淀殿(茶々)は、豊臣秀吉の数いる側室の1人で、ただ1人男子を産んだ女性です。
淀殿には悪女という、うれしくないイメージが付きまといみあす。
自由気ままに振る舞うわがまま娘、豊臣家を滅亡に導いたおんたとして見られてしまうのです。
しかし、淀殿人生を見てみると、若いうちに親を亡くし、苦労をした人だということがわかります。
本当に美人だったのか?
性格はどうだったのか?
淀殿生き様から、彼女は本当に幸せだったのか、探ってみたいと思います。
淀殿(茶々)、美人?
それほど美人じゃない?
淀殿は美人とは言われていますが、残されている肖像画からは、そんなに美人とは見えません。
現代の美人顔と戦国時代とでは、見る人の感覚が違いますので、肖像画を見るだけで美人か、どうか決めるのは難しいです。
それでも、当時の記録には、淀殿は美しい方、と書かれた資料はありません。
美人と書かれている、側室は、松の丸殿と言われた京極竜子(きょうごくたつこ)でした。
結論として言いますと、淀殿はそんなに目を見張るほどの美人ではなかったということです。
淀殿に関して書かれていうことといえば、父親、浅井長政(あざいながまさ)のほうによく似ているということです。
浅井長政は肖像画も残っているし、当時の評判から、なかなかのイケメンと言われています。
そんな父に似ているなら、淀殿もそこそこの美形だったのではないでしょうか。
むしろ男顔だったのかも?
淀殿はお市の方とは似ていない
淀殿のイメージが、美人、と思われているのは、母 お市の方が美人と言われていたためです。
親が美人なら、娘も美人と思われていたところにあります。
2023年度の大河ドラマ「どうする家康」ではお市の方と淀殿を、同じ北川景子さんが演じておられるので、ますます親娘がそっくりだ、と思われるのではないでしょうか?
秀吉が是非とも茶々(淀殿)を、自分の側室にしたかったこともあって、ますます美人のイメージが付きまといます。
秀吉は元々、お市の方の恋していた、という言い伝えがあり、思いが叶わなかった、お市の方の身代わりとして、淀殿を側室に望んだ、と想像されています。
しかし、淀殿は(茶々)母、お市の方に見た目も、その行動も母とは似ていませんでした。
それでも、天下人 豊臣秀吉に側室に望まれたのですから、ただ身代わりだけではない、淀殿にしかない魅力を持ち合わせた女性なのでした。
ある意味、母親、お市の方より、もっと生命力が旺盛な女性のように見えます。
自ら秀吉の側室になった、ところに何か、彼女の強い意志力を感じるのです。
淀殿(茶々)の性格
淀殿の性格を見ると、一番に思いつくのが、「勝ち気」。
非常に気が強い姫ですが、同時に気配りも上手にできる女性でした。
その性格が、多くの人に慕われた、ということです。
勝ち気な姫
淀殿(茶々)の性格は、勝ち気で気位が高い、というのがあげられます。
これはやっぱり生まれのせいでしょうね。プライドが高いのも当然です。
有力な武将を父に持つ姫君なら当然かと思います。
しかも2度も落城を経験してきています。
自分自身を強く保たないと、潰されてしまう、という思いがあったのではないでしょうか?
