平安時代 中期の貴族らしい貴族といえば、藤原公任(ふじわらきんとう)の名が上がるでしょう。
それほどの風流貴族だったというわけです。
平安時代のかなり上級の貴族に生まれたにも関わらず、政治的には完全に藤原道長に抜かれました。
でもその代わり、うまく和歌や漢詩を作る、音楽的素養に恵まれた、大変な文化人になりました。
ここでは、ふじわら公任のがどのように風流人になったか、またどんな人物だったか見ていきましょう。
藤原公任、三舟の才と褒め称えられ
藤原公任は、三舟の才(さんしゅうのさい)、と呼ばれました。
和歌作りの才能、漢詩作りの才能、管弦楽演奏の才能・・・この三つの才能が揃っている人のことを三舟の才、と言います。
三舟には、舟という字が入っている通り、貴族たちの舟遊びからきています。
貴族の館の中には、川が作られており、そこに船を浮かべ。遊ぶのです。
舟はそれぞれ、和歌の船、漢詩の舟、管弦の舟と3種類あって、貴族たちは指定された舟に乗ります。
このとき、もし自分の得意分野ではない、舟に乗るよう言われたら、困りますね、恥をかかされることになりそうです。
と言っても、この3種類は、当時の貴族のたしなみで、習得していなければなりませんでした。
平安貴族は、文化的にも優れた人物でなければならなかったのです。貴族になるのも楽じゃありませんね。
舟に乗るには自分の選択肢がないのですが、藤原公任だけは、自分から好きな船を選ぶ事ができたのでした。
藤原公任は、3つの芸術どれもが優れていたからです。それは貴族達誰もが知る事実でした。
藤原公任はさらに、イケメンでもありましたから、もう人気絶大の公達だったことが想像されます。
ここから、たくさんの才能に恵まれていることを「三舟の才」というようになりました。
ここで一首、藤原公任の和歌を
「滝の音は 耐えて久しくなりぬれど なこそ流れて なお聞こえけれ」
意味:滝は枯れてしまい、音が聞けなくなって随分経つけれど、この滝の名声だけは今も人の噂に流れて伝わってきているよ
と、自分の書いた和歌も、自分が死んでしまった後までも伝わってほしい、という願いを込めて詠んだ歌です。
「滝の音は・・・」は『千載集』に載っている歌ですが、百人一首に入っていて、見知っている方は多いかと思います。
藤原公任、書で有名
藤原公任の書が優れています。もっと簡単にいうと、書道が上手い、ということ。
現代まで伝えられている、藤原公任の手による書物というと「和漢朗詠集」(わかんろうえいしゅう)という、詩歌集です。
「和漢朗詠集」は平安時代の、前期〜中期の漢詩や和歌を集めた詩集です。
朗詠と名がついているように、人前で、高々と節をつけて歌うように読み上げる詩を集めました。
編纂者、つまり選んだ人ですが、それが 藤原公任です。
当時は活版技術などありませんから、全部筆で描きます。
藤原公任の書いた、と言われるものが今でも残されて見ることができます。
ただし、伝 藤原公任 と言われていますので、もしかしたら、他の人が書いたものかもしれません。
上下巻に分かれた、ものすごく分厚い書物です。
誰の手によるものなのか、今でも研究が続けられています。
他にも写本が作られており、その書き手の一人は、藤原行成です。
藤原行成も、「光る君へ」の中で、f4の一人として活躍中です。
藤原公任は、藤原道長のライバル?
藤原公任、貴族のサラブレッド。
藤原公任と藤原道長がライバル同士、というのは二人がそう思っていたのではなく、藤原道長の方がライバル視している、というところでしょう。
藤原道長が、まだ若い時、父 藤原兼家から「(藤原公任は)どうしたあんなに優れているのだろう。羨ましい限りだ。我が子達はその影さえふめやしない」と嘆きました。
藤原兼家の3人の息子達は、父にこんなことを言われ意気消沈したのですが・・・・藤原道長だけが言い返してきました。
「影を踏むことは無理でしょうが、その面(ツラ)をいつか踏んづけてやる」と・・・強気な発言をしました。
兼家がここまで嘆くほどに、藤原公任は三拍子揃った、公達だったのです。
まず家柄が良かった、藤原公任の父は藤原頼忠、関白。藤原兼家とは従兄弟の関係です。
藤原頼忠は、「光る君へ」の中で、いつも声が小さい、とかボソボソとしか話さない、と言われている人です。
母は醍醐天皇の孫、ということで皇族の血も引き、姉は、円融天皇の妃。
まさに、平安サラブレッド貴族です。
それに加えて、和歌、漢詩を作る能力に優れ、楽器の演奏が得意です。
どの貴族の若様が全く敵わないのでは・・・というほどのラッキーな方です。
藤原公任、藤原道長に出世レースを抜かれる!それでも・・・
最初は、藤原公任の方が位が上でした。
円融天皇や花山天皇の時代、藤原公任の身内が、天皇の妃になっていたことからです。
15歳で元服する時は、円融天皇が自ら行うほど、可愛がられていたほどです。
