一条天皇、その治世?定子と彰子 性格は 藤原道長の存在 猫好きで笛の名手 死因は?辞世の句 土葬を希望するも

一条天皇が、政治で奮闘努力中です。

藤原道長と、政治上では協調的関係にあったところから、優れた時代を作り上げた天皇といえます。

有名な妃、藤原氏出身の定子と彰子がいますが、天皇はどちらを、愛していたのでしょうか?

芸術面でも、素晴らしい才能を表した、天皇。

一体、どのような天皇だったのか、その魅力を解き明かしてみましょう。

どうぞ、最後までお付き合いください。

一条天皇の治世はどうだったの?

一条天皇の時代は芸術が花開いた時代

一条天皇(いちじょうてんのう)は980年〜1011年の生涯で、在位は986年〜1011年でした。

一条天皇の年代はは、歴史上、王朝文化が非常に華やかな時代でした。

清少納言(せいしょうなごん)、紫式部(むらさきしきぶ)、赤染衛門(あかぞめえもん)、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)という、誰もが国語の古典で習う名前が、目白押しす。

一条天皇自身も、音楽や詩、和歌を詠むことに優れた芸術家でした。

文化が発達した時代というと、治世は穏やかだった、と思われますが、天皇は何をしたか・・・というと、自ら政策を立てた、ということではないのです。

本当のところ一条天皇 自身は天皇親政を目指していたのです。

一条天皇の時代、元号が7回変わった!

元号、それは「昭和」とか「明治」とか「平成」、「令和」という時代の名称です。

「明治」以降は、一人の天皇につき、一つの元号となりました。

しかし、明治以前、平安時代ももちろんですが、一人の天皇の在意中にも年号は何度か変わることがありました。

一条天皇の時代はまさにそうでした。

年号を変えるきっかけは、慶事(お祝い事、喜ばしいこと、天皇即位も入ります)のほかに、台風、地震といった天変地異、伝染病の流行などです。

一条天皇の時代は7回、その名を挙げてみると、寛和(かんな)・永延(えいえん)・永祚(えいそ)・正暦(せいれき)・長徳(ちょうとく)・長保(ちょうほ)・寛弘(かんこう)です。

寛和は「寛和の変」(かんなのへん)でも知られる元号です。

寛和の変は、花山天皇の退位、出家事件、ついで一条天皇即位となったので、天皇が変わってすぐに元号は変わりませんでした。

長徳には「長徳の変」(ちょうとくのへん)という、藤原伊周(これちか)が、自分の恋敵と思って、花山天皇(法皇)に矢を放った事件がありました。

世の中を驚かせるような事件はいくつかありましたが、他の元号を見ると、それほど大事件でもありません。

でも7回も変えている・・・ということは、一条天皇の時代は、華やかに見えて、実は不安定な時代だったのでしょうか。

伝染病が流行り、藤原道長のお兄さんも伝染病で亡くなった、と言われていますし。

旱魃(ひでり)のありました。

一条天皇の妃 定子は最愛の女性?

定子、一条天皇の添臥か?

