千姫は、徳川家康の孫娘で、豊臣秀吉の息子 秀頼と結婚しました。
その後、大阪城は徳川の手によって落とされ、秀頼も自害しました。
残った千姫はどうしたのでしょうか?
姫路城に千姫ゆかりの部屋がありますが、千姫はそこで過ごしたのでしょうか?
千姫 大坂城脱出
徳川家康は、淀殿と秀頼に関しては、負けた敵将なので、滅ばねばならぬ、と考えていました。
しかし、千姫だけは大坂城から救出したい。
そこで家康が言ったことは「誰でも千姫を助け出した者に、千姫を嫁にやる」でした。
いくら孫娘可愛さとはいえ、ちょっとあんまりな約束・・・
グリム童話か「南総里見八犬伝」みたいな展開ではありませんか・・・?
戦国武将たちにとって、敵方の娘を嫁にもらうことは、和平そして万が一の人質です。
ですが、ここが複雑なところ・・・
夫婦で情愛が湧くと、夫は妻に生き延びて欲しくて城から出そうとします。
一方妻の方は、夫と共に城で自害するつもりでいました。
千姫と秀頼の間もそうでした。
秀頼と淀殿(秀頼の母)は、なんとかして千姫に生き延びてもらいたいと思い、
「家康に、秀頼の命乞いをしなさい」、「徳川に母上の命を助けてもらうよう説得してください」と頼んで、役目をおわせて、城から出すことでした。
千姫はこの時、後ろ髪を引かれるような思いだったに違いありません。
豊臣の家臣に導かれて城を後にしました。
千姫 助かる
徳川家康の名を受けて、千姫を助け出した人物・・・それは坂崎直盛(さかざきなおもり)という名の武将です。
とはいうものの、本当に自らが大坂城に飛び込んで助けたかどうかは疑問です。
が、言い伝えとしては、坂崎直盛は燃える大坂城にどんどん入っていって、経机の前で一心不乱に祈っている千姫を発見し、連れ出します。
ここで坂崎直盛は、美貌で夫を思いやる健気な千姫に恋してしまったみたいです。
家康の口約束もあるし・・・・もしかしたら、自分がこの姫をいただけるかもしれないと、期待を持ったに違いありません。
こうなると坂崎直盛・・・火事場の力持ちとなるのです。
炎の中を逃げていく最中、坂崎は顔に火傷を負い、容貌が醜生きずが残ってしまいました。
坂崎直盛と家康の約束は、口約束と言われていますが、本心ではなくとっさに出た一言なのですが、後々、トラブルを生む原因となります。
いい迷惑なことを言ってくれました、徳川のじいさんは・・・・
千姫にまつわる怪談話
千姫には、男を取っ替え引っ替えご乱行・・・と悪女の伝説が残っているのです。
悪女伝説が怪談に結びつきました。
千姫の生涯を見ると、幼い頃、豊臣に嫁に行き、豊臣が滅びると同時に、徳川に呼び戻され失意に過ごすうちに、本多忠刻のもとに嫁ぐことになり、その夫も病気で早逝・・・
とまたまた失意の姫となり、一体どこに悪女、そして階段が出来上がる要素があるのか・・・と疑問に思いました。
しかし・・・・あるのです・・・・怖い有名な怪談・・・「番町皿屋敷」です。
番長皿屋敷
怪談と、千姫のご乱行が一緒になったお話です。
場所は江戸の番町。番長は皇居(昔の江戸城)の西にあり、新宿通りと靖国通りに挟まれています。
その屋敷に千姫は住んでおり、毎晩毎晩、男の出入りが絶えないというわけです。
屋敷に入った男は2度と出てくることはない・・・なぜなら口封じのために殺されたからです。
千姫の死後、その屋敷は取り壊され、更地とされました。
江戸で千姫が過ごした、という時期なら、夫 本多忠刻が死んで出家した頃の話ですので、出家した女性がそんなこと、まずしないでしょう。
時がたち、更地には青山播磨(あおやまはりま)という旗本が屋敷を建て、そこからが誰もが知る「番長皿屋敷」の話になります。
旗本家では、10枚揃えの皿が家宝でしたが、皿の一枚が割れたのです。
皿を割った犯人を、お菊という名前の女中だと濡れ衣を着せて、殿様はお菊を手打ちにして、遺体を井戸に投げ込んでしまいました。
その後、「いちま〜い、にま〜い・・・・一枚足りない〜」と夜な夜な数える声が聞こえる・・
このように人の心を狂わせる原因は全て、この土地にある、つまり千姫の怨念からきている。
という結末で締められます。
番町とは、実は播州のことであり、それは姫路のこと。
殿様の名前も 播磨で、姫路を連想される名前です。
この話は歌舞伎にもなっており、芝居の形に仕上げたのは、鶴屋南北という江戸時代後期の名脚本家です。
千姫、なぜ悪女に
ではなぜ、千姫はこのように悪女として扱われたのでしょうか?
