2025年度のNHK大河ドラマ「べらぼう」も、終わりに近づいてきました。
ところが、11月現在、この時代の有名人 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)がまだ登場していません。
写楽の正体には、番組独自の仕掛けが何か用意されているような気がしてなりません。
東洲斎写楽の正体は一体?喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と同一人物、という説まで飛び出しています。
べらぼうを見ながら、謎の多い東洲斎写楽の正体、調べました。
喜多川歌麿と東洲斎写楽は同一人物?
史料としては、喜多川歌麿と東洲斎写楽の同一人物性を示すものは何一つありません。
それでも、長年にわたり、歌麿・写楽の愛好家、歴史研究者たちからは、2人の同一人物説を疑う人は多いです。
同一人物説が出た理由は、喜多川歌麿と東洲斎写楽の絵の作風に類似点が見られるからです。
喜多川歌麿・東洲斎写楽、作風が似ている?
主に似ていると言われていることは、下記の三点です。
どちらも「大首絵」を描いている。
「大首絵」は、被写体の顔を、実際の体から見るとアンバランスなまでに強調し、絵の鑑賞者にモデルの顔を印象づけます。
ただし、モデルが喜多川歌麿の場合」は、美人画で、東洲斎写楽は、役者が多いです。
あえて、テーマを2人の人間として使い分けたことも考えられますね。
背景をほとんど書き込まずに、人物を強調される描き方。
黒色を使って、人物の陰影を表している。
画風の類似点を見つけるだけでは、同一人物説を証明するのは難しいですが、要素の一つではあります。
喜多川歌麿・東洲斎写楽、版元が同じ?
東洲斎写楽の絵を出版を手がけたのも、喜多川歌麿と同様、蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)でした。
版元が同じ、ということは、蔦重の時代の人気者を扱う、と言ったら、蔦重の店で、やってもらうのが定番でしょうね。
しかも、蔦重は、江戸の町民を自分のところで出したもので、驚かせるのが大好き。
ということは、喜多川歌麿と東洲斎写楽、「実は 同一人物でした」と蔦重が種明かしをして、江戸庶民をびっくりさせる、こんな演出、あるかもしれない、と思うところです。
蔦重はこの頃、謹慎、見半分の処罰から開けたところで、その財産の半分を罰金で取られていたため、自分の財産を再び取り戻したい、と思っていました。
ですから、ここ1発、という大きな仕掛けを狙っていたと思われるのです。
「べらぼう」の中では、まさに、喜多川歌麿が蔦重の店から離れようとしており、その結果が気になっているところですが。
実は、これは歌麿と蔦重が仕組んだ売り出し作戦の一つだったのでは?ということが考えれえます。
喜多川歌麿・東洲斎写楽、活動時期の交代?
東洲斎写楽の絵が、目につくようになったのは、1794年(寛政6年)あたりです。
その頃に、喜多川歌麿は、蔦屋重三郎こと蔦重のところから離れようとしています。
蔦重の耕書堂からは、歌麿の作品が消え、東洲斎写楽の絵が突如現れる。
見方によっては、蔦重はちょうど良い、歌麿の変わりを見つけた、とも言えるのですが、
同一人物なら、素晴らしい演出、まさに、寛政時代の名プロデューサー蔦重の手腕!と喝采を受けることになります。
それに東洲斎写楽は10ヶ月くらいしか、活躍しませんでした。
選手交代のような画家の登場は、歌麿と東洲斎写楽が同一人物では?という、筋書きを作り上げるためでは、と思えます。
喜多川歌麿・東洲斎写楽、同一人物であることは可能?
現在なら、著作権の問題、なりすましなどがバレて、罪に問われるでしょうが、江戸時代では、名義を変えることはたいしたことではありませんでした。
版元(出版社)との仲が悪くなる、幕府からの検閲がかかった、といった理由で、違う名前で出版する、そんな話はありました。
ということは、喜多川歌麿が突然、東洲斎写楽となって、作品を発表する可能性はあります。
江戸時代なら、問題なし、ですね。
「べらぼう」の中では、喜多川歌麿と、出版元である 蔦重の仲にひびが入りつつあり、歌麿は蔦重から離れることを、考えています。
史実でも、喜多川歌麿は、蔦重のもとを去り、蔦重は、東洲斎写楽の作品に目をつけ、売り出しにかかります。
ここで人気者が、歌麿から東洲斎写楽にバトンタッチです。
ここにカラクリがあり、2人が同一人物の筋書きが用意されている?
東洲斎写楽・喜多川歌麿 同一人物説は、蔦重が わざと仕掛けた新しい演出、となる予想も、含んでいます。
東洲斎写楽の顔は
東洲斎写楽、というと誰もが、大きな顔、小さな手、きゅっと結んだ口、の人物が頭に浮かびますが、これは写楽の自画像ではなく、役者絵です。
次々と出てくるものは、役者を「大首絵」として書いたものばかり、自画像と思えるものは見つかりません。
一方の、喜多川歌麿には、肖像画が出てきますが、東洲斎写楽に関してはありません。
それがまた、東洲斎写楽という人物を謎としています。
もしかしたら、喜多川歌麿と同一人物ではないか、という疑いを持たせるのです。
東洲斎写楽は、活躍した期間が少なかったから、自画像を含め、肖像画を描いてもらうほどのヒマがなかった、という理由があるかもしれません。
東洲斎写楽の正体は?
