藤堂高虎、石垣つくり・城作りの名人。君主渡りが多い?小一郎との出会い、裏切り者と呼ばれる?

豊臣兄弟

藤堂高虎は、主君を選ぶ眼力と、城を作る技術力と、時代を読む知性を併せ持った、乱世の合理主義者と言えるでしょう。

そのため、「裏切り者」と呼ばれることもありました。

が実力が、単なる裏切り者だけ出ないことを、証明しています。

秀長との出会いがなければ、その才能が花開くことはなかったかもしれません。

ここでは、藤堂高虎の、若い時からどうやって名を上げてきたか、調べ、若い自分の魅力をお伝えしましょう。

藤堂高虎は、石垣作りが得意?

大河ドラマ「豊臣兄弟」では藤堂高虎は、石垣の積み方に執念を燃やしていました。

これはのちに、藤堂高虎が築城名人になるための、布石になる創作と思われます。

藤堂高虎の石垣の石の積み方に文句をつけるのは、安土城築城の時です。

この時、藤堂高虎はどんな口出しをしたかというと、

「城の石垣は、隙間がなさすぎる」、「長い石を使って平らに積んでいくと良い」などを藤堂高虎は主張してましたね。

史実では、ドラマのように、藤堂高虎が、安土城築城に口出しをした記録はありません。

だからと言って、実際にそんな口出しはない、とは言い切れないのが、歴史の盲点で、そこをうまく利用しているのが大河ドラマなのです。

藤堂高虎、城作りの名人?

藤堂高虎は「日本三代築城名人」のうちの1人です。ちなみに他の2名は、黒田官兵衛、加藤清正です。

この3人のうちでも、藤堂高虎は、徳川家康が「築城の天才」となるまで信頼した人物でした。

3人とも全て、戦国時代の武将でした。

藤堂高虎、豊臣秀長のために城を作る!

藤堂高虎が初めて造った城は、和歌山城です。和歌山城の手始めには、紀伊国の猿岡山城の改築を任されてからの築城です。

命じたのは、紀州征伐の大将であった豊臣秀吉によってですが、その城主は、豊臣秀長(小一郎)がなります。

つまり、これは豊臣秀長のための城、だったのでした。

藤堂高虎、築城技術が物を言う?

藤堂高虎の将来は、徳川家康の元に仕えることになりました。

その時も藤堂高虎の、築城技術が大いに役に立ちました。

江戸城改築を任されたたのです。

まさに、「芸は身を助ける」というところでしょうか?

藤堂高虎は、君主わたりの達人?

藤堂高虎は、君主を取っ替え引っ替えした人物なのです。

そんなに主君を変えると、「信頼の置けない奴」と警戒されそうですが、藤堂高虎の場合は、むしろ頼りにされるほどでした。

それは、最終の雇い主、徳川家康が藤堂高虎を重用していたところから、信頼できる人物、という歴史的判断が下されています。

藤堂高虎の初めての君主は?

小一郎こと、豊臣秀長ではありません。初めて仕えた君主は、浅井長政(あざいながまさ)で、身分は足軽です。

姉川の合戦では活躍しましたが、浅井家が織田信長の手により滅ぼされて、失職。

当時の足軽達、下級武士は、主君が敗れると、浪人になるしかありませんから、新しい働き口を探すのです。

就職口を求めてやってきたのが、まず織田信澄(おだのぶずみ)、という織田信長の甥。

織田信澄のところは長続きしませんでした。

しかし、こののち、織田信澄の子孫は、信澄が藤堂高虎と主従関係を築いていたことが大いに役立つことになります。

1人の主君に仕えるのが長続きしていませんが、藤堂高虎の心情は義理堅かった様子が、ここをはじめとし、感じることができます。

足軽出身なら、豊臣兄弟と大して変わりありませんね。

家臣オーディションの事実はあるか?

藤堂高虎は、何人かの君主を渡り歩いたのちに、ついた君主は豊臣秀長でした。

「豊臣兄弟」では、秀吉の3人の部下を決めるために、オーディションがありました。

これは創作の匂いがしますね。こんなオーディションがあったら、楽しそうですが。

これまでの大河ドラマでも、このような家臣を選抜するオーディション、見たことありません。

このオーディションには、これからのストーリの伏線がたくさん用意されていて、

その一つが、石田三成との出会いです。

石田三成とは、のちに藤堂高虎とは反目し合い、その結果、藤堂高虎は、徳川方に味方することになります。

「豊臣兄弟」のオーディション場面では、まだそんな様子は見えませんが、課題の一つに、煙幕を投げ入れられた、部屋に、オーディション参加者たちの行動に、ちょっと様子が見えます。

煙幕の中、逃げようとする、藤堂高虎達、その中で1人、石田三成だけが、「動いてはいけない」という課題前に出された指示を、守ろうとする。その意見の相違が将来を予感させるますね。

藤堂高虎、小一郎と出会う?

藤堂高虎は、小一郎こと豊臣秀長は高虎が長いこと仕えることができた、初めての主人です。

4年の間に次々、主君を変えた藤堂高虎は、小一郎(豊臣秀長)に惚れ込んだのでしょうか?