一条天皇は7歳で即位、成人式に相当する儀式、元服が11歳でした。

11歳というのは早いですね。

その時に、定子(さだこ またはていし)は 14歳、一条天皇の妃として、宮中に入りました。

14歳ということは、一条天皇にとって年上の妻です。

年若い天皇に、少々年上の女性、と言ったら「添臥し」のつもりでの結婚だったようです。

「添臥し」とは、添い寝をする人、の意味で、成人の儀式の一つでもあります。

また添臥の女性はそのまま 妻に、それも正室になります。

と言っても女性の、身分が夫に釣り合うほどに高い人の場合です。

一条天皇にとってこれまで身近にいた女性といえば、母親か乳母と言ってかなり歳の上の女性ばかりでした。

そこに自分と歳も近く、朗らかな定子がそばに来たとあっては、一条天皇は、心弾む思いだったでしょう。

しかも漢詩が読める、芸術が好き、話が合う・・・と楽しいことずくめでした。

その定子が入内した時点では、唯一の 妃だったから、否が応でも二人は仲良くなります。

二人は、非常に仲が良かったのですが、それはそれで困ったことでした。

天皇の役目は、子孫を残すこと・・・そのためには妃を複数持ち、その妃たちを平等に愛する必要がありました。

しかし、この二人の仲の良さは誰もが知ることとなり、有力貴族たちは、自分の娘を入れるのをためらったほどです。

定子の頼みでも、流されなかった一条天皇

仲の良すぎは困ったことにもなりました。

長徳の変の時、花山天皇に矢を射った犯人が、定子の兄の、藤原伊周でした。

兄をなんとか許しておらおうと、一条天皇に頼み込む、定子。

しかし、この願いを一条天皇は聞き入れませんでした。

そこは偉い!と褒めたいです。

逃亡を図った伊周を探しに、役人が定子の実家にまでやってきます。

この時、定子は懐妊中だったため、ショックからでしょうか、自ら出家してしまいました。

罪人の身内になってしまい、しかも出家してしまった人物を、宮中に置いておくことを公家たちはも認めませんでした。

一条天皇、それでも定子をあきらめなかった

そこで、一条天皇は、こっそりと定子を呼び寄せて、宮殿に呼び寄せて、内裏の隣の部屋に住まわせます。

定子には、父も兄もいなく、守ってくれる人がどこにもいませんでしたが、帝が、定子を忘れられず、ひたすら足し続けました。

出家した姿のまま、第一子を産んだのは、出家前から妊娠していたので仕方ありませんが、出家後もあっていて、それで、定子が妊娠した、となっては流石に、皆が眉をひそめていました。

真面目な性格のはずの、一条天皇も自分の感情には勝てなかったんのですね。

愛に一途・・・いかにも、文学的な時代の天皇です。

一条天皇は彰子を愛したの?

一条天皇の新しい妃は藤原道長の娘

また藤原家の娘が一条天皇のもとに嫁にやってきました。

今度は、藤原道長の娘 彰子(あきこ、または しょうし)。

12歳で裳着の儀式が、終わってすぐの入内です。

裳着の儀式は、平安時時代の女子の成人式にあたるものですが、現代の成人式よりはるかに年若いうちに行います。

これでいつでも結婚できる、という印だったのでしょう。

平安時代は現代と比べると、格段と寿命が短いです。

ですから、できるだけ早いうちに、子供を残しておこう、ということなのですね。

彰子、美しい人でも、一条天皇には定子が一番!

彰子については、「栄花物語」に「髪は長く、顔かたちは美しい。歳の割に落ち着いて見える姫君」とあります。

一条天皇の方は、彰子と並ぶと、自分が老人のように思えてしまう・・・と言っていました。

彰子に対し、熱愛、というわけにはいきませんでした。

年の差を、一条天皇も気にしていたのでしょうか?

と言っても、一条天皇はこの時まだ20歳、そこそこだったから、ものすごく年の差婚というほどではないと思うのですが・・・

「紫式部日記」によると、彰子は内気な性格だったようで、一条帝が彰子に得意の笛を聴かせても、あんまり喜んでくれる様子はありませんでした。

非常に若い妻だから・・・と思って、それなりに時間をかけてお互い慣れていこうと、考えていました。

感情をあまり表さない、という点では、「源氏物語」の登場人物 「女三の宮」(おんなさんのみや)を思い出させます。

一条天皇は、定子を熱愛していたから、他の妃は定子の代わりになれなかったのでしょう。

それでも、妃たちとは、それなりに愛情をかけようと思っていましたし、どの妃とも仲良く付き合っていました。

帝は、藤原道長との政治上の関係を崩したくなったのです。

定子も彰子もどちらも藤原家から来た嫁で、従姉妹同士で、帝の寵愛をめぐって、丁々発止のやりとりが・・・・なんて、想像したくなりますが、そのようなことはなかったようです。

定子の方が彰子より10歳以上も歳が上なので、あまり寵愛を争う、なんてことはありませんでした。

「枕草子」にも、対立があった、定子は彰子を快く思っていなかった、という記述は全く見られません。

むしろ、彰子の父 藤原道長の方が、定子に負けるな・・・だった感じがします。

彰子は、定子が早くに亡くなったため、その遺児 敦康親王(あつやすしんのう)を引き取って育てました。

彰子にも男子が生まれますが、彰子は、兄である、定子の息子のほうが次期天皇になるに相応しい、と思っていました。

こうしてみると、彰子は公平な目を持った女性で、こういう点を一条天皇は尊敬の目で、彰子を見ていたのでは、と思うのですが。

いくら彰子が、定子の子をと願っても、やはり道長の思惑があり、彰子が産んだ敦成(あつひら)親王がのちに天皇になります。

道長強し、ですね。

一条天皇の性格

一条天皇というと、得意な事は、笛そして漢文、という才能が挙げられますが、では一体どんな性格だったのでしょうか?