母、お市の方が自害した時も、妹たちに「浅井家の姫なのだから、見苦しい振る舞いをしてはならぬ」と言い渡しました。
勝ち気はヒステリックに見えてきます。
ヒステリックさを表す話が、徳川家康との対話に表れています。
徳川家康は、豊臣秀頼に京都の二条城まで来るように言います。
関ヶ原の戦いも終わって、1605年のこと、家康が息子、秀忠(ひでただ)に将軍職(征夷大将軍)を譲る時の儀式への参列です。
その時、淀殿は強い口調で参列を拒否しました。「無理やり二条城まで行かせるのなら、秀頼と一緒にし私も死にます」と。
大坂の陣に先立って、家臣 片桐且元(かたぎりかつもと)は徳川との和平を主張しましたが、淀殿をはじめその側近のものたちからは、大反対されました。
ここにも、淀殿の、強い性格が表れています。
しかし、これとは反対に、世の中の動きをよく見ることができない女性像というのも浮かび上がってきます。
淀殿、気配りのできる女性
最近、発見されている資料には、淀殿の別の面が表れています。
大坂冬の陣では、人質になって江戸に行くことに同意していた資料が見つかっています。
当時、大阪城にいた牢人(浪人とも言います)を養うために、禄の加増を徳川に頼んでいたこと。
信長の側室たちが、生活に困らないよう生活を援助した、との資料が発見されました。
そこから読み取れるのは、淀殿は細やかな気配りができる女性だったのです。
淀殿近くに使える侍女たちには慕われていました。
大坂城が落城するときに、淀殿は侍女たちを逃していました。
そのためでしょうか?
淀殿墓前には、命日には白ゆりが備えられました。淀殿が好きな花でした。
侍女たちが、死んでもその子孫が淀殿の墓に白ゆりを供え続けました。
江戸時代では、監視の目が厳しかったので、淀殿の名前を出さずにひっそりと行われていました。
案外、権力を持つ女性は、戦国時代でも、女性たちからも憧れの目で見られることもあったのかもしれません。
気が強い、と言われるのは、自分を守ろうと自ら作り上げて、演技していたことも考えられます。
淀殿(茶々)の「なぜ・・・?」
淀殿の一生を見ていると、たくさんの「なぜ・・・?」が思い浮かびます。
- なぜ、親の仇、豊臣秀吉と結婚したのか?
- なぜ、親の仇の子供を産んだのか?
- なぜ、豊臣家の存続に執着したのか?
- なぜ、豊臣家と共に滅んだのか?
- なぜ、悪女と言われたか?
1と2の場合 なぜ秀吉と結婚し、子供を産んだの?
ある出来事から推測するに、親の名誉を守った、これが何よりの理由かと思われます。
その出来事とは・・・
淀殿(茶々)の父 浅井長政(あざいながまさ)の17回忌、そして母 お市の方の7回忌のそれぞれの法要をする許可を、秀吉からもらっています。
敗戦方の妻や娘が、勝ち方の武将の側室になることは珍しくないのが戦国時代でした。
しかし、秀吉にとって、お市の方はともかくとして、浅井長政の法要は敵になるため、許されないことでした。
父母の法要は、淀殿(茶々)が男子を産んだ時の褒美として、許されました。
淀殿(茶々)には妹が二人いましたが、どちらも秀吉の口利きで、嫁に行っているので、彼女たちは夫に、その夫は秀吉に忖度して、両親の法要を言い出すことは無理でした。
ですから、淀殿が、豊臣家に残ったのは両親のため、でした。
こういう部分は、非常に長女らしい特質がよく現れています。
3の場合 なぜ豊臣の存続に執着したの?
淀殿(茶々)は最後の最後まで、「豊臣家のため・・・」と主張し続けます。
そして豊臣家と共に滅びます。
淀殿(茶々)が存続を望んだのは、実は豊臣家ではなく、織田家そして、浅井家なのです。
息子、秀頼を盛り立ててなんとしても天下人にしたかったのは、織田家の血を引く者だからです。
むしろ、淀殿は豊臣家を滅ぼすために、側室になったのではないか、と思うのです。
秀吉には、淀殿との間以外に子供は生まれていません。
秀吉の後継になるものは、淀殿の子以外にあり得ないのです。
子供を通して、自分の親が成し遂げることができなかった、世の中に号令をかける、これをやってみたかったのかもしれません。
しかし政治的手腕を持ち合わせていたかどうかは、また別の話です。
4の場合 なぜ豊臣と共に滅んだの?