一般的に、東洲斎写楽の正体そして知られているのは、「斎藤十郎兵衛」(さいとうじゅうろべえ)という能役者、と言われています。
それは、1800年代の、斎藤月岑(さいとうげっしん)という、考証家(歴史事実を調べ、その正当性を探る仕事、現代で言えば、歴史研究家、にあたる)の書物によるものです。
斉藤月琴の「江戸名所図解」によると、『斎藤十郎兵衛は、八丁堀に住む阿州侯の能楽師』ということが書いてあります。
阿州侯とは、阿波藩、今の徳島県のことで、江戸八丁堀に、藩の中屋敷がありました。
また、東洲斎写楽が絵の題材に使った芝居小屋も、八丁堀にありました。
しかし、斎藤十郎兵衛の存在をしめす史料がなかったことと、能役者が絵が絶妙に上手いわけがない、と思われたことから、写楽は他の有名絵描きの別人、という説ができました。
東洲斎写楽はなぜ消えたか?
それは東洲斎写楽が、リアルさを追求したところで、嫌われるようになってしまったところにあります。
東洲斎写楽は、役者本人の特徴を、良い点も、欠点もデフォルメして描きます。
長所も欠点も、描くことはその役者の個性をあらわすための必要な手法ですが、描かれる役者にとっては嬉しくないこともあります。
例えば、現代でもある女性がの皺が個性と言って、皺を強調して描かれたら、モデルは嫌だと思うでしょう、美人に描かれる方がはるかに嬉しいと思います。
東洲斎写楽の役者絵について、同時代の作家 大田南畝(おおたなんぼ)は、
「(写楽は)、実際のモデルにあまりにも似るように書き込んだことで、描かなくて良いところまで書いてしまっっために、人気はなば続きしなかった」
ということを書いています。
ひとたび人気が落ちてしまうと、なかなか復活できないのが人気稼業というもの。
東洲斎写楽の人気も、V字復活とはならず、もはや蔦重の力を使っても、どうしようもありませんでした。
東洲斎写楽は「しゃらくさい」?
発音が似ているから、「写楽」から「しゃらくさい」がきたか、と思うのですが、実は逆です。
「しゃらくさい」の方が先で、「写楽」が後というのが通説です。
写楽部には、絵に書き入れる名前がありそれを「号」と呼んでします。その号は「斎」で、写楽は「写楽斎」(しゃらくさい)と書き入れています。
では、「しゃらくさい」という言葉をご存知でしょうか?
意味は、「自分をわきまえず、しゃれたまねをして、生意気だ」、「似合ずみっともなく、バカババしい」ということです。
「くさい」は「臭い」でとも取れます。
「しゃらくさい」は元々、「しゃらくさし」という言葉で、後々、けんかの捨て台詞でお馴染みの言葉になりました。
「しゃらくさい」から、さらに「しゃらくせえ」とより乱暴な言い方になっています。
現代ではあまり使われることはありませんが、「火事と喧嘩は江戸の華」と呼ばれた、江戸時代は、血気はやった町人が「しゃれくせえ」と言って、しょっちゅう喧嘩していたのでしょうね。
そんな、ペンネーム(?)を写楽は選んでつけたのでした。
東洲斎写楽は、罪人だった?
東洲斎写楽が罪人だった、という記録はありません。
写楽が罪人だった、というエピソードは、小説の中でしかみられません。
罪人とした小説は、高橋克彦の「写楽殺人事件」が有名です。
「写楽殺人事件」の中では、写楽はキリシタンでもあります。
それは東洲斎写楽の作品には、十文字がたくさん出てくるから、いうことです。
それでも明らかな十字架ではなく、描かれた相撲取りのヘソが十文字型にに描かれていた。刀が二本十字形に組んだ形に描かれていた、からです。
でもそれが十字架を表しているかどうかは謎です。
推理小説としてはとても面白いですが、罪人説を裏付けるものがありませんので、「キリシタン」、「罪人」説は、排除して良いと思います。
ですが、今日でも推理上で、「罪人」説が上がってくる、ということは、東洲斎写楽が、突然登場し、10ヶ月ほどしか活躍しないで、姿を消したところが謎だからこそです。
まとめ
東洲斎写楽と喜多川歌麿が同一人物である、この可能性も出てくるほど、東洲斎写楽の存在は謎なのです。
東洲斎写楽が活躍した時期は短く、それが、写楽の存在を謎にしています。
本当の正体は誰だったのでしょう?
現代までで、わかっていることは、斎藤十郎兵衛という能楽者だった、ということのみです。
短すぎた活躍が謎を呼び、それが現代では小説のネタにもなる程です。
それだけ、東洲斎写楽という人物はミステリーになるほどまでに、人気ある歴史上の人物である、ということでしょう。

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