南北朝の歴史を語るとき、護良親王の存在は外せません。
イケメンな皇子ですが、敵が多すぎて、かわいそうで、悲劇的な最後を迎えます。
「逃げ上手の若君」に登場しますが、北条時行とは接触はありませんでしたが、足利尊氏と関わりで重要な役割を果たす人物です。
伝えられている史実は、「太平記」の中にしか見られませんが、その中から見える、護良親王、の姿を描き出していきましょう。
ぜひ最後までお読みください。
護良親王、「逃げ若」に登場
護良親王(もりよししんのう)は、漫画・アニメ「逃げ上手の若君」に登場する、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の皇子です。
足利尊氏(あしかがたかうじ)と敵対するのは、アニメも史実も一緒ですが。
アニメの場合、足利尊氏とのライバル関係がもっと大きく出ています。
護良親王は、カリスマ性のある人物として描かれており、そのカリスマ的なところは史実以上です。
しかしそのカリスマ性も、足利尊氏と比べると、全く敵わない、という描かれ方です。
また自慢だった武芸も敵わない、とかなりかわいそうな護良親王です。
また「逃げ若」の中では、足利尊氏に「太陽は二つといらない」とまで言わせる、かなり才能のある人物でした。
一方の護良親王は、足利尊氏が天下を狙うことを予知しており、「逃げ若」の中では、キーマンになっていると思います。
護良親王、かわいそうな皇子
護良親王は、悲劇の人、と呼ばれるほどかわいそうな歴史上人物です。
親王というからには高貴な身分の生まれです。
父、後醍醐天皇を、そして、再び天皇家に日本の支配権を取り戻せるように一生懸命力を尽くしたのですが、反乱の意思あり、とみなされ、処罰されてしまうところ、悲劇的登場人物です。
護良親王、どんな人物
護良親王は、頭の良い人物だと、史実では知られています。
戦の戦略を考える、武芸に優れている、内容が「太平記」に書かれています。
後醍醐天皇が、隠岐島に流されていたときには、護良親王が天皇の代わりとなって、天皇派の人たちを束ねていた、と思われます。
後醍醐天皇が隠岐島から脱出すると、すぐさま動き、後醍醐天皇を補佐する役目を果たします。
その行動が後に、後醍醐天皇にその忠誠心を疑われる原因となったのですね。
しかし、護良親王はその母の身分があまりはっきりしていないので、天皇位につけるほど、高い生まれではなかったようです。
皇族 北畠師親の娘が母らしい、と推測されているのですが、決定的ではありません。
それでも乱世の中、周囲から、護良親王を次の天皇に、なんて声もどことはなく上がっていました。
人望があった、という証拠です。
よく考えてみれば、後醍醐天皇もわかったはずなのですが、寵愛した側室にだけ目が入ってしまった、ちょっと困った父親のもとに生まれた、護良親王は不運でしたね。
護良親王の性格
当時のことを書いた戦記物『太平記』には
「性格は、強気で激しい性格をしている、それは父 後醍醐天皇によく似ている」とあります。
また、幼少も頃から、頭脳明晰で、一を聞いて十を知る、そいういう性格でした。
確かに頭の良い人物で、先の見通しができる人物でした。
足利尊氏を警戒したのも、そういう先が読める、ところから来ています。
性格が父親に似た息子というのは、最初は頼もしい存在に見えますが、だんだんと成長していくと、自分のコピーを見るような気がして、腹立たしくも思うようになる、という傾向があります。
護良親王が、父 後醍醐天皇から疎んじられるようになったのは、周囲からの悪口だけでなく、息子の中に自分と同じ野心があるような気がして、怖く感じたから、と自分は推測しているのですが。
護良親王は天台座主に
護良親王、出家し天台座主に
護良親王は6歳で、出家し天台宗の寺で育てられました。
天皇の子というものは、寺で育てられることはよくありました。
まずは、たくさんいる子供の口減しのため、食費の節約ですね。
また、「お前には、期待をかけていないから、せめて僧になって父を助けてくれ」という意味に感じられます。
次は、最初から、父は息子に期待していなかった?と思えるのです。
せめて、寺に入って、僧兵を味方につけ天皇家のために働いてくれ、という程度の望みだったのでしょう。
最初は、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)の別院「梶井門跡」に入ります。(ここは現在では、京都の大原三千院になっています)
20歳になると、天台宗で一番偉い地位 天台座主(てんだいざす)になります。
護良親王、実は武芸好き
しかし、護良親王は大の武芸好き。
修行中でも、仏教の勉強はそっちのけで、僧兵相手に武芸の練習ばかりして、そのおかげで武芸の方はメキメキと上達しました。
それでよく、天台座主になれたものだ、と思うのですが、そこはやっぱり天皇の皇子ということで、後醍醐天皇と、比叡山との何らかのやりとりがあって、のことと思われます。
護良親王は、天台座主として比叡山の住居となった建物が 大塔(だいとう)というところから、親王のことを「大塔宮」(だいとうのみや、または おおとうのみや)と呼ぶこともあります。
護良親王、還俗!