せっかく、淀殿の産んだ息子、秀頼が秀吉の後継者となったのに、秀頼の時代は長く続きません。
そこから考えられている説は・・・
淀殿はあえて、豊臣家を滅ぼしたのだ、と。
自分の両親を殺した男、そして2番目の父までも殺した男。
親の仇として、滅ぼしたかった相手、だったのかもしれません。
そのために敢えて、秀吉の側室に入り込み、計画してまでも豊臣家を滅ぼした、というわけです。
ただし、復讐説の場合、淀殿は自分の子供も犠牲にしてしまった、ことになります。
いや、秀吉の子供だから、一緒に滅びるのは当然、とでも考えたのでしょうか?
しかし最後は母親としての情として、息子と一緒に焼け落ちる大阪城の中で、一生を終えたのでしょうか?
5の場合 なぜ淀殿は、悪女と呼ばれたのか
それは何よりも、豊臣秀吉が人気があったからです。
江戸時代、徳川の世になっても豊臣家ではなく、1代で立身出世した秀吉は人気がありました。
戦国時代もそうですが、江戸時代、そして第2次世界大戦の頃まで続く、女性への偏見も理由の一つになっています。
「女は政治に口を出すものじゃない!」と。
淀殿は、まだ幼い秀頼の補佐をしていました。その行動がが政治を掻き回しているように見えたのでしょう。
それも周りから見て、あまり世の中のことを考えているように見えなかったのでしょうね。
また江戸時代ですから、徳川様は将軍様で尊敬されるべき存在です。
淀殿は大坂の陣で、家康に逆らったこと、逆らったことが原因で豊臣家が滅亡することになってしまったから、悪女なのです。
淀殿と、石田三成、大野治長との不義の噂があり、その噂も悪女のイメージを植え付けています。
男性とは違い、女性が夫以外の男性に心を寄せるのはすごく悪いこと、としてみられました。
これは西洋でも東洋でもある見方で、男性の場合は「悪い」とみられないのが実に、不公平ですね。
徳川が、豊臣を滅亡させた理由を正当化するには、淀殿が悪女である方が都合が良かったのです。
淀殿(茶々)と秀吉、仲は良かった?
秀吉、天下人。それに対する淀殿(茶々)は側室です。
淀殿が秀吉と結婚し、側室になったのは秀吉を愛していたからでしょうか?
それは永遠にわからない謎です。
今でも多くの歴史学者がこの疑問に取り組んでいます。
かつての大河ドラマ「江〜姫たちの戦国」では淀殿(茶々)が秀吉に少しずつ惹かれていく様子が描かれていました。
事実かはわかりませんが、淀殿は、泣く泣く秀吉の元にいったのではないと思います。
なにしろ秀吉は天下人。日本に号令をかけることができる人物なのです。
自分の血筋に誇りを持つ姫君、淀殿(茶々)は、自分の野心を果たす良い相手を見つけた、のではないでしょうか。
反対に秀吉は、淀殿を愛していたのだろうか?というのも同時に考えられます。
通説では、秀吉は淀殿の母、お市の方に恋していたから、その姿に似ている、だからなんとしても手に入れたいと思った、と言われています。
何よりも秀吉は自分の生まれの低さにコンプレックスを持っていました。
そこで、側室には身分の高い家の姫を選びました。
もし子供が生まれた時には、子供のために高い身分を用意してやりたかったのでしょう。
淀殿(茶々)が秀吉の元に来たときは、淀殿はまだ若かったですので、後継者を早く望む気持ちが秀吉にはあったのでしょう。
また淀殿(茶々)はお市の方にない魅力もありました。気の強さです。
お市の方は芯が強い女性でしたが、それほど気の強さはあからさまに見せませんでした。
一方、淀殿(茶々)は気の強さを全面に押し出してきています。
秀吉のことが、好きであれ、嫌いであれ、その気の強さに、秀吉は参ってしまったのでしょうか?
