西郡局、同性愛だった?本名は?側室の理由。性格は?美人?最後は・・

西郡局(にしのこおりのつぼね)。徳川家康の初めての側室となった女性です。大河ドラマ「どうする家康」では、お葉と呼ばれていました。

どいう経緯から家康の側室になったのでしょうか?生まれた子供の行く末も気になります。

さらに衝撃的な告白がありました!自分は同性愛者だと。

実際の、西郡局の性格はどうだったのでしょう?そして美人だったのでしょうか?

西郡局はどのような最後を迎えるのでしょう?墓は残されているのでしょうか?

西郡局、本当に同性愛、LGBT?

「どうする家康」の中で、西郡局(お葉)は家康の娘を産みながら、やがて寵愛も受けそうなのに、他に好きな相手がいる、と言いました。

その相手が女性だったわけで、まさにカミングアウトです。

「えっ?」と思われた方は多いと思います。じゃあ戦国の時代にそんな同性の恋愛ってあるの?と疑問に思います。

探してみても、西郡局(お葉)が今でいうLGBTだった、という話はありません。

しかしこれも未知数です。ありえない・・・と思いつつも。男性に目を向けてみましょう。衆道という作法が存在しました。衆道とは主人と、小姓との主従の誓いで男色も同時に意味しました。

例えば織田信長と森蘭丸がそうであったと言われています。「信長公記」に信長と森蘭丸の関係が仄めかされています。

武田信玄は小姓に想いを寄せようとしていたらしく、すまないと思ったのか釈明の手紙が残されています。

伊達政宗も小姓に宛てた書いた手紙が残されています。

衆道は書道や剣道と同じように「道」がつく名称で呼んだのだから、男色は男性武将の嗜みの一つでした。

じゃあ男性があるなら、女性だってそんな嗜好があっても不思議ではありません?女性の方がもっと純粋だったかもしれません。男性の方は、その嗜好を政治的駆け引きにも使いましたから。

時代劇というものは、歴史に基づいて作られていますので、男尊女卑だった時代を覆して制作するわけにはいきません。

ですから、制作者側は、新しい視点を取り入れる方法として、女性の登場人物を意志の強い人物、として描くことで女性の活躍を作り上げていかなければならない、ということの表れでしょう。

西郡局(お葉)は、ドラマの中では、家康の元を去るのですが、実際の西郡局は家康の元にいます。

今後「どうする家康」の中で再び登場することはあるのでしょうか?

西郡局の性格は?強い女?美人?

残念ながら、西郡局の性格、美人か?を記した資料がないのです。ここは推測するしかありません。

家康が攻め入って打ち滅ぼした鵜殿家(うどのけ)から来た娘となれば、ひょっとしたら一族の仇を取るためにやってきたのかもしれない!敵討か?

いくら昔といえども側室に入れる相手の身元調査もしない、ということはないはず。西郡局(お葉)が側室に上がったということは、もはや鵜殿側は家康に敵意を抱いていなかったという証明になります。

「どうする家康」の中では、西郡局(お葉)を強い女として描いていました。生きたイノシシをさばけるほどに。

西郡局(お葉)の情報は少ないです。実際にイノシシをさばいたか、どうかはわかりません。

しかし側室としての条件の一つは身体が丈夫なこと。側室を望む理由はなんと言っても、子供にあります。ならば、丈夫そうな女性が好まれると思います。殿方は美人であるかと重要視するかもしれませんが。ここは母と妻が考えたのですから、なんと言っても出産重視!

身体が丈夫で、肝がすわっている、その性格を表すのに、イノシシを平然とさばける女性という演出にしたのだと思います。

西郡局(お葉)が美人だったか?肖像画は残されていません、また顔立ちについての記載も見あたりません・・

しかし、出産以降も、何かと西郡局のことを家康が気遣っていたようなので、顔立ちも悪くなかったと思うのですが。

ドラマの中では顔立ちの良さを、女性に人気という描写で表していました。なんとなく宝塚の男役さんを思わせます。

西郡局、実在の人物。本名はあるのか?

大河ドラマでの登場に驚かされましたので、これは架空の人物だろうか?と思ってしまいますが、実在の人物であります。

西郡局は、鵜殿(うどの)家からきました。鵜殿家は家康が攻め滅ぼした上之郷城(かみのごうじょう)の城主でした。その一族の娘です。

城主、鵜殿長照の直接の血縁というのではなく、長照の弟が家臣の娘を養女にしたという説が有力です。

名前は、「お時」という記録もありますが、正確ではありません。大河ドラマ「どうする家康」では「お葉」と言いました。

江戸時代までは女性に関して、名前は系図には載せられていませんでした。「〜の娘」とか「おんな」としか書かれていません。現在知られている女性の名前は「〜の方」、「〜姫」という通称が伝えられているだけです。

ただし、戒名(法名とも言います。仏教では死んだ人につけられる名前)は「蓮葉院日浄」(れんよういんにちじょう)と記録が残されています。戒名には生前の本人を思い出させる字を含めます。

この名前の中に「葉」の名前が含まれていますので、「お葉」という名前は案外本当だったのかもしれません。

当時の慣わしとして、子供をたくさん持つのが戦国武将の役割の一つだったため、お葉(?)のちの西郡局と呼ばれる女性が、側室になりました、

そして期待通り「督姫」(とくひめ)という女子が一人生まれました。

生年ははっきりしません。しかし、娘「督姫」の誕生は1565年と記録にありますので、その頃を20歳未満とすると1547年か8年?というところでしょうか?子供を目的とした側室なら、かなり若い女性を迎える必要がありそうですから、20歳を超えた女性とは考えにくいです。

西郡局、なぜ側室に?