千姫は、2番目の夫、本多忠刻亡き後、江戸に戻り出家しますが、黙って隠居するような性格ではありませんでした。
徳川家の縁談に口を出したり、できたばっかりの大奥の内部に干渉したり、時には邪魔者と見られることもありました。
それに、まだまだ残る豊臣家の残党が千姫を利用する恐れもありました。
なにしろ、秀頼の元妻だったのですから。
豊臣家残党が出張ってくることを恐れた、徳川政権内では千姫の評判を落としておけば、誰も千姫を持ち上げようとする人がいなくなる、と考えたのでしょう。
ですから、男好きな姫・・・なんて噂を流しておけば、豊臣の忠義者たちは千姫を見捨てる、という計算でした。
かつて、千姫に想いを寄せたものの、うまくいかず千姫の嫁入り行列を襲った、坂崎直盛のことも、例に入れていました。
千姫が坂崎の傷を負った醜い顔が嫌で、美男の本多忠刻に惚れ込んだ・・・として千姫の名誉を貶めたのでした。
現代なら、千姫は名誉毀損で訴えていいぐらいです。
姫路城に「お菊の井戸」が・・・
姫路城内に「お菊の井戸」と呼ばれる井戸があります。
この井戸はまた別の伝説があり、1500年代の話です。
こちらは家臣のお家乗っ取りが関係しています。
乗っ取りを企んだ家臣の名前は、青山。
青山は城主を毒殺しようとしたのですが、それに気づき通報したのが、別の家臣の側室だった、お菊。
お菊はその後、乗っ取り計画がどのようになるのか、城に残って青山の動向を探るスパイの役割を果たすのですが、青山の部下に気づかれ尋問されることとなりました。
尋問の際に使った小道具が、10枚揃えの皿。
皿を一枚無くした罪で、青山たちは菊を拷問し、殺してしまいます。
青山たちは、お菊の遺体を井戸に投げ捨てるのですが、その日から「いちま〜い・・・」と数える声が・・・
その時の井戸が「お菊の井戸」と言われて姫路城内に残るのです。
ですが、「お菊の井戸」は実は城内へ通じる秘密通路で、そこに人が近づかないように、わざと怪談を流したという説もあります。
江戸の話と、姫路の話、共通点が多いです。
お菊、家宝の皿、青山、播州、井戸・・・
話としては、姫路の方が始まりではないでしょうか。
江戸の話は、千姫を貶めるため、「ちょうど千姫がいた姫路に良い話があるぞ」、ということで、江戸バージョンが、今も残る怪談「番町皿屋敷」となったのだと思われます。
千姫の再婚
家康が、千姫を大阪城から救い出したものに千姫を嫁にやる、と言ったかどうかの真偽はともかくとして、千姫は再婚することとなりました。
千姫、再婚する
家康は、千姫を溺愛してたので、可哀想と思っていたのでしょう。
千姫の相手は、徳川四天王の一人、本多忠勝(ほんだただかつ)の孫、忠刻(ただとき)です。
1616年、本田忠刻の領地、桑名藩(三重県桑名市)へ嫁いで行きました。千姫、まだ19歳でした。
本多忠勝って誰だっけ・・・?と思った方に・・・・2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」で山田裕貴さんが演じた武将です。
本多忠勝の娘は、真田家の長男、信之(のぶゆき)の嫁となっています。
忠刻の母は熊姫といい、松平信康の娘です。
松平信康は、かつて織田信長の時代に、反乱を疑われて自害に追い込まれた人物です。
千姫の父、徳川秀忠の母親違いの兄弟つまり、忠刻は千姫にとっては腹違いの従兄弟という間柄になります。
徳川家にとっては、家臣であり、徳川の血を引くため、千姫の結婚相手として申し分ありません。
もう一つ、本多忠刻は美男でした。
千姫はその美男ぶりに参ってしまった、ということです。
出会いは、大坂城を出て徳川の元に向かう時、江戸まで船で行ったのですが、そこに乗り合わせたのが、本田忠刻で、その時惹かれて千姫は恋に落ちたという話です。
しかし、江戸まで行く途中で恋に落ちた、というのは少し腑に落ちません。
江戸に向かう千姫の心は、豊臣秀頼のこと、秀頼と淀殿助命のこと、秀頼の子供を助けること・・・でいっぱいだったはずです。
他の男性に目を奪われている余裕はありません。
同じ船には乗っていたかもしれませんが、話しかけた程度ではなかったでしょうか?
本田忠刻は、傷心の千姫に優しい言葉でもかけたのでしょうか?
