エドワード懺悔王・・・この王様の名前を持つ王冠「聖エドワード王冠」が、2023年5月6日、イギリス新国王チャールズ3世の頭上で輝きました。
1000年頃の王ですが、現在の英国王室とどんな関係があるのでしょう?
エドワード懺悔王の王冠は現代に伝わるほど、重要なものと思われます。
そして懺悔王とは・・・・懺悔の由来は何だったのでしょう?
エドワード懺悔王の聖エドワード王冠
エドワード懺悔王の聖エドワード王冠とは
2023年5月6日、イギリス国王となったチャールズ3世の頭上に置かれた王冠、それが「聖エドワード王冠」です。
チャールズ2世の戴冠式のために作られました。1600年代中頃のことです。
ですが、聖エドワードの名前に意味があるのです。
私たち日本人にとっての、天皇家の三種の神器みたいなものです。
非常に重く、2キロある、と言われてます。2キロというと、砂糖2袋分でしょうか?
自分の頭に砂糖袋2個乗せてください。感じが掴めると思います。
エリザベス2世は、「首が折れるかと思った」とのちに回顧しています。
国王になるのも楽じゃない。
重いためでしょうか?エドワード王の王冠は、戴冠式の時のみ、それもほんの少しの時間しか頭に乗せてません。
エドワード懺悔王から聖エドワード王冠はあったの?
エドワード懺悔王の王冠は、1600年前と全く同じものでしょうか?
残念ながら違います。
エドワード懺悔王の後をついだ、ウィリアム1世が1066年に戴冠式をしました。
その150年後、ヘンリー3世の戴冠式には違う冠が使われていました。
どこに行ったか盗まれたか?それとも売り払われたか?と噂にはなりましたが、結局は宝物庫にありました。
しかしその後、1600年代半ばに起こった内乱(ピューリタン革命)で、オリバー・クロムウェルが破壊してしましました。
この革命は一時的にでしたが、王政を倒しました。
しかし、1661年に、王政は回復し、チャールズ2世が王位につきました。
戴冠式をするにあたって、王冠を新調したのです。
この王冠こそが、今使われている「聖エドワードの王冠」なのです。
王家がずっと続いているあかしとして、名前もそのまま「聖エドワードの王冠」として作りました。
エドワード懺悔王とは誰?
エドワード懺悔王(ざんげおう)とは1004年〜1066年に実在のイギリス王です。
1066年というと、高校の世界史の授業で習う「ノルマン征服」の年です。
世界史の教科書には、1066年に、ノルマンディー公ウィリアムがフランス方面、ノルマンディー半島から攻めて、イングランドを征服し国王になった、とありました。
ここがノルマン朝イギリスが始まりです。ノルマン朝は今日のイギリス王室まで、ずっと続いています。
エドワード懺悔王は、アングロ・サクソン人、「ウェセックス王国最後の王」というわけです。
じゃあアングロ・サクソン人はいなくなっちゃったの?と疑問が出ますがそうではありません。
アングロ・サクソンの上にノルマンディ人が君臨したのです。
ノルマンディの王朝は、いつしかアングロ・サクソン人と一緒にりイングランド人となりました。
「エドワード懺悔王」のなぜ?