ではその性格を挙げてみましょう。

一条天皇、責任感が強い

政治むきのことは全て藤原氏に任せていたように見えますが、一条天皇はきちんと筋を通す人でした。

そのエピソードは、妃 定子の兄 藤原伊周が花山天皇に弓を打った事件(長徳の変)を起こした時のことです。

伊周は一条天皇の大切な側近の一人だったのですが、事件を大目に見ずに、厳しく処罰しました。

私情を挟まなかったのですね。

もちろん藤原道長が、にらみをきかせていたところもありますが、天皇としての権威をここぞ一番、というところで表したのです。

一条天皇は几帳面

長徳の変でも、律をしっかり守ったことで几帳面なところを示したのですが、それ以外にも一条天皇の几帳面さを示した、特徴があります。

それは一条天皇が作った、漢詩に現れています。全て句題詩で書いています。

句題詩は漢詩の形式です。

五字の句の形をとった題名と、七律(八句からなる)の詩で、初めの文で題名を詠み、次にくる胸句(三句と四句)で題名の意味を書き、その次の五句と六句(腰句)は胸句と対句をなし、最後の行、(結句)で心情を述べて締めくくります。

もちろんもっと自由に作る人もいるのですが、一条天皇はあんまり好まなかったようです。

他の人は漢詩を作る際、自由な題をつけていました。

几帳面ではありますが、非常に形式にこだわる人だったのでしょう。

一条天皇、母には絶対!

一条天皇は、責任感と同時に、母の意見には従っていました。

のちに、藤原道兼(みちかね)が病気のため関白の位を降りると、道兼の前任者の道隆(みちたか)の息子 藤原伊周(これちか)、関白につく、と名乗りをあげてきました。

一条天皇の最愛の妃、定子の兄であり、自分の側近であるから、伊周が関白につきたいと、ずっと言い続けてきたのはわかっていました。

でも、伊周の言い分は聞かずに、伊周の願いを拒否し、道兼の弟の藤原道長を、使うことに決めたのです。

実は、一条天皇は、伊周を就けてもいいと思っていたのですが、母 藤原詮子(あきこ または せんし)が全面的に反対したのです。

兄弟の順を守って、道隆 → 道兼 → 道長 と行くのが正しいやり方である・・・・こう藤原詮子は言い切ったのです。

一条天皇は、幼い時に父 円融天皇とは離れ、母に非常に大事に育てられていたので、どうしても母に逆らう、ということができないのでしょう。

妃 定子を愛している、と言っても母の方が、一条天皇の中で強い力を持っていたようです。

マザコン・・・というほどではなさそうですが、母に逆らう・・・という考えはあまりなかったのかもしれません。

一条天皇は、よく笑う人

一条天皇は、責任感が強い、真面目である・・・という性格から少し離れますが、陽気な人物でした。

よく、妃の定子と、養育係や、清少納言をからかっていました。

これは一条天皇自身が、からかい好きの人というわけではなく、定子と一緒だったから、といえましょう。

定子が大変、朗らかな女性でした。

一条天皇もそれにつられて、よく笑う、ということがありました。

性格が、ピッタリとあった、カップルだったのでしょうね。

政略結婚で、これほど仲良くなれることは珍しいです。

一条天皇にとって藤原道長とは?

一条天皇にとって、藤原道長は、まず、血のつながった叔父である、ということです。

叔父さんが自分の臣下というわけです。

それだけではなく、道長は政治上の大切なパートナーと言って良い存在でした。

一条天皇が天皇になったばかりの時は、まだ7歳と幼すぎたので、政務を取ることができない。

だから代わりに補佐として政治をとり行ってくれる人が必要でした。

役目は摂政といい、摂政は藤原兼家でした。それが道長の父。

一条天皇が親政を本当は望んでいたとこは、一条天皇の時代、藤原道長に関白の位についていないからです。

親政というのは、天皇や国王が自ら、政務を取ることです。

摂政と関白は閣議に出られない、ということから道長は、あえて関白職を要求しなかったのです。

また、「内覧」の役目を、道長が重要視していたからです。

内覧という役目は、天皇に提出する文書、天皇が裁決したり、発令する文書を公にする前に目をとおす役目です。

確かにくらいの上では関白の方が上です。

内覧は、関白のように意見する立場でなありませんが、天皇とその他役人たちの文書を誰よりも先に見ることができることで、自分の立場を有利にできるからです。

ここで、父や兄たちと、少し違った立場で政治を動かしていこうとしていたのが道長です。

一条天皇自身、道長が少しけむたい?