藤堂高虎を見込んだのは小一郎?

それよりまず、豊臣秀長の方が、藤堂高虎の豪勇ぶりを見込んだのでした。

秀長のところに来るまでの、藤堂高虎は「荒くれ武者」といった有様でした。

周りから藤堂高虎に対する評価が低いものなら、すぐにヘソを曲げて飛び出す、

また、戦争で手柄を立てた時、周りから妬まれると、すぐに怒って相手に切り掛かるなど、いわゆる乱暴者だったわけです。

そんなトラブル引き起こし常習犯のようなことは、江戸時代以降の読み物「三河物語」に書かれています。

どういうきっかけから藤堂高虎は豊臣秀長の家臣になったか、史実は語ってくれませんが、

「豊臣兄弟」の「家臣選びオーディション」などは行われなかったはずです。

藤堂高虎、はっきり意見を述べる人!

藤堂高虎が、豊臣秀長の元に来るすぐ前の主君は、織田信澄でした。

「高山公実録」(「藤堂高虎」の実録記、江戸時代後期に書かれた)のを読むと、

織田信澄とは、雇用条件のことで、高虎と意見が合わなかった(つまり藤堂高虎への給料アップが認められなかった)ことから、藤堂高虎は、織田信澄の家臣を辞めました。

そこで、また浪人状態になりそうなところを、拾い上げたのが豊臣秀長というわけなのです。

藤堂高虎の、給料に関する主張がはっきりしていた、この辺りも小一郎が気に入った点の一つではなかったのでしょうか、と私は考えます。

藤堂高虎が小一郎の家臣になった時、藤堂高虎は21歳、小一郎は37歳でした。

「豊臣兄弟」では、もう少し小一郎と藤堂高虎の年が近いような気がします。

藤堂高虎がこののち、信頼される武将と見なされているのは、小一郎(豊臣秀長)からの信頼があったから、と私は思っています。

豊臣秀長が、藤堂高虎を気に入ったからでしょうか。

藤堂高虎は、豊臣秀長(小一郎)のもとで、人間的に発展を遂げました。

さらに、秀長は、藤堂高虎を旧浅井家家臣たちと付き合わせすことで、高虎の人間性は高まっていきました。

その時から、藤堂高虎は築城の技術をだんだんと磨いていったようです。

藤堂高虎は、裏切り者?

藤堂高虎はなぜ「裏切り者」と見なされているか?

それは、藤堂高虎が、徳川家康に着いたからです。と言っても、それは豊臣家側から見てのことです。

藤堂高虎は、豊臣秀長(小一郎)の死後、秀長の養子・豊臣秀保までが病死して、目的を失い出家までしてしまいました。

藤堂高虎、家康に近づく?

知られている話では、藤堂高虎の方から徳川家康に近づいていった、と言われています。

藤堂高虎は、30歳の時に、京都に出ていきた徳川家康のために、屋敷の前の門を造って、家康とのコネクションが出来始めます。

1599年、徳川家康が京都に、逗留した際、宿泊所を提供したのが、藤堂高虎です。

この時期は、「関ヶ原の戦い」の少し前。

世の中はきな臭くなってきており、豊臣の世を(豊臣秀頼)を頑なに守ろうとする、石田三成は反発を受けていました。

その、石田三成を邪魔に思う筆頭が、徳川家康でした。

京都に、徳川家康が来たのをチャンスとばかりに石田三成は、家康に討とうとと藤堂高虎邸に襲撃をかけます。

そこを、必死で守ったのが藤堂高虎でした。

藤堂高虎は、石田三成があまり好きでなかったことから、徳川家康に気持ちが傾くことになり、

関ヶ原の戦い(1600年)では、東軍(家康側)について、戦い、それ以降は徳川家の家臣となります。

藤堂高虎が裏切る理由は?

藤堂高虎は、自分が裏切りについて問われたとき、「藤堂家覚書」、「高山公実録」の中で以下のようなことを言っています。

「自分の立場を明確に出来ない人物ほど、いざという時に頼りにならない」

戦国時代を考えてみれば、武将達は自分と一族が生き残るためには、どんなことでもする必要がありました。

そこには、君主を変えることも入ってきます。

特に、藤堂高虎が裏切り者に見えてしますのは、豊臣秀長からの恩恵を受けているのを、周囲が見ていたからだと私は思います。

しかし藤堂高虎の、行動を見れば、自分の一族を守ることをしっかり、実現した、ということは立派な戦国武将と言えます。

だから、藤堂高虎は、現代でも人気の高い武将の1人、ということができる、と私は、見ています。

まとめ

藤堂高虎は日本三大築城名人の一人で、石垣技術や縄張に優れ、和歌山城・江戸城改築など多くの城を手がけています。

浅井長政ら複数の主君を渡り歩きましたが、豊臣秀長(小一郎)に拾われることで、人間的にも技術的にも成長を遂げ、立派な戦国武将になりました。

秀長没後は徳川家康に接近し、関ヶ原では東軍として戦って、のちには、徳川家の家臣となり、幕末までその家柄は残りました。

「裏切り者」との評もあるが、乱世に一族を守り抜いた現実主義の武将といえましょう。

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