「側室を迎えるよ」というとその理由は、その女性を気に入ったから、子供が欲しいからというのが戦国時代の考え方でした。

ですから西郡局の場合も、「どうする家康」で見る通り、より多くの子どもを望むための手段として於大の方(家康の母)が側室探しをしました。

西郡局の実家、鵜殿家は今川に味方し、その城は徳川に攻め落とされました。

上之郷城のその後、「於大の方」の再婚相手、久松長家(ひさまつながいえ)が管理しています。「城主」ではなく、「城代」つまり仮の城主ということです。

しかしその地はもともと鵜殿の土地であるため、人々の鵜殿家に対する思い入れなどはまだ残っていました。徳川よりも鵜殿に心を寄せる人が多いのは徳川にとってあまり嬉しくない状態です。

鵜殿家の女性が家康の元に、嫁に行く(この場合側室ですが)というのは鵜殿派への懐柔策となりました。

この部分は「於大の方」の、考えではないかと思われます。久松長家に有利になって欲しかったのでしょう。

また、今川家出身の、築山殿(つきやまどの、家康の正室)にとっても、味方が増える安心な状態にもなりました。しかし夫に側室が来ることって、あんまり精神的に嬉しいことではないと思えるのですが。

せめて、敵方ではないところからの側室ならまだ安心、というところだったのでしょうか?

於大の方と、築山殿との利害関係が一致した選択といえます。その選択方法が、「どうする家康」な中ではオーディションのような側室選びという、コミカルな演出となりました。

オーディション風に見せることで、真の事情を隠しているような気がするのですが。

西郡局の子孫は?

西郡局(お葉)には女子一人が生まれました。督姫と言います。ちなみに、正室の築山殿の産んだ息子信康のところに織田家から来た嫁の名は「徳姫」。読みだと同じ「とくひめ」となりますが、別人ですので間違えないようにしましょう。

督姫は北条氏直(ほうじょううじなお)に嫁ぎました。1583年、本能寺の変の後のことです。乱世となるのを避けるため、徳川が諸大名と力を合わることを提案し、和平に向けた緩和策です。

なお、この北条家は、「鎌倉殿の13人」で登場した北条家とは関係がありません。

豊臣秀吉が、小田原の北条氏を破り、北条氏直は小田原城を追い出され謹慎させられます。しかし妻(督姫)が家康の娘であることから許されそうなところまでになりましたが、病死します。疱瘡であったらしいです。夫の死後、督姫は、父の元に帰り、今度は池田輝政と再婚させられます。

「させられた」というのは、今や天下人となっていた豊臣秀吉の命令からでした。

徳川の時代になった時、家康は池田輝政を姫路城に配置しました。輝政を娘婿として、また武将としての資質も認めていた証拠です。

西郡局の娘、督姫は池田輝政との間に5男2女を産みました。

息子たちはそれぞれ、岡山、鳥取、因幡鳥取でそれぞれ藩主となりますが、うち一人は松平姓を与えられています。

しかし、どの子供も直径の子孫は絶えてしまいました。

娘の一人、茶々姫は徳川秀忠の養女となって、大名、丹後国宮津藩主、京極高広の元に嫁ぎはしたものの、あまり良い領主ではなく、やがて家は取り潰され、役を解かれて財産も没収されました。

そうすると普通の人になってしまうため、もはやどうなったか・・・誰も知りません。

西郡局の子孫は、もはや残っていない、ということです。

西郡局の死因?墓はどこにあるのでしょうか?

「頓死」と伝えれています。頓死とは、これまで元気だった人が急死することを言います。1606年伏見城での出来事です。

娘、督姫の年齢から計算すると、50代後半から60にかかる頃?今ふうにいうとアラカン?当時では高齢の部類に入ります。

急死というからには心臓発作あたりが想像されます。

西郡局は督姫出産後、東海地方にいましたが、家康が関東(江戸)に行くようになると、一緒に江戸に下りました。

江戸では、西郡局の実家、鵜殿家の菩提寺、長応寺(ちょうおうじ)を日比谷に移築しました。長応寺は鵜殿長照が討死した時に焼け落ちてしまい、西郡局はその寺のことをずっと気にかけていました。

そして、家康から再建の許しを得て、江戸の地に復活させました。

西郡局は法華宗に帰依しており、長応寺も法華宗の寺院です。現在は日比谷から芝に移りました。

ですが西郡局は、この寺に墓があるのではなく、現在は姫路城外の「青蓮寺」(法華宗)に墓所があります。

しかし、亡くなった後は、京都の本禅寺(法華宗)に葬られました。その時の葬儀を取り仕切ったのは娘婿の池田輝政でした。徳川家康の命を受けてのことです。

青蓮寺に移されたのは、没年の翌年です。

また、東京の、長応寺にはこの寺院を再興させた西郡局の分骨が葬られた墓があります。

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