というのも、一条天皇が崩御した後、一条天皇が書き留めたらしい一つの紙片が見つかりました。

それには「王が道理にかなった政治をやろうとすると、悪意ある家臣が国に乱れを持ち込む」とありました。

これは藤原道長に悪意がある、と言っているのではなく、天皇自らが政権を取ろうとすると、横槍が入ってきてどうもうまくいかない、ということを表しているようです。

一条天皇は自分の次の天皇を、本当は 定子の産んだ 敦康親王をつけたいと思っていましたが、どうしても、藤原道長のことを考えると言い出すことはできませんでした。

道長から離れたい、と思いながら、政治上のことを考えると、どうしても道長を無視できない、というのが一条天皇のジレンマだったのでしょう。

一条天皇は伊周がお気に入り?

藤原伊周は、一条天皇の妃 定子の兄であるため、陛下のそば近くにいることが多いです。

定子の兄だから気に入っていたわけではなく、その明るい人柄が好きだったのでしょうね。

それに、伊周は一条天皇の幼い時の、漢文の家庭教師でもありました。

文化的なことが得意な一条天皇は、文化面で優れた才能を発揮する伊周が好きでした。

ただし、伊周に政治的手腕があるかどうかは別のこと。

平安時代は一条天皇の時代になると、天皇本人が政治を行うのではなく、摂政・関白が政務を行うようになっていました。

関白であった藤原道隆(伊周の父)が病気で倒れ、息子 伊周の関白職の継承を願い出ていました、

息子の伊周も関白になりたいと思っていたし、妃の 定子も強くて後押ししたことから、伊周を関白に就けたいと、思っていました。

しかし伊周の人気のなさ、そして、母 東三条院(藤原詮子)の強い反対で、この案は断念しました。

ここで思いとどまって、私情を挟まなかったところが、一条天皇が、賢王と呼ばれるところです。

一条天皇、猫好きな天皇

一条天皇はまた、愛猫家としても知られています。

猫に、「命婦の大臣」(みょうぶのおとど)なんて名前をつけ位を授けていました。

「命婦の大臣」なんて聞くと、誰のことと思ってしまいますね。

命婦の大臣に飛びかかった犬がいました。

その犬の名前は「翁丸」(おきなまる、おきなまろ)。

それを見た、一条天皇は怒って、「翁丸を捉えて島流しにせよ」と言ったところ、「翁丸」は本当に犬島というところに流されてしまった。

以上のエピソードが清少納言の「枕草子」に書かれています。

平安時代は猫好きな人が多そうです。

猫ブームだったのかも?

「光る君へ」を見ていても、一条天皇をはじめ、道長の妻の 源倫子(ともこ)、道長たち兄弟の父 藤原兼家(かねいえ)もそれぞれ猫を可愛がっていましたね。

紫式部の「源氏物語」には、猫が大好きな「朱雀帝」(すざくてい)という天皇が出てきます。

朱雀帝のモデルは、一条天皇ではなかったのかな、と思わされます。

一条天皇、笛の名手

一条天皇が笛を吹いていた記録

一条天皇が笛の名手だったことは知られています。

藤原実資の「小右記』(しょうゆうき)には次のように書かれています。

その時の一条天皇はまだ10歳、それなのに吹いた笛の音は「身分の高いものも低いものも、皆、涙をぬぐいながら聞いていた。まるで、天から響いてきたかのようだ」と絶賛してます。

また、清少納言の枕草子には、「一条天皇の御座書(清涼殿)と定子の御在所(部屋)をつなぐ通路のひさしで、一条の帝が吹いていた笛の音を聞いていた女房(女官)たちがが感激していた」

とあります。

この時は、藤原道隆の死後、道隆の息子、伊周と隆家が失脚して、定子とそのお付きのものたちの気分が、暗くなっている時の話です。

その中でも、一条天皇の笛を聞くと、心が晴れわたる気持ちがする、ということでした。

1004年11月3日、「関白御堂記」(藤原道長が書いたと言われる日記)には、一条天皇が公家たちを引き連れて、彰子の御座書で、笛を披露した、とあります。

この時代の笛の曲とは、どんなものだったのか・・・現在では演奏される機会を見ないので、おそらく、曲としては伝えられていないのではないでしょうか?

なにしろ日本には、楽譜なんてありませんね。

笛の種類は龍笛か?