順当に、位が高くなっていくものと思われていた藤原公任ですが、986年 寛和の変 がきっかけで、藤原道長に出世を先に越されていきます。
寛和の変は、最愛の女御(妃)を失い、傷心となった花山天皇をうまく言いくるめて、出家に追い込んだ事件です。
首謀者は藤原兼家、そして動いたのが兼家の息子達です。
そして新たに天皇になったのが、藤原兼家の孫、一条天皇です。この時はほんの6歳でした。
少年も少年、天皇となって政治を行うには、後見人が必要です。その後見人こそが、藤原兼家とその息子達だったのです。
藤原公任の父、頼忠は関白を辞任、そして989年に亡くなりました。
中宮の姉も、父もいなくなった、藤原公任は自分を引き立ててくれる人が誰もいなくなりました。
こうして、藤原道長に地位をどんどん抜かれていきました。
ですが、藤原公任は、道長と友人づきあいを続けていきます。
そのおかげで、藤原公任はそれなりの、地位をキープしていました。
藤原道長にしても、風流人として人気がある、藤原公任と近づきになって池辺、それなりに箔がつくと考えていたのでしょう。
藤原公任は、藤原道長の娘、威子が入内する時に、「和漢朗詠集」をお祝いに送ったと言います。
ある意味、持ちつ持たれつ、ですね。
藤原公任は、そうやってのんびりと(?)過ごしていたようですが、今度は自分より1歳年下の藤原斉信にも、出世で先を越されてしまいました。
藤原斉信も、f4と呼ばれているメンバーの一人です。
その時は、流石に気落ちして、宮中に出仕するのをやめてしまいましたが、頑張って出仕を再開し、今度は権大納言まで、出世できました。
藤原公任と紫式部、面識はあったの?
藤原公任たち、「光る君へ」の中で、f4と番組の視聴者から呼ばれるうちの一人です。
彼らf4たちが、噂をする 紫式部 こと まひろ は地味な女性で、妻にすることはない、という話をしていました。
では、史実に残る、藤原公任と紫式部は一体どうだったのでしょう。
「紫式部日記」に、藤原公任とのやりとりが書かれています。
ある宴の席で、藤原公任が紫式部に「こちらに若紫はいらっしゃいますか?」と尋ねました。
「若紫」とは源氏物語に出てくる、光源氏の妻で、源氏物語の中では、昔も今の人気です。
紫式部は「若紫なんているわけないでしょ」と思って答えなかった、と言います。
では、藤原公任はなんで、「若紫」と言ったか・・・?
それは、「若紫(わかむらさき)」と「我が紫」とのかけ言葉だったのでした。
そして、源氏物語では、光源氏が愛した女性だったので、藤原公任もそれにならって、”愛しい人はここにおいでですか?”に意味を含んでいます。
藤原公任の、若紫の呼びかをしたのは、公任と紫式部はお付き合いする仲になっていたのかもしれない、という見方があります。
源氏物語が描かれているときなら、紫式部は 中宮 彰子 のもとで女官として働いていた頃です。
紫式部は人気作家になっていたので、お近づきになりたいと思う人たちも多かったのでしょう。
公任さんは昔言った言葉(まひろは地味な女性)を覚えているのでしょうか?
藤原公任と源氏物語
藤原公任が、宴の席で、「若紫はおいでですか?」と声をかけたことは、源氏物語がすでに、貴族たちに読まれていたことを意味します。
平安時代は、小説、というか物語は、あまり重んじられていませんでした。
貴族達の、描かれたもので一番人気で品が良い、とされていたのは日記です。
男性達なら、恋愛小説をあまり読まない、どころか「くだらない」と却下するかな、と思うのですが、実のところ男性陣にも人気な小説でした。
それは、源氏物語の中には、男性視点のエピソードがたくさん出てきていたからです。
例えば、「箒木」(ははきぎ)の章に出てくる「雨夜の品定め」。
梅雨時の雨の番、宮中で宿直になった、源氏達が、どのような女性を恋人にしたらいいかl、妻はどんな女性がいいか、などと話をしている場面です。
似たようなことが、「光る君へ」の中で、藤原公任、藤原道長を含む4人の公達でよく、雑談をしているシーンです。
また、政治上の対立や、友情に関する話もあり、男の社会をはっきりと書き表しています。
また男性の、心理それも嫉妬(政治的にも恋愛にも)の描写も生々しく、読み手をゾクゾクさせます。
男性の描写も優れていたことから、源氏物語は女性ばかりでなく、男性にも読まれた作品でした。
平安時代にあまり、高尚な読み物ではなかった物語が、人気小説となりました。
ということは、貴族達は、「そんな大衆小説みたいな本読まないです」と言いつつ、こっそりと読んだところ、想像以上に面白く、大ブレイクしてしまった、というわけです。
風流人として名高い、藤原公任が読んで、ファンになるくらいだから、きっと面白いに違いない、という評判も立ったのでしょう。
藤原公任は、源氏物語の普及に力を貸した、ことになります。
藤原公任の妻 を決めたのは父からの遺言?