淀殿(茶々)、秀吉の子じゃない・・・?
淀殿の子供は本当に秀吉の子供だったのか?
これは謎のままです。
淀殿も秀頼も、焼け落ちる大坂城の中で亡くなったのですから、その遺骸は残っていません。
DNA鑑定なんかできません。
秀吉の子ではない?
正室のねねをはじめとして、数多くの側室たちからは一人も子供が生まれていません。
それなのに、なんで、淀殿だけが2回も子供を産むことができたか?
もちろん、秀吉の子供である可能性だってあります。
秀吉以外に、子供の父親の可能性が高い人物としては、石田三成(いしだみつなり)、大野治長(おおのはるなが)の名前が上がります。
特に有力視されているのが、大野治長です。淀殿の乳母、大蔵卿の息子です。淀殿とは乳兄妹です。
秀吉は、生まれた子供をとても可愛がっていました。
となると秀吉本人の子供であると言えます。
しかし、秀吉がひたすら織田家の血を引く後継ぎが欲しかったのも事実です。
そうなった場合でも、秀頼の父親が秀吉以外だった、可能性も考えられます。
ここで、秀吉と淀殿の間になんらかの取引があった結果が、秀頼を秀吉の子として扱う、となったかもしれません。
その条件こそが、淀殿は豊臣家存続のために、働くこと・・・・とすると、淀殿が大坂城で最後を迎えたことも納得できます。
秀吉の子供だった・・・
秀頼は秀吉の実の子供である、という可能性もあるのです。
ではなぜ、淀殿だけにしか子供が・・・?という疑問が出てきます。
戦国時代の一夫多妻制は、実は妻たちは、正室と側室という関係ではない のです。
正室は必ずいますが、正室以外の妻たちは、側室と呼ばれていませんでした。
第2夫人的な、立ち位置です。
全ての妻の行動に、責任を持つのが正室でした。
他の大名の家でも、正室と側室の関係はというと、正室が女性たち全員を束ねる役目です。
他の妻が子供を産んで良いか決めるのも正室の役割でした。
とにかく、正室 北政所(ねね)は子供を産んでいません、作れなかったかは不明ですが。
そのため、他の妻たちにも子供を産むことを許可せずに、淀殿にだけ許可したということもあります。
ですが許可しなくても、他の妻たちの中に子供を産んだケースがあったのかもしれません。
許可がなかったから、子供を認知していない、
例として、徳川家康が、お万の方という側室との間に子供ができた時、正室の築山殿(つきやまどの)が認めなかったために、その子供が認められるのがずっと後になっています。
ですから秀吉の場合にも、もしかしたら、子供が何人かいたかもしれない可能性があります。
そうなると、秀頼は秀吉の息子、といえます。
淀殿と、ねねの仲
淀殿とねねは仲が悪いというイメージがあります。
ねねとは豊臣秀吉の正室です。
正室と側室・・・仲が悪い・・・というのが世の常。
が本当に仲が悪かったのでしょうか?
正室と側室、かたや子供が生まれ、かたや子供がいない・・・
ねねは下級武士の娘、淀殿は大名の娘・・・
と考えると、生まれが高貴な淀殿から見ると、側室であるばっかりに、正室を敬わなければならない立場に腹を立てた・・・なんて可能性もあります。
しかし、ねね自身は、明るい優しい性格の女性でした。
ねねは、他の側室たちとの交流もあり、一緒に楽しい時間を過ごすこともありました。
淀殿が子供を授かった、と聞いた時も、安産の祈願をしています。
ですから、比較的仲が良かった、と考えられています。
出産後の淀殿は、北政所とは住まいが違ってしまうので、そこからお互いの考えが、離れたものになり、豊臣家の行く末をどうするか、について情報ほ共有ができなくなってしまいました。
淀殿、名前の由来
淀殿は子供の頃は、「茶々」(ちゃちゃ)という名前でした。
現在一番知られている名前は、「淀殿」です。他に「淀君」もあります。
「君」と「殿」の違いですが、この違いは重要です。「君」は元々は遊女に使われてた名でした。
「淀君」も、「淀殿」も当時は呼び名として使われていませんでした。
淀殿と言われたのは、明治時代、作家 坪内逍遥(つぼうちしょうよう)の戯曲「桐一葉」以降のことです。
悪女のイメージがついて回りました。豊臣家を自由に操っていた、というところが悪女なのです。
秀頼の父親についての、噂も加わって、ますます悪女のイメージは強くなります。
それはあんまりだ・・・ということで、呼び名は「淀殿」に変わっていきます。
しかし、淀殿が生きた時代では「淀殿」も「淀君」も使われなかったというなら、なんと呼ばれていたのでしょう?