一条天皇が使った、と言われる笛は、おそらく、龍笛(りゅうてき)と呼ばれる種類の笛だった、と言われています。

龍笛は、尊い人(公家や天皇たち)が一般的に使っていた笛だからです。

龍笛は、音程を出すために指で穴を塞ぐのですが(そこはリコーダーと同じです)、その穴は大きく、子供時代の一条天皇が使うには少し難しかったように見えます。

おそらく子供用の龍笛があったのでしょう。

子供用の龍笛の場合、サイズが小さいので、その分ピッチが上がって、より一層、天からの音楽のようない神々しく聞こえたかもしれません。

一条天皇の死因

一条天皇の死因は病死です。

なんの病気だったか、というのではなく、身体の不調を訴えてからわずか1ヶ月ほどでなくなってしまいました。

1011年6月21日のことです。まだ32歳でした。

一条天皇は子供の頃から、とにかく身体が弱く、病気になることが多かったのです。

病死・・・ということで、特に毒殺とか、暗殺とかの話は立っていません。

平安時代は、疫病が流行することがあったので、それにかかったかもしれないと見る人もいます。

最近、研究されるようになると、近親婚による、虚弱体質、だった可能性がある、ということです。

世界各国の王族は、王家としての血統を守ため、近親結婚を繰り返していました。

古代エジプト、中世ヨーロッパのハプスブルグ家など、近親結婚から劣勢遺伝が現れ、やがて子孫も減ってくる、という実例があります。

日本の天皇家もそれに、近いものがあったようですね。

一条天皇の辞世の句

いくつも説がある、一条天皇の辞世

辞世の句とは、人が亡くなる時に本人が読む和歌のことです。

一条天皇にもあります。

面白いことに、意味や内容は同じなのに、出典によって、言葉遣いが少し、違っているのです。

これが一番近いのではないか、と言われているのは「権記」(藤原行成)の記載です。

「露の身の 風の宿りに君をおきて 塵をいでぬる ことぞ悲しき」

ですが、「御堂関白記」では「風の宿り」「草の宿り」に、「ことぞ悲しき」「ことをこそおもへ」

栄花物語では「風の宿り」「仮の宿り」に、「塵をいでぬる」「家をいでぬる」に。

新古今和歌集では「露の身」「秋風の」に、「風の宿りに」「露の宿りに」と、それぞれ変わっています。

原文は、変体仮名で書かれていたから、このような間違いが起こるのかもしれません。

でも意味が大きく変わるということではなく、想いの表現が違っているのです。

一条天皇の辞世の句、解釈の違い

一貫してある言葉が「君を置きて」です。

「君」を『彰子』とするか『定子』とするかで、解釈が違ってきます。

定子と取った場合

あなたが露の身の上(死んだこと)となって、まだ成仏できないまま・・それを置き去りにして自分だけが成仏してしまうなんて悲しいことだ

彰子ととった場合

露のようにはかない身の自分は、かりそめのこの世にあなたを置いたまま、出家してしまったことが悲しい

と、意味合いが違ってきます。

定子と見た場合、成仏できていないかもしれない相手を思いやっており、彰子と見た場合、相手を残していってしまう悲しさを、書いています。

さて、どちらでしょう・・・・?

次章で書くように、一条天皇が土葬を希望していたとすれば、定子を思ってよんだ、という方が当たるような気がします。

それも、何人妃を持とうとも、定子を一番愛していた、ということですので、ここでは定子に軍配をあげたいと思います。

一条天皇、土葬を希望・・しかし・・・

一条天皇は、自分の死後は、土葬にしてもらいたいと思っていました。

というのも、10年以上前に亡くなった、最愛の妃、定子が土葬になっているからです。

定子の場合も、定子自らが土葬を希望したからでした。

一条天皇は、定子が土葬となっているから、まだその魂は成仏していないから、自分の同じ身の上となって一緒に成仏していきたい・・・そう思ったのでしょうか?

これは一条天皇の辞世の句の「君」を定子と見た上で、そう思うのです。

道長も、妃の彰子も、一条天皇の希望を聞いていたはずなのですが・・・・その時になってみれば、一条天皇は火葬となっていました。

藤原行成(ふじわらゆきなり)の「権記」によると、道長はどうも忘れていたらしい、と書かれています。

でもこれを見ても、ほんとかな?と思ってしまうのです。

道長は、忘れたふりをして、自分の思う通りに進めた、という感じがします。

まとめ

天皇なんて、お飾りみたい・・・なんて思っていたら、一条天皇は非常に魅力的な人物でした。

性格は明るく優しいところがありながら、キッパリとした態度をとることもできる、良い君主でした。

ある意味、藤原道長を上手に扱った人でもあります。いや、扱われた感じもしますが、どちらも程よい付き合い方ができてたように思います。

その反面、愛情深いところもあり、そこに人間性を見ることができ、そこに魅力がある、そう思える人物でした。

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