなさそうです。
そこから発展して、江戸時代の「明良洪範」(めいりょうこうはん)とう逸話集には、秀頼は、茶々と大野治長の子だ、と書かれています。
「明良洪範」は正式な歴史書ではないため、この書物は全面的に信頼はできません。
徳川の正当性を裏付けるための作り話として、豊臣を貶めることを目的にした可能性があります。
大野治長の行動
大野治長は最後の最後まで、茶々(淀殿)と秀頼を見捨てませんでした。
自分の命と引き換えにしてでも、茶々と秀頼の命を助けてもらえるよう家康に懇願しますが、その願いはききれられませんでした。
これをどう見るか・・・・
大野治長が、ずっと茶々に想いを寄せていたのは事実、とすれば、愛する女性とその息子を守ろうとした・・
もう一つは、実の息子だったからこそ、息子と最愛の女性にはなんとしても救いたかった・・・
その両方の説があります。
秀頼も淀殿も、大坂城の炎の中で自刃して最期を迎えたので、遺体とともにDNAも消え果てたというわけです。
ですから、いくら科学が進歩した現代でも、大野治長・秀頼の親子関係を証明できません。
大野治長が秀頼の父親であるかどうか・・・永遠の謎です。
大野治長を秀吉はどう見ていた?
秀吉から見れば、イケメンの大野治長が、妻の茶々の周りをうろうろされるのは面白くなかったのではないでしょうか?
それも異性の幼馴染なんて・・夫にとっては目障りでしょうがない。
大野治長は、茶々が秀吉の側室になったころ、秀吉から馬廻衆(うままわりしゅう)に取り立てられました。
馬廻衆とは、騎馬の武士で、大将に絶えず付き従って、守る役目をする人々です。ちょっと、ヨーロッパの騎士に似た役割です。
役職としては高い地位ですが、もちろん茶々からの口添えもあったと思います。
秀吉は、それをしてまで茶々の機嫌を取りたいと、思っていたようです。
あるいは秀吉は、大野治長が茶々に思いを寄せているからこそ、絶対に茶々とその子供を裏切ることはない、と見通してのことだったのかもしれません。
秀吉は、大野治長に対し、それほど警戒をした見方をしていなかったので、ここで別の説も浮上しています。
その説とは・・・
「秀頼は、茶々と大野治長との間の子供である。
秀吉はそれを知っていたが、なんとしても織田信長に関係ある者の子供が欲しかったため、子供本当の(?)父親を黙認した・・・と。
織田の血を引く息子なら、世の中もついてくるだろう、と考えた、ということです。
もし、秀頼の父親が大野治長である、と秀吉が知っていたとしたら、秀吉は相当な「タヌキ」です。
大野治長の大坂城攻防
大野治長の、罪状をあげるとすれば、徳川軍を叩くチャンスを逃した、ということです。
大坂冬の陣で、大野治長は攻防に奮闘します。
ここで大野治長の取った策は、妥協策。
大野治長は、徳川家康とは穏健にことを運び、双方が譲りあうことを理想としました。
しかし、大坂城内の家臣たちとは、妥協という案を出したことで対立する事態が起きました。
大坂冬の陣の原因ともなった、方広寺の鐘の命名事件では豊臣は徳川家を呪おうとしている、と言いがかりをつけられた時も、断固とした抗議をしようとしませんでした。
これは、大野治長のせいだけではありませんでした。
とにかく、徳川側は、豊臣を貶めるための言い訳探しをしていたのですから。
「大坂冬の陣」(1614年)が始まってしまった時に籠城という消去策を取ったのが、敗因の一つです。
この戦いで、真田信繁(さなだのぶしげ、幸村という名前もある)たち浪人が積極案を主張しましたが、大野治長は退けました。
大坂冬の陣が集結した時に、大坂城の徳川との和睦の印に、大坂城の外張りを埋める、真田丸などの出城を破壊する、という条約が結ばれました。
大坂城を徹底的に丸裸にする徳川の策略でした。
その策にまんまと乗ってしまった、大野治長は先の読めない人物・・・そんなレッテルを貼られても仕方ありませんね。
顔だけの人だったのか・・・と後世の私たちはツッコミを入れたくなります。
大野治長の最期
大野治長の最期は、落城する大坂城での自害です。
大坂城は、冬の陣を経て、また夏に戦場となりました。
それが、「大坂夏の陣」です。
真田幸村たちが、良い戦いぶりを見せてくれたものの、力かなわず次々戦死しました。
大坂城の最期はもう目の前に迫ってきました。
大野治長は最後の願いとして、茶々(淀殿)、秀頼の助命嘆願書を千姫に持たせて送りました。
千姫は、家康の孫で、大坂秀頼のもとに嫁にきていました。
家康は孫娘の千姫を溺愛しているから、助命を願う仲介者としてちょうど良い、と思われたのです。
そして、大野治長は、茶々、秀頼を救うためなら自分の命を投げ出そうと、申し出ていたのですが、その願いは叶うことはありませんでした。
ついに、大野治長は、茶々、秀頼、そして自分の母親 大蔵卿とともに自害しました。
1615年5月8日
大野治長 享年47歳。
大野治長とは?
