NHK、2024年度大河ドラマ「光る君へ」にまた新しい登場人物が生まれるかもしれません。
紫式部の娘、藤原賢子です。
母親と違い、名前がしっかり残っています。
紫式部と同じく、百人一首に歌が入れられているところから、文人としても一流です。
身分の上では、母を追い抜いたのですが、母のおかげで、有名になった人物でしょう。
恋愛経験も多く、結婚も2度しました。
藤原賢子は、紫式部と、どんな違う人生を歩んだか、検証してみようと思います。
藤原賢子、その読み方
藤原賢子は、ふじわらかたいこ、かたこ または けんし と読みます。
歴史的に、解説する時には、「けんし」と呼びます。
NHK大河ドラマ「光る君へ」では「かたこ」ですね。
名前、として呼ばれるときは「かたいこ」の方が名前らしく聞こえます。
平安時代の女性では、名前が後世まで知られているのは珍しいです。
と言うのも、賢子は、親仁親王(ちかひとしんのう、のちの 後冷泉天皇)の乳母を務めたからです。
乳母となったために、三位と大弐の位の名前として、「大弐三位」(だいにさんみ)と名乗ります。
別名は、藤三位(とうのさんみ)、越後弁(えちごのべん)、弁乳母(べんのめのと)と一呼び方もされます。
「藤三位」は、三位と言う位から、そして藤は、母の苗字、藤原にちなんでいます。
乳母(めのと)と言うのは名前の通り、乳母のことです。
「越後」がつくた名前は、祖父の藤原為時、が越後守をしていたところから来ています。
このように、平安時代では名前は、本名はなかなか呼んでもらえませんでしたが、自分にゆかりのある名前が役職と結びついて、公的に呼ばれていたのです。
藤原賢子、と名前が残っているのは、賢子さん相当、大物の平安女性だった、ということを示しています。
藤原賢子、紫式部との親子仲
「光る君へ」の中では、親子断絶の危機を見せた時期もありました。
藤原賢子と紫式部の親子仲は気になるのですが、それを匂わせる記録が見つからないのが残念です。
記録がないからこそ、脚本家にとっては腕のふるい甲斐のあるというもの。
平安時代は、現代とは親子関係も、違っていました。
現代のように、両親と子供が一つ屋根の下に暮らす、わけではありません。
藤原賢子は、母を嫌っていた?
「光る君へ」の中では、藤原賢子は、母のことを、そんなに慕っている様子ではありませんでした。
最も、それは手をかけて欲しいときにそうしてもらえなかった、反動と見えます。
藤原賢子は紫式部の娘で、999年ごろの生まれのようです。
和歌が大好きな人なら、藤原賢子のことを大弐三位(だいにのさんみ)、とご存知だと思いますが、名前だけでは、紫式部ほど、有名ではないかもしれません。
「光る君へ」の中では、母が仕事に追われて、賢子は母との触れ合いを求めていたけれでも、母はそれに気がついていないようだった、という流れです。
ちょうど、現代社会で、キャリアウーマンとその子供との関係を見るようです。
平安時代の親子関係は、服藤早苗さんの著書「平安朝の母と子」に書かれていますが、現代より、子供は早く自立しなければならない、環境にありました。
特に身分の低い者たちは、親は一生懸命働かなければならず、子供は自立が要求されました。
これは、庶民はもちろんのことですが、下級の貴族たちも似たような状態でした。
ですから、幼い時代の、藤原賢子が、母親にあんまり構ってもらえなかったのは、ある程度仕方がないこと、と考えられます。
母 紫式部のキャリアウーマン像が見えてはきますが、現代とは違うことは、紫式部が働かないと一家の食い扶持がなくなる、という悲壮な気持ちがその下に見えてきます。
藤原賢子、母より身分が高く
将来は、賢子は、位の上では、母親を追い抜きました。
なにしろ、「賢子」という名前が残っているのですから。
これは、賢子が、天皇の乳母を務めたことで、従三位(じゅさんみ)という位を授けられたからです。
母 紫式部を抜いたのですが、藤原賢子が取り立てられたのも、母の縁で、中宮彰子に仕えたところから始まります。
彰子に取り立てられたのも、母が「源氏物語」を書き、それがベストセラーになったからでした。
有名な歌人と言われるようになったのも、母の才能譲りです。
母 紫式部あっての 藤原賢子だった、ということですね。藤原賢子は、15歳の頃、母に連れられて 中宮 彰子(その頃は、天皇が代替わりして、皇太后となっていた)のもとに上がったのではないか、と最近の研究で言われています。
藤原賢子、「紫式部日記」を読んだ?