住む場所によって呼び方も変わったようです。
「淀の方」、「二の丸殿」、「西の丸殿」などですね。また子供が生まれてからは、お袋様などとも呼ばれています。
「淀」というのは「淀城」からきています。
淀城は、淀殿(茶々)が懐妊した時に、秀吉が「でかした、茶々!」と大喜びして、淀に城を作って、淀君を住まわせました。そこからきています。
その場所は現在では城はなく、城址として残っているだけです。
淀殿(茶々)の生涯、関ヶ原までは
淀殿生涯をここで、ざっと述べてみましょう。
淀殿・・・浅井長政の娘として
淀殿は、織田信長の妹 お市の方を母とし、北近江の大名 浅井長政(あざいながまさ)を父として生まれます。
1569年〜1615年、46歳の生涯でした。
生まれは近江国 小谷城(現在の、滋賀県長浜市)です。
両親の結婚は織田家と浅井家の同盟のためでしたが、浅井長政が織田信長に敵対したため、織田に滅ぼされてしまいます。
小谷城は陥落し、母と妹二人とで、織田信長の元に脱出しました。
小谷城落城の時、浅井の後継者だった兄、万福丸は、処刑されました。
その手を下したの秀吉、命令を出したのは織田信長でした。
この状態では、お市の方や淀殿たちは、秀吉と共に信長も恨んだと思うのですが・・・
信長を恨んだ記録やエピソードが出ていません。
むしろ、淀殿たちは、織田家の名誉を重んじていた様子の方が見えます。
その後の、お市と淀殿を含む彼女たちは織田家に保護されていました。
北ノ庄へ(きたのしょう)へ
しかしまた運命が変わったのが、1782年、本能寺の変です。
本能寺の変で、伯父の織田信長は、明智光秀の反乱で、その命を落としました。
信長亡き後の世の中の平定を願って、お市の方は柴田勝家(しばたかついえ)と結婚します。
その時3人の娘、茶々、初、江は母について北ノ庄に行きます。
やがて、柴田勝家と秀吉の間に争いが起こり、1583年賤ヶ岳の戦い(しずがだけのたたかい)で、柴田勝家は敗れます。
お市の方は、柴田勝家と共に焼け落ちる城の中で自害しました。
柴田勝家、お市の強い願いで3人の娘は城を脱出します。
今度は秀吉の保護を受けることとなりました。
この辺りから、淀殿は、自分の生き方をどうするか、考えるようになったのではないでしょうか?
二人の妹たちも、次々と嫁に出される・・自分の意思とは関係なく、周囲で全て決められてしまう。
母、お市の方のように、権力者に翻弄された人生を送るか?
それとも・・・
お市の方だって、自分を絶えず主張しようとしていたには違いありませんが、どうしても大きな力にはかないませんでした。
茶々、秀吉の側室へと
1583年、淀殿は秀吉の側室となりました。
この時の淀殿の気持ちは、ここでまた権力に負けてしまうのか・・・それともこれを機に、自分自身が天下を動かせる立場になろうか・・・そんな気持ちが湧いてきていたのかもしれません。
翌年、淀殿には男子が生まれました。鶴松(つるまつ)別名、棄(すて)と言いました。
秀吉にとっては初めての子供です。
秀吉はもちろんのこと、淀殿も喜びます。
子供が秀吉の跡を取れば、淀殿はその母親として、尊敬と権力が得られますから。
ですが、鶴松は3歳になるかならないうちに亡くなります。
淀殿は幸運の持ち主なのでしょうか?