護良親王は天台座主、という地位から、1331年 23歳の時 還俗しました。
還俗(げんぞく)というのは、坊さんをやめて、一般人に戻ることです。
きっかけになったのが、1331年8月、後醍醐天皇が2度目の鎌倉幕府打倒でした。
これが「元弘の乱」と呼ばれる、事件です。
後醍醐天皇は、鎌倉幕府に負け、護良親王は後醍醐天皇とともに、鎌倉幕府に追われます。
後醍醐天皇の方は、捕まり、隠岐島(島根県)に流刑で幽閉されましたが、護良親王はここではの無事逃れました。
その時には、護良親王は、後醍醐天皇の代わりとなり、再び討幕活動を続けます。
こおで、楠木正成(くすのきまさしげ)、新田義貞(にったよしさだ)と言って武将が集まってきたところで、還俗し、吉野(奈良県南部)で兵をあげました。
護良親王 イケメン
護良親王は、アニメ・漫画「逃げ上手の若君」では、目つきキツめ、というか吊り目ガチののイケメンに描かれています。
実際の護良親王はイケメンだったか?
護良親王の、顔、というか首というものがあります。
公開された写真を見ると、すっきりとした、日本人顔。
というか、貴族顔、という感じです。
ちょっと表現は古いですが、「醤油顔」という感じでしょうか。
これが、14世紀のイケメンかも、と思わせる顔立ちです。
イケメン、で悲劇的な人生、そして非業の死(ひごうのし)となると、人気が高まりそうな歴史上の人物です。
自分には落ち度がなく、周りからの陰謀によって命を落とした、というのですから。
村上義光に助けられた護良親王
ここで、護良親王は、村上義光(むらかみよしみつ)という武将の犠牲を受けて生き延びることができました。
事件は 1333年のこと。鎌倉幕府が、天皇家の権威を主張する、後醍醐天皇と争っている時です。
このシーンは、明治時代の浮世絵師、歌川豊宣(うたかわとよのぶ)が「太平記」を読んで描いた浮世絵です。
護良親王たちは、鎌倉幕府からの60,000もの兵と戦ったとき、内通者がいたために、形成不利な状況に追い込まれました。
護良親王自身、7本の矢を受けてしまうピンチ。
よく生きていられたものです!
「これはもう自害するしかない」と覚悟した時に、村上義光という家臣が、身代わりを申し出ました。
そして、護良親王の甲冑を自分が着て、自害!
そして護良親王は、無事逃げ切ることができた次第です。
身代わりとなって逃す、という話は戦乱物に、よく登場する感動ストーリーです。
護良親王の悲劇の人物とするための、演出なのかな?と思えてます。
なんにせよ、このピンチを乗り越えたのは事実だと、私は思っています。
護良親王と足利尊氏
護良親王は足利尊氏とは、対立する関係でした。
足利尊氏については複雑で、鎌倉を離れ後醍醐天皇に味方するも、やがてまた天皇と敵対することになります。
護良親王、足利尊氏から嫌がられる
1333年 鎌倉幕府が倒れた後は、護良親王が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となりました。
それを、苦々しく思っていたのが、足利尊氏。
いずれは自分が、征夷大将軍にと野望があり、護良親王は目の上のたんこぶですね。
さらに、皇室の中に、護良親王を快く思っていない人物がいました。
それが 阿野廉子(あのれんし、または れんこ)、彼女は後醍醐天皇の側室で、自分の産んだ 義良親王(のりよししんのう)を、次の天皇にしたいと思っていました。
この時の次期天皇として有望株だったのが、護良親王でした。
阿野廉子は、護良親王がいなければ…と思っていたので、ここで、利害関係が一致。
二人で、護良親王 排斥に向けて動き出します。
護良親王は、足利尊氏を、どう思っていた?