宮中で母 紫式部から宮仕えのノウハウを学んだようです。
やはり 紫式部 なしでは、藤原賢子は出世できなかったでしょう。
でも「親の七光り」で終わらなかったということは、紫式部は良い子育てをした、だからではないでしょうか、と私は思います。
少女時代寂しい思いをしてはいても、母の背中を見て育った、という感じが私にはします。
紫式部は「紫式部日記」の一部を手紙の形にしており、その部分は娘の 藤原賢子に当てたのではないか、という見方が最近ではあります。
貴族たちが、日記を、子孫の戒めとするような習慣があったからです。
そういった類の手紙は、若い時は大したものと思わないのですが、ある程度年を取ってくると、グッと胸に沁みるものがあります。
藤原賢子も、そんな気持ち、持ったのではないでしょうか?
藤原賢子の父
藤原賢子の父は、藤原宣孝です。
今の「光る君へ」でいうと、佐々木蔵之介がキャスティングされている方です。
「光る君へ」では、藤原宣孝は越前にいるまひろ(紫式部)にプロポーズしました。
藤原賢子は、藤原宣孝の娘で、間違いありません。
現代の、学者や評論家が書いている本に必ず付属している、紫式部の系図を見ると、藤原賢子は、紫式部と、藤原宣孝の娘、として記載されています。
藤原賢子が生まれて、まもなく亡くなったため、娘には父親の記憶はほとんどありませんでした。
藤原賢子と藤原道長、親子関係がある?
藤原賢子の、父である可能性
2024年7月、NHK大河ドラマ「光る君へ」で今、話題騒然なのが、藤原賢子は道長の父である、という、エピソードです。
このすぐ上の記事に、「藤原賢子の父は藤原宣孝」と書いたばかりなのに…
では、この説は可能性があるか、見ていきましょう。
可能性は少ないです。
その理由は、紫式部は、宮中の彰子に仕えるまでは、藤原道長との付き合いはなかったからです。
「紫式部日記」から見たところ、宮中に入る以前のことに、藤原道長の記述がありません。
大貴族の道長と、ほんの中流貴族の紫式部の接点は、平安時代としてはありえないことです。
だからと言って、可能性なしとは100%の確証を持っていうこともできないと、思われます。
資料が見つかっていないかもしれません。
藤原賢子は、将来、「大弐三位」という高い位に着きます。
歴史上に「賢子」という名前が残ります。
そんな高い地位につくことができるとは、父親が裏についていたから。
それは道長だったんだろうか?とあらためて想像力を逞しくしてしまいました。
藤原賢子はなぜ、道長の娘、と設定されたの?
「光る君へ」のストーリーにしたがうなら、藤原賢子は「不義の子」ということになります。
この辺り、NHKらしからぬ設定と思ってしまいます。
これは制作者側が、「不義の子」とすることで、「源氏物語」とリンクさせるのでは、という意見が、聞かれます。
これは、「なるほど」の意見です。
源氏物語には二人の不義の子が、登場します。
一人は、主人公 光源氏と中宮 藤壺の子。この子供は不義の子という事実を誰一人知ることなく天皇になります。
もう一人は、「薫の君」、柏木(源氏の親友 頭中将の息子)と、光源氏の妻 女三の宮との間の子です。
世間は光源氏の息子を見ています。
なるほど、そこに引っ張るのですね。
藤原賢子の父、と名乗りをあげる、藤原宣孝
「光る君へ」では、まひろ(紫式部)が道長の子供を産んだことで、自分一人で子を育てようと、決意していました。
それに対し、藤原宣孝は、子供を自分の子とする、と宣言しました。
そのキッパリとした決意の程は、源氏物語の、悩んだ光源氏の様子は微塵も感じさせません。
ここで、藤原宣孝が、はっきり言い切ったということは、藤原宣孝は心が広い人物だったのでしょうか。
それとも、何か心に思うことが…
将来娘を使って、藤原道長を脅すとか?自分を有利な地位などを手にしよう、とでも考えていそうですね。
しかし、その将来がどうなる前に、藤原宣孝が死んでしまうのですから、ここが残念です。
もっと、どんな結末になるか見たかったですね。
藤原賢子、誰?