1593年に再び男子を産みます。この子が、拾(ひろい)後の秀頼(秀頼)です。
1598年、秀頼5歳の時、秀吉は亡くなります。
5歳の子供なら、後見人は必要です。その役割を、淀殿が果たしました。
こうして淀殿はいよいよ豊臣家の実権を事実上にぎったことになります。
関ヶ原の戦いでは
秀頼と淀殿による支配だけでは、戦国大名たちの内部抗争を抑えることができませんでした。
やがて、大名同士の不仲によって起こった戦いが「関ヶ原の戦い」です。
大名たちは徳川家康を総大将とした東軍、毛利輝元を総大将とした西軍に割れて戦いました。
この時、秀頼と淀殿は中立の立場を見せていました。
戦いに勝利したのは東軍です。
東軍の総大将、徳川家康が、豊臣秀頼の後見となりました。
後見とはいっても、徳川家康は、豊臣家が持つ領地を減らし、その土地を関ヶ原の戦いで功績のあった将軍たちに褒賞として与えました。
後見とは、豊臣家は徳川家の家臣となりことを意味します。
それに対して、豊臣家では、秀頼が成人すれば、また豊臣家の天下に戻ってくると信じていました。
淀殿(茶々)、大坂の陣を戦う
徳川家康はだんだんと強気に出てくるようになりました。
京都の方広寺鐘銘事件
京都の方広寺に大仏殿建築のために、豊臣家は鐘を奉納しました。
その時に鐘に銘文を入れたのですが、その中に「国家安康」、「君臣豊楽」の文字が入っているのを家康が見つけました。
これは家康を家康がわは、「『家康』の名前の分断した、これは呪詛だ」
「『君臣豊楽』とは、豊臣が君主であり楽しい?これは何事だ?」
と、言いがかり、というか因縁をつけ?、豊臣側に釈明を求めてきました。
誰が見ても、方広寺銘文事件はどうでもいい出来事にしか見えません。
あくまでも、豊臣潰しの作戦だったのです。
大坂の陣への道
方広寺銘文の釈明に二人の人物が大坂から江戸に行きました。
豊臣家家臣、片桐且元(かたぎりかつもと)と、大蔵卿の局(おおくらきょうのつぼね)です。
大蔵卿の局は、淀殿の乳母で女中頭です。
徳川では、二人同時に会わずに、一人一人と会います。
大蔵卿の局には、「大丈夫、悪意がないのはわかっている」と安心させます。
一方、片桐且元に対しては、「冗談ではない、到底許されないことだ、豊臣は徳川に服従する、淀殿を人質に差し出すか?」と詰め寄られました。
二人は大坂城に帰り、秀頼と淀殿み報告しますが、淀殿たちは自分に都合の良い方の意見しか、つまり大蔵卿の話しか聞きません。
人間は、どちらかを選べ、と言われた時、自分に都合の良いことしか聞こえなくなる性質があります。
片桐且元を裏切り者、家康に丸め込まれたとみて、大坂より追放しました。
片桐且元は、実際命を狙われました。
そして逃げ込んだ先が、徳川の元でした。
ここでも家康は、一方的な疑いをかけて忠実な家臣を追い出した豊臣家は許せない。
そのような非人道的な扱いをする、豊臣家は滅ぶべし!そう言って合戦に入ります。
大坂冬の陣で
いや、実は、方広寺の件から合戦に持っていくのが家康の作戦だったのではないでしょうか?