大野治長は、大野修理(おおのしゅり)、修理亮(しゅりのすけ)とも呼ばれています。
茶々に近づけた身の上であるにも関わらず、この人物に関する資料はほとんど残っていません。
ですが、千利休の弟子で、陶芸で有名になった古田織部に茶道を習い、茶人としての名前を残しています。
妻もいましたが、その名前、生年月日は知られていません。
ただ肖像画があるのみです。
肖像画があるから、実在したということなのですね。
1959年、「徳川家康暗殺計画」というものが発覚しました。
首謀者は前田利家(まえだとしいえ)の息子、利長(としなが)。
暗殺計画に、乗ったとされるの人物の一人が大野治長でした。
大野治長は罰を受け、下総の国に流罪となりましたが、1600年には罪を許されて、関ヶ原の戦いでは、東軍に味方しました。
なぜ豊臣の敵方に?と思うかもしれませんが、関ヶ原の戦いは豊臣家と徳川家の戦いでは、なかったからです。
誰が豊臣秀頼をお守りするか、を争う戦だったからです。
大野治長は秀頼を守ために、東軍についた・・という考えができます。
関ヶ原の戦いで徳川の東軍が勝利すると、秀頼のもとで仕える、と言って、豊臣家に戻りました。
今度は「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」で完全に徳川と敵対する関係になりました。
大野治長は以前として、秀頼・茶々親子に忠義を尽くしていたのですが、徳川家は今度こそは、豊臣に代わって天下を取ろうと、考えていたからでした。
大野治長と弟の仲
大野治長は4人兄弟でした。
特にその仲がどうだったかと問われる時に出てくる弟が、大野治房(はるふさ)です。
治房は、兄 治長と大坂の陣では意見が対立しました。
大野治長は、籠城そして和解と言った消極策で乗り切ろうとしましたが、治房は違いました。
徳川勢と戦うことを主張し、自ら戦いを仕掛けるなどしていました。
大坂冬の陣で、豊臣方と徳川方が和睦すると、大野治長は襲撃されましたが、その犯人が弟 大野治房だったようです。
兄のやり方に不満を感じていたからです。
兄弟共々、豊臣家に忠義を尽くした武将ですが、そのやり方が違っていました。
どちらのやり方が正しかったのかは、なんとも言えません。
しょせん、滅びかかった豊臣家は、どう手をつくしても変わらなかったのかもしれません。
大野治長、「どうする家康」で
大野治長・・・2023年大河ドラマ「どうする家康」では、玉山鉄二さんが演じています。
以前朝ドラマ「マッサン」の主役でした。
なかなかのイケメンぶりを発揮しております。
この大野治長は、しぶとい忠義者、豊臣秀頼、茶々に忠節を尽くし、大坂の陣では参謀を務める、という役づけです。
役の性格は、無骨者というそうですが、どうでしょうか?頑固そうに見える感じです。
「どうする家康」では果たして、茶々が大野治長に想いを寄せるところがあるのか・・・?
「どうする家康」で茶々を演じる、北川景子さんは茶々の役作りを、2001年の大河ドラマ「葵三代」での茶々役 小川真由美さんをみて学んだ、と言っていました。
その小川真由美さんが、茶々を演じた時のコメントでは「茶々(淀殿)はイギリスのダイアナ妃に似ている」と言っていました。
どんなに栄華を極めても、心の隅の隙間、寂しさは消えない、その寂しさから恋をするのだ・・・という、話でした。
ですから、自分を幼い頃から知っていて、その寂しさの理由も知っている大野治長に惹かれるのだ、という解釈をなさっていました。
ダイアナ妃も心の隙間そ埋めてくれる人を求めて、恋愛遍歴を続けました。
茶々にとっては、大野治長がそんな相手だったのです。
「葵三代」の茶々から勉強した・・・ということは、「どうする家康」にも、やがて茶々の恋愛事情なども期待できるかもしれません。
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