なぜ懺悔王か
懺悔王と呼ぶのは「The Confessor」から来ています。
confess には「告白する、懺悔する」という意味があります。キリスト教の言葉です。「Confssor」とは「懺悔する人」の意味なのですね。
カトリック教会には「懺悔室」がありますね。そこで信者が罪の告白(connfess)をします。「告白」とは「懺悔」とも言います。
そこで、翻訳名で「懺悔王」となりました。しかし、実は告白も、懺悔もしたことはありません。
Confess、にはもう一つ、迫害に遭っても信仰を守った聖人の意味があります。
エドワードは深い宗教心を持ち、お祈りを日課とすることになり、そして「The Confessor」と呼ばれるようになりました。
異教徒からの迫害にも、負けなかったということです。この時代、まだキリスト教が浸透していませんでした。
デーン人(北欧ヴァイキング)からの侵入も続いていました。
エドワード王の死後、100年もしないうちに聖人の位が授けられました。そこで「懺悔王」と呼ばれるようになりました。
最近では「証聖王エドワード」と言います。
なぜエドワード懺悔王の王冠が・・
エドワード懺悔王が用いた、とされたのがこのエドワード王の王冠です。
最初に被ったのはもちろんエドワード懺悔王ですが、それは完成したウェストミンスター寺院での初めてのクリスマス礼拝でのことでした。
そして戴冠式で「聖エドワードの王冠」を頭にのせたはじめての王は、ウィリアム1世(征服王)です。
この意味は、ウィリアム1世は決して征服者ではなく、正当な王としての資格を得た王なのだ、とのアピールです。
ウィリアム1世の死後、王位についた息子たちも同じ王冠を戴冠式で使いました。
英語圏にエドワードという名前がよく見られるのも、エドワード懺悔王の名残りです。
エドワード懺悔王の礼拝堂
エドワード懺悔王の礼拝堂とは、ウェストミンスター寺院のことです。
エドワード懺悔王は、信心深い王様でした。
修道士たちと20年近く過ごし、自分自身も修道士の気持ちを持ち続けていました。
修道院にいたのは、ノルマンディーにいた頃で、ブリテン島(今のイギリス)では異国人の攻撃があり、逃れていたためです。
その時に、ノルマンディー公国の王族たちと親交がありました。
この親交から、のちのノルマン人が、イングランドの王位となる足がかりができます。
信仰心が強かったエドワード王はウェストミンスター寺院を建立しました。1065年の完成です。
寺院というより修道院として建てました。
よって、この寺院は「The Abbey」(ジ・アビー)と呼ばれています。修道院の意味です。
出来上がったばかりのウェストミンスター寺院で、1066年戴冠式を行った最初の王は、ウィリアム1世(征服王)でした。
今ではロンドンの観光名所です。観光客は寺院から壮大な歴史を感じ取ることができます。
ウェストミンスター大聖堂とは別物ですので、ご注意ください!
エドワード懺悔王、世界史では
エドワード懺悔王と世界史・・・1
現在までのイギリス王家の基礎を作った王、はウィリアム征服王でしたが、エドワード懺悔王がいたから今のイギリスがあるのです。
その物語を綴ったのが「バイユーのタピストリー」です。
「バイユーのタピストリー」には1066年の「ノルマン征服」の歴史が麻布に毛糸を使った刺繍で描かれています。
タピストリーとはじゅうたんのことを普通は言いますが、「バイユーのタピストリー」は絵巻物語です。
68メートルに及ぶ長さ、幅は約50メートル。多分壁にかけたのでしょうね。
全部で58場面描かれており、ぞれぞれの場面にはラテン語で説明文がついています。
フランス、ノルマンディー地方のバイユーにあるから「バイユーのタピストリー」と呼ばれてます。
航海、戦闘場面のほか、ハレー彗星も刺繍で描き出されています。
これをみればイギリス王家の成立がわかる、世界史の資料となる価値があります。
作り手が誰かは知られていないのが残念です。一体誰が、といか何人の人が刺繍にかかわったのか、気になります。
エドワード懺悔王と世界史・・・2
世界史の教科書からは、ノルマンディ公ウィリアムが乗り込んできてイングランドを征服した・・・というイメージですが、実際は違います。
エドワード懺悔王は、アングロ・サクソン系の最後の王というのは、息子がいなかったからです。
甥のハロルドを次の国王と承認して、亡くなりました。
しかしハロルドの即位に反対したのが、対岸に住むノルマンディーの当主ウィリアム。
かつてハロルドの船が難破した時に救助したのが、ウィリアム。その時、ハロルドはお礼としてイングランドの王位を、「あげる」と約束しました。
またエドワード懺悔王も、ノルマンディー公ウィリアムに次のイングランドを任せたい、と思っていることが「バイユーのタピストリー」に描かれています。
ウィリアムが約束を守るようハロルドに迫ったのが、今回の事件につながります。
しかし、王位をあげる、というのは唐突な話でありません。
ノルマンディ公ウィリアムは、エドワード懺悔王、ハロルドとは親戚関係にありました。
エドワード懺悔王の母が、ウィリアム征服王の大叔母であった、という関係です。遠いですが、混乱した国への、王権を主張するには、ちょうどいい理由になりますね。
エドワード懺悔王はアルビノだった?!
エドワード懺悔王は「アルビノ」(生まれつき、髪、肌の組織が白い)ということでした。
「バイユーのタピストリー」を見ると、確かに顔が白っぽいですが、他の人物も白っぽく描かれて(糸で刺繍されて)いるのですから、よく確認できません。
性格が弱い人だった、言われています。それでもキリスト教は厳格に守りました。弱いからこそキリスト教に頼ったとも思えます。
カトリック教会に聖人の位が死後に与えられました。
アルビノであること、弱い性格の持ち主、が今でも知られているとなると、教会からはかなり有力な人物とみなされていたのかもしれません。
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