「関ヶ原の戦い」から14年も経ち、豊臣氏に従ってくるものといえば、関ヶ原の合戦の恩賞に不満があったものたち、と浪人ばかりの傭兵隊でした。
淀殿は、武具を身につけて侍女たちも武装させて、士気を高めようと奮闘しました。
淀殿は、持ち前の気の強さで乗り越えていましたが、毎日飛んでくる砲弾に次第に心が折れるようになりました。
淀殿はこれまで、2度も自分のいた城を攻められた経験から城攻めに強い、と言われていましたが、反対にトラウマにもなっていました。
そのため、大坂城では長期戦は望めない有様でした。
大坂夏の陣へ・・・そして滅びへの道
大坂冬の陣の後、豊臣と徳川の間に取り決めがされました。
その一つに、「大坂城の外堀を埋める」がありました。
しかし、徳川は外堀だけでなく内堀も埋めてしまいます。
これは条約違反です。
和平に向けての動きもありましたが、関係者が襲撃されたり、逃亡したりでこの話は潰れました。
いよいよ、和平の道がなくなった豊臣方は戦闘の準備を始めます。
真田幸村は、秀頼の出陣を頼みましたが、淀殿はガンとして受け入れませんでした。
淀殿は、秀頼を大切に育てていました。死産の後に生まれた子でしたので、武芸など、危ないという理由でやらせていませんでした。
淀殿はともかくとして、秀頼は、豊臣家の当主として豊臣軍では敬意を払われていました。
ですから、ここで秀頼が戦闘に実際に出ていれば、豊臣側の士気は違ったのではないでしょうか?
ここでの淀殿は、戦国武将の母ではなく、一人の子供の母であったのです。
17世紀の戦国の時代では、武将の母親としての心得がない、と思われる振る舞いでした。
どちらの道を取ったにせよ、豊臣は、ここで滅亡する運命でした。
夏の陣まできて、もう逆転の可能性はゼロです。
淀殿(茶々)の最期
1615年4月、大坂夏の陣が始まりました。
果敢に戦い続ける、真田幸村もついに戦死。
いよいよ豊臣敗北の色が濃くなってきました。
豊臣勢は、大坂城に逃げ帰りますが、大坂城では火の手が上がります。いよいよ最後の時か!?
淀殿は秀頼の妻、千姫に、秀頼の助命嘆願を持たせ、城を脱出させます。
千姫は家康の孫です。しかし、家康はいくら可愛い孫娘の願いでも、気きいれません。
一方、淀殿と秀頼は城の蔵に隠れて、助けを待つつもりでしたが、助けは来ない、とわかると自害して果てました。
大野治長、侍女たちも一緒に自害しました。
大阪城は焼け落ちました。
自害についてはいくつかの文書に書かれています。
「言緒卿記」、「舜旧記」、「春日社司祐藩記」、「薩摩旧記雑録後編」などにあります。
特に自害の場所に関しては、大坂城内の千畳敷と書かれています。
もちろん、遺骸などありませんので、逃亡説、生存説などありますが確かなものはありません。
「薩摩旧記雑録後編」という文書があるせいでしょうか。薩摩まで逃れて生き延びているという説まであるほどです。
大阪城公園内には、「秀頼、淀殿自害の地」という石碑が建てられています。
淀殿の墓所は、大阪市北区の太融寺、京都市東山区の養源院にあります。
養源院は、淀殿が自分の父母のために建てた寺です。京都東山の観光名所ですので、ぜひ足を運んでみてください。
淀殿(茶々)「どうする家康」に登場
NHK大河ドラマ、どうする家康に、茶々(淀殿)登場です。
まだ13歳ながら、白鳥玉季さん、強烈な登場ぶりです。
若い時代なので、まだ「茶々」です。
淀殿(茶々)と家康との立ち位置
将来、敵対する2人です。
その大元となる原因をここに見ることができます。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」第30話のことです。
お市の方と、家康はどこか心を通わせるところのある者同士。
この位置関係は従来には見られない話でした。
特に家康が昔から「困ったときにはいつでも参ります」との言葉、そんな言葉を交わしたかどうか・・・
子供の時の約束ですが、お市の方はその言葉を信じていました。
ですが、娘の淀殿(茶々)は・・・
果たされないかも知れない約束を待つ母がもどかしく思えます。
家康が結局、助太刀にやってこないと知って茶々は、こなかった家康を恨む、と口にしました。
そして母の無念を晴らすとも・・・・
この、北庄落城の時の思いが生涯、淀殿(茶々)の心でくすぶりつづけます。
関ヶ原の戦いの後でも、決して家康と和解を結ぼうとしなかった原点がここにあるのです。
この回はこれからの、徳川家・豊臣家の関係を決定づける出来事になります。
秀吉の茶々への執着?