藤原公任の妻
藤原公任の妻は、昭平(あきひら)親王の娘でした。
親王の娘というだけで、名前は知られていません。
昭平親王は、親王という名の通り、皇族の生まれです。
村上天皇の第五子で、臣下となり、源の姓をもらいました。
その娘は、藤原道兼の養女となり、そして、藤原公任と結婚しました。
大河ドラマ「光る君へ」内で、藤原公任の父 頼道が息子 公任に対し「お前がこれからつくとしたら、道兼様だ」とアドバイスしています。
頼忠は、藤原三兄弟のうち、道兼を評価していたようです。
道兼は、直情的に動く人物で、乱暴な人間、と、見られていましたが、頼忠は欠点以上に、道兼という人物を、いざという時に動ける人物、と評価しています。
藤原公任、せっかく藤原道兼に近づいたのに・・・
その父の教えを守って、藤原公任は、道兼とコネクションを作るため、道兼の娘(養女)と結婚しました。
藤原道兼も、自分の義理の息子となった、藤原公任を取り立ててやるつもりでいました。
道兼の兄、藤原道隆は関白になって、道隆の一族は娘の定子が中宮になり、これからますます・・・というときに亡くなってしまいます。
そして、道隆は自分の死後、関白職をい自分の息子 伊周(これちか)に継がせたかったのに、関白の位は、ついに 藤原道兼の元にやってきたのです。
藤原公任も、これからやっと未来が開ける・・・道兼に従っていて良かった、と喜びました。
しかし・・・せっかく関白になった道兼が、職に就いていたのはわずか十日ほど・・・そこで七日関白と呼ばれているのですが・・・
ここで、藤原公任のキャリアは期待できなくなりました。
そこから、だんだんと、藤原公任は文学の才を利用して、道長一家に近づくようになりました。
道長の邸宅の改装祝いに伺ったりなど・・・ちょっとゴマスリにも見えますが、そこは「芸は身をたすく」の通りでしょうか。
政治的には成功を収めることはできませんでしたが、その代わり文人としては後世まで名を残す人物となりました。
藤原公任の死因
藤原公任は1041年 2月4日に亡くなりました。享年76歳。
湿瘡(しっそう)という皮膚病が原因で、10日程苦しんだ後に死亡しました。
湿瘡とは現代でいうと、疥癬(かいせん)と呼ばれる皮膚疾患です。
疥癬虫という寄生虫、によって、皮膚に湿疹ができる病気です。
この病を引き起こす寄生虫とは、ヒゼンダニという非常に小さな、目に見えないダニが皮膚に寄生しかゆみを引き起こします。
現代では、医師の診断を受けて適切な薬を出して貰えば、治る皮膚病ですが、平安時代にはまだはっきりした治療法はありませんでした。
疥癬は死に至るほどの病ではありませんが、体力が落ちた人、老人には致命傷になります。
藤原公任は70歳を超えていたから、もう老人の域に入っていました。
ですから、身体が耐えられなかったのでしょう。
この皮膚疾患は、かゆみを伴うため、皮膚の組織が落ちます。
そこから伝染していく病気なのですが、藤原公任の家には、それ以上疥癬の話が見当たらないので、家族や、奉公人は大丈夫だったのでしょう。
藤原公任役 町田啓太
NHK大河ドラマ「光る君へ」でま、藤原公任にキャスティングされているのが、町田啓太です。
さわやかなイケメン平安貴族が似合ってます。
打球競技会のシーンでは、脱いだの脱がないだので注目を浴びました。
平安貴族にしてはちょっと筋肉質すぎるかな・・・と思われるのですが・・・
2024年3月現在では、藤原公任はまだ、ちょっとのほほんとした貴族の坊ちゃん、という感じです。
花山天皇退位事件で藤原兼家一家が力をつけるようになると、父 頼忠に「藤原道兼様につくと良い」と言われ、その後父を亡くし、これからどのように目覚めていくでしょう。
出世にあんまりガツガツしていないところが、藤原公任の持ち味といえます。
そこがどのように表現されていくでしょうか?
藤原公任、何した人だったか
藤原公任は、祖父も父(頼忠)の関白・太政大臣経験者で、母も皇族出身なので、野心たっぷりの人物であれば、かなり大物政治家になれたはずです。
でも、実際には政治家になることにあんまり興味がないような人ではありますが、友人なに自分が抜かれるとのは気分が悪い、とちょっと自分勝手なところがありました。
人には向き・不向きがあるから、とすると藤原公任は政治向きの人物ではなかったようです。
では何をしたかというと、文化面で優れた能力を発揮しました。
和歌に、漢詩に、管弦。
管弦という言葉から、オーケストラを想像させますが、そうではなく、管は笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、横笛といった、空気を吹き込んで使う楽器、つまり管楽器ですね。
そして、弦は琴のこと。
琴は現代で使われる琴もありますが、もっとたくさんの種類の琴がありました。
平安貴族の代表格のような人物だったのですね。
政治的な手腕は残念ながら持ち合わせなかったのですが・・・藤原道長のような大きな野心を持つ人ではなかったから、平穏に過ごせた人だと思います。
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