藤原賢子、と言う名前の女性は、平安時代に二人いました。
今回、取り上げるのは、大弐三位と言う役職名がついた女性の方です。
藤原賢子は、大弐三位(だいにのさんみ)という名前で、有名です。
藤原宣孝の娘で、母は紫式部。
母の後を継いで、中宮(ちゅうぐう) 藤原彰子(ふじわらしょうし)の元に仕えます。
その後は、1025年、後朱雀天皇の第一皇子 親仁親王の乳母になります。
親仁親王は、藤原賢子が仕えていた、中宮彰子の孫にあたる皇子です。
しかも親王の母は、藤原嬉子(きし または よしこ)といい、彰子の妹にあたります。
この時期の、藤原賢子は、両親はすでに亡く、祖父の藤原為時も出家していたので、引き立ててくれる人はいませんでした。
ですから、藤原賢子は、彰子から非常に信頼されている証拠です。
紫式部の娘というだけでなく、テキパキ仕事ができるというイメージができますね。
乳母、と言う地位にある人物ですが、この藤原賢子、つまり大弐三位という方、歌人として有名です。
宮中で行われる、歌合大会の常連さんでした。
藤原賢子は80歳ほどまで生きており、その頃でも宮中で行われた歌合大会にも出場していました。
元気な婆さん、という感じです。
死んだ年については、記録が残っていません。
息子の、高階為家が、1082年頃「母のことでちょっと…」と言って、役目を断ったことがあったので、その頃に亡くなったのかもしれません。
藤原賢子の歌、百人一首に
母の紫式部は知っているけれど、その娘は…と思われる方でも、歌なら聞いたことがあるのではないでしょうか?
一番有名なのは、小倉百人一首に収容されている歌です。
「有馬山 猪名(いな)の笹原風吹けば いでそよ人を 忘れやはする」
(意味: 有馬山に近い猪名という笹原の地に風が吹けば そよそよと風音がします そうです、あなたを忘れることなんてできません)
ここでは、「いでそよ」の「そよ」を「そうよ」という言葉にかけています。
「有馬山〜風吹けば」の箇所は、「そよそよ」を引き出すための、導入部なのです。
歌に隠されている気持ちは、「私はあなたを忘れることはできませんが、あなたの方は私のことを忘れてしまったのではありませんか?」ということです。
この歌は、藤原賢子が、中宮彰子の元にいる時に作られた歌、と研究家たちはみているようです。
藤原賢子の結婚
藤原賢子、1回目の結婚
最初の結婚相手は、藤原兼隆(かねたか)。
なんと藤原道兼の息子です。
「光る君へ」の視聴者が見ると、「まひろの娘が、祖母の仇の息子の嫁になるの?」となりますが、まひろの母殺害事件は、番組の創作です。
ですから、紫式部が、藤原賢子と藤原兼隆の結婚に反対した、というわけではなさそうです。
藤原賢子は、子供(娘)を産むと藤原兼隆と離婚します。
これは、藤原兼隆が、暴力的な性格で、従者などに暴力を振るっていた、ことが原因だと思われます。
藤原兼隆が暴力的な性格で事件を起こすことが、藤原実資の「小右記」に書かれています。
藤原賢子との離婚理由までは、「小右記」には書かれていませんが、暴力的な夫を見ていると、その影響が娘に及んでくるのではないかと、藤原賢子は心配したのでしょうね。
藤原賢子、2回目の結婚
藤原賢子は、30代半ばで、再び結婚します。
今度のお相手は、高階成章(たかしななりあきら)。
東宮御所で働いていたので、東宮の乳母だった、藤原賢子とは東宮での出会いだったのでしょう。
高階成章は、藤原賢子からみて10歳ほど年上でした。
親子揃って、年上の男性が好きだったのかな?