秀吉は、茶々に目をつけます。
そこを、茶々が目力で応答し、秀吉の手を払うかと思ったら、手を握り返し、意味ありげに、ニヤッと笑います。
その色気、と申しましょうか・・・見ていてゾクっときます。
今後絶対に何かある!
白鳥玉季さんは、茶々の子供時代です。
北川景子、再び
北川景子さん、再登場です。
今度は、娘の茶々役の成人した姿となって・・・
ドラマの中では、家康は茶々がお市の方にそっくりなので、驚きます。
しかし、歴史で語られていることによると、お市の方と茶々は似ていません。
むしろ、お市の方の方が美人だと言われています。
今は、少女時代の凄みが出てきていませんが、これから一体どうなるのか目が離せないところです。
淀殿shogunに登場!
2024年 アメリカでドラマに与えられる最高の賞、エミー賞で日本を舞台にしたドラマ「SHOGUN」が受賞しました。
そこで、二階堂ふみが、「落ち葉の方」という女性を演じました。
「落ち葉の方」とは「淀殿」に相当する役です。
ドラマ中では、息子には愛情深い母親の顔を見せながら、同時に、臣下に厳しい顔をし、さらに吉井虎永には敵対心丸だしの顔をみせています。
そんな多彩の女性、慈愛の母とも悪女ともどちらにも感じさせる、息をのむようなえんぎが世界中の視聴者を虜にしました。
二階堂ふみ は実は2回目の淀殿です。
以前は、2014年「軍師官兵衛」で淀殿にキャスティングされました。
その時の、二階堂ふみ の淀殿に対する心構え、と聞かれて
淀殿はいかに魅力的であるか、ということをが見る方に対しての説得力になると思います。いろんな面を持ち合わせた淀殿に秀吉が魅了されていく。少女から女性になり、秀吉に愛、愛され、子供うもち母となる、と色々な顔が表現できるキャラクター。
という捉え方をしています。
また、品がよく美しい、だけでなく、感情をはっきり言い表して良い役、と思った、とも語っています。
10年も前の大河ドラマですが、この淀殿の、イメージが今でも、思い浮かぶ感じです。
まとめ
淀殿は、幸せだったのでしょうか?不幸だったのでしょうかは、今でも謎のままです。
戦国の世の中で、両親を失い、義理の父を失い、伯父も失い、頼る人は親の仇、というまさに不幸にな人生の始まり。
この中で、淀殿(茶々)は、したたかに立ち回らないと、戦国の世は生き抜けない、と自覚したのでしょう。
そのためには、天下人を利用することで、この世に復讐してやろう、という心構えができてきました。
では、秀吉に対しては実際どう思っていたのでしょう?
最初は復習するつもりだっとしても、私はやはり愛したのだと思います。
その魅力的な人柄、手腕に惚れ込んだ、と思います。
天下人の器を見出しました。
復讐と愛情のジレンマにも苦しんだでしょう。
息子を守り抜こうとしたことは、豊臣の世を守るというより、自分の生き方を肯定したかったから、そう思えてなりません。
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