多分、千姫はそれで心が和んだ・・・という程度だと思います。
坂崎直盛 騒動
千姫の再婚を聞いて、暴挙に及んだ人物がいました。
それが坂崎直盛です。
家康が、「千姫を助け出した者に、姫を嫁に・・・・」なんて無責任な発言をしたばかりに・・・
助け出したから、千姫と結婚できると思った坂崎直盛は、これでは約束が違う、とばかりに千姫強奪事件を企てました。
その頃、坂崎直盛は津和野藩主という身分になっていたのですが、なんと、千姫の輿入れ行列を襲うという計画を立てました。
事前にその計画は知られ、直盛は家臣たちの手で殺害され、幕府への報告は直盛の自害としました。
しかし幕府は真相に気がつき、坂崎家は取り潰されました。
坂崎家は、元は豊臣家の家臣、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の一族でしたが、宇喜多家との折り合いが悪く、当主、宇喜多秀家と対立し、徳川家康の元に預けられます。
そのまま関ヶ原の合戦で、東軍として参加していた、という経歴がありました。
となると、徳川家からの信頼は薄かったに違いありません。
徳川は、豊臣の旧家臣が千姫に近づくのを、恐れたために、このような話を作り上げたのかもしれません。
坂崎直盛の方は、千姫の美貌に打たれただけではなく、徳川家との絆も作りたくて千姫と結婚したかった、とも考えられます。
千姫と姫路城
千姫と本多忠刻が結婚した翌年、1617年、本多家は播磨姫路に移封(いほう)になりました。
移封とは、大名が他の土地に移されることで、国替とも言います。
そして、天下の名城、姫路城に住み、播磨姫君(はりまひめぎみ)と呼ばれました。
姫路城には、西の丸に千姫の化粧櫓(けしょうやぐら)という棟があります。
千姫がここで化粧をするために使った場所というわけではなく、本多忠刻と千姫が姫路に向かうときに、徳川家が千姫に渡した化粧料で作った建物だからです。
化粧料とは、名家の娘が結婚するときに、実家が渡す持参金に相当します。
または年金、寡婦年金のような名目で渡す時もあります。
化粧櫓は奥御殿として建てられましたが、千姫は実際、ここには住みませんでした。
千姫、本多忠刻との生活は
本多忠刻は美形でしたし、千姫もまた美人でした。
なにしろ、母親は、浅井三姉妹の江姫、祖母は戦国の美女と謳われたお市の方でしたから、千姫のその血筋を引く美女でした。
つまり、美男美女のカップル。
千姫が美男の本多忠刻に惚れ込んだと言いますから、仲も良かったのでしょう。
二人とも幸せな日々を過ごしたと言います。
しかし、夫は結核にかかり、早死にしました。1626年5月7日・・・
なんと、大坂城が落ちた日と同じ日付でした。
千姫は運命を感じたでしょうか?
自分は幸せになってはいけない・・・なんて考えたでしょうか?
本多忠刻が千姫を愛した印に、忠刻は千姫に「包永」(ほうえい)という名の太刀を残しました。
夫が亡くなった同年6月に、忠刻の母 熊姫が、さらに翌年9月には千姫の母、江姫が亡くなります。
千姫は、夫の方は「包永」を拠り所として残りの人生を過ごしました。
千姫の子供
千姫と秀頼の間には子供ができませんでした。
しかし秀頼の方は側室との間に子供があり、男子は国松と言いましたが、大坂城落城の後、処刑されました。
豊臣家の血を引く男子なので見せしめのため、京都市内を引き回した上斬首です。
その時、国松は8歳だったので、かなり厳しい処罰です。
千姫が、一生懸命家康に助命を願い出たのですが、叶いませんでした。
徳川方にすれば当然ですが・・・・
秀頼の遺児には女子もおり、こちらも千姫は命乞いをしました。
こちらは女の子なので、尼になれば、ということで助けられました。
千姫は、その後、本多忠刻と再婚しました。
姫路城に移ってから、一男一女を産みました。
しかし跡取りなるはずの息子は、2歳で亡くなっています。
その2年後、夫の本多忠刻も亡くなりましたので、秀頼の祟り、などとも噂されました。
残った娘は、勝姫と言い、本多忠刻の死後、母 千姫と共に江戸に戻りました。
勝姫は成長すると、祖父 徳川秀忠の養子となり、岡山藩主 池田光政(いけだみつまさ)の正室となりました。
この血筋は、公家にまでさらには幕末、徳川家最後の将軍 慶喜(よしのぶ)にまで流れていきます。
千姫の最後
29歳で、2番目の夫 本多忠刻に先立たれ、30歳で出家し、江戸に帰りました。
出家した後の僧名は「天樹院」(てんじゅいん)です。
千姫は江戸城で大事にされ、江戸城内の竹橋御殿に住まいました。
竹橋は現代でも皇居のすぐ近く、竹橋駅でです。
当時は、江戸城内だったのですね。
「番町皿屋敷」の話を持ち出すと、その頃千姫がいたのは、吉田屋敷と言われ、現代でいえば四番町あたりだったらしいです。
竹橋御殿に住む前です。
天樹院となってからは、3代将軍家光(いえみつ)の姉、ということで誰もが一目置く存在となっていました。
結構な権力もあり、特に大奥にはいろいろ口を出したそうです。
大奥内では嫌がられていたのかもしれませんね。
亡くなったのは、千姫70歳。1663年3月11日。
死因は肺炎だったと言われています。
晩年、肺が弱くなってきていました。
墓は3箇所あります。
京都の知恩院(ちおんいん)、天樹院弘経寺(茨城県)、伝通院(東京都文京区小石川)それぞれに分骨して収められました。
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