高階成章は、1054年 福岡県太宰府で次官としての役職につきました。
その役職名が「太宰大弐」(だざいだいに)。そう、藤原賢子の、大弐三位の呼び方は、夫の役職からきているのでした。
その時、藤原賢子は女官の役目についていたので、福岡まで同行せずに、高階成章は単身赴任となったわけです。
ですが、藤原賢子は、2回ほど夫に会いに福岡まで行っています。
平安時代は、単身赴任手当も有給休暇もなかったので、藤原賢子は、きっと、自分の上司(多分、後冷泉天皇)に一生懸命願いでたのでしょう。
今でこそ、東京からでも、関西からでも札幌からでも福岡へは、飛行機に乗ってひとっ飛びですが、平安時代は、関門海峡も渡らなければならなくて、20日ほどもかかったようです。
関門海峡を渡った時の、藤原賢子の歌が残されています。
「後の旅 つくしにまかりしに 門司の関の波の荒ふたてば
ゆきとても おもなれにける舟路に 関の白波心してこせ」
(意味: 二回目の旅だけれど、関門海峡の波はなんとも厳しい
福岡に向かう路は慣れてきたけれど、関門海峡の荒い白波だけは、心して超えなければならない)
上の段は、詞書と言われる、歌のタイトルのようなもの。下の段が、歌です。
藤原賢子の、旅に一生懸命な様子が伝わってきます。
夫への愛情が伝わってくる歌です。
藤原賢子は、恋愛経験豊富
藤原賢子は、恋多き女性だったようです。
そうした性質は、母 紫式部とはかなり違っていました。
紫式部はどちらかというと、奥手で慎重なタイプでした。
恋愛体質は、父親似なのでしょうね。
性格も、明るいということなので、父親譲りといえます。
結婚する前から、藤原頼宗(よりむね、藤原道長の息子)、藤原定頼(さだより、藤原公任の息子)たちと恋愛関係を持っていました。
特に、藤原定頼とは和歌のやりとりが盛んでしたが、これは単なる恋愛のためだけでなく、のちに作られた、「新古今和歌集」のため(作品作り?)でもあったようです。
「新古今和歌集」二人のやりとりの歌が、載せられています。
藤原賢子、白河天皇の中宮??
平安時代に、藤原賢子が二人存在します。
一人が、紫式部の娘、大弐三位になった女性。
もう一人は、 1057〜1084年、の藤原賢子です。
こちらは「かたこ」という名前の読み方です。
この賢子は、白河天皇の中宮になりました。
藤原師実(もろざね)の養子ということですから、藤原道長の孫の養女にあたります。
実の父は、源顕房(みなもとのあきふさ)といい、天皇家の血を引く姫君でした。
今回取り上げている、紫式部の娘 藤原賢子 より、かなり身分が上です。
ふたりの 藤原賢子が登場した時代も似ているので、とても紛らわしいです。
藤原賢子の子孫は
藤原賢子は、藤原兼隆と結婚し、一女を、高階成章と再婚して、一男一女をもうけました。
最も、これまで藤原兼隆の子、とされていた娘は、当時の血縁を記した「尊卑分脈」(そんぴぶんみゃく)記載がないところから、兼隆の子供ではない、という疑いも出てきました。
藤原兼隆との結婚は、デキ婚だったので、その時に、藤原賢子と付き合っていた、藤原公信の子供である可能性が、疑われています。(荻谷 朴 の説)
平安時代は、モテる女性なら、二人同時に恋人がいてもそれほど、不品行とは思われていませんでした。
高階成章との子供たちは、息子・孫、それぞれ天皇や、内親王(姫)に近く仕える、臣下に、娘の子供(孫娘)も内親王のもとに、女房として仕えていました。
この子供達のうち、一人が、天皇家と繋がっている、という話もありますが、そのような話はありません。
しいて言えば、紫式部の家の本家、藤原家の血が流れている、ということだけでしょうか。
コメント