護良親王の足利尊氏への、印象は、いいものではなく、警戒していました。
その頃、ちょうど鎌倉幕府が滅んで、足利尊氏が、後醍醐天皇に近づいてきた頃です。
足利尊氏は、武士たちの間での人気があったので、いつかは天皇に逆らう、と感じていました。
後醍醐天皇が、隠岐島を脱出して、鎌倉幕府を討つ命令を出した時あたりから、すでに足利尊氏に対し、警戒心を抱いていました。
「逃げ若」の中では、護良親王は、足利尊氏が、足利尊氏本人に、飲み込まれるようなイメージを見ています。
事実では、そんな予知はなかったと思いますが、護良親王が足利尊氏を野心の塊、と見ていたことは事実と見て取れます。
護良親王、信貴山に居残る
護良親王は、後醍醐天皇のサポートのため、奈良県の信貴山(しぎさん)の守りにつきます。
後醍醐天皇が隠岐島から京都に戻り、鎌倉幕府が滅亡後でも、親王は何か不穏な空気を感じて、信貴山に残ります。
後醍醐天皇は、護良親王に、京に戻るよう呼びかけ、さらには、護良親王に再び僧に戻ってもらいたい、と説得するのでした。
この後醍醐天皇はちょっと、自分勝手な感じですね。
当然、護良親王は、聞き入れません。
以前として、足利尊氏は、裏切る、と思って言いたからでした。
この辺りから、護良親王と後醍醐天皇の確執が生まれつつあった、と見えます。
護良親王、征夷大将軍に
足利尊氏の裏切りを考え、信貴山から、離れなかった護良親王は、父 後醍醐天皇に、征夷大将軍の地位を望み、後醍醐天皇はそれを認めました。
征夷大将軍の位を受けて、そしてから信貴山を降り、京都に向かいます。
京都へも、足利尊氏を牽制するかのように、完全武装で入りました。
護良親王は後醍醐天皇に、足利尊氏がもし武家による政治を目指しているなら、これからまた戦乱の世がやってくる、と主張しました。
後醍醐天皇は、息子の主張を聞いて、なるほど、と納得し 護良親王を征夷大将軍の任命したのでした。
しかし、それが新たな戦乱の、第一歩になってしまった、というわけなのです。
足利尊氏は自分こそが征夷大将軍に任ぜられるべき人物、と思っていたからです。
実際、足利尊氏も征夷大将軍になりたい、と後醍醐天皇に申し出ていたのですが、認められなかったことで、後醍醐天皇を恨み、のち、天皇家と足利家との争いにつながっていきます。
護良親王、幽閉される
ここでいよいよ、足利尊氏と、阿野廉子の共同作戦、つまり 護良親王 追い落とし作戦が始まます。
阿野廉子は、後醍醐天皇に、護良親王のことを悪く言います。
後醍醐天皇から天皇の位を奪うという、謀反を計画していると。
後醍醐天皇は、護良親王に問いただしますが、護良親王は、「謀反などない、天皇の位を奪う気は全くない」と言いますが、後醍醐天皇は聞く耳を持ちません。
護良親王が、よく天皇の代わりとなり、天皇の言葉として命令を伝えていたため、それが『見本の証拠』と思われてしまったからです。
ついに1334年5月 護良親王は征夷大将軍から解任され、捉えられ、鎌倉に引き渡され、鎌倉の土牢(つちろう)に幽閉されてしまいました。
その管理は、足利直義(あしかがただよし)、尊氏の弟です。
護良親王と北条時行
護良親王は、漫画・アニメ「逃げ上手の若君」に登場しますが、その主人公 北条時行(ほうじょうときゆき)とは直接の接点はありません。
北条時行が起こした 中先代の乱(なかせんだいのらん)は1335年。
その前年、1334年に護良親王は捕えられ、幽閉されてしまっているからです。
護良親王の死の原因となったのが、北条時行の中先代の乱になっているといえます。
足利側は、北条時行と護良親王が同盟を結ぶかもしれない、と恐れたからです。
護良親王は、征夷大将軍も務めていた人物。そして、足利尊氏を嫌っている。
北条時行も足利尊氏一党を、父の仇、鎌倉幕府を倒した張本人として恨んでいる。
足利憎し、という両方の利害が一致したら、そして、それに従うものが数多く出たとしたら、
足利は危機感を感じます。
護良親王にとっては、中先代の乱が1335年に起こったということが不運だったのだと、思います。
護良親王と雛鶴姫の悲劇
護良親王が、愛した雛鶴姫は伝説?
護良親王の妻、といっても側室ですが、と言われている女性がいます。
それが雛鶴姫(ひなずるひめ)です。
雛鶴姫は、護良親王の側室、護良親王の子を宿した女性でもあります。
正室は、北畠親房(きたばたけちかふさ)の娘、あるいは藤原保藤(ふじわらやすふじ)の娘で南方(みなみのかた)だった、とふたつの説が出ています。
舞鶴姫については、北畠親房の娘とも伝えらているだけで、素性は確かではありません。
そもそも、正室についても詳しく書かれていませんので、北畠親房の娘、南方、雛鶴姫が同一人物だったと、推理する人もいるほどです。
護良親王が、還俗したのは、雛鶴姫と結ばれたかったから、と大胆な想像をする人もいるほどです。
護良親王への愛を貫いた雛鶴姫
護良親王は、幽閉されたのち、殺害されます。
殺害されて、首を切られたのですが、雛鶴姫はその首を抱えて逃げ、葬ろうとしました。
その時、雛鶴姫は身重の体でしたが、鎌倉から山梨県、都留市のところまで逃げてきました。
雛鶴姫の故郷、十津川を目指していたことが、都留市の郷土史研究会は調べ上げています。
都留市で、村民たちに不審がられ、そこでは宿を取ることもできませんでした。
しかし、なんとか旅を続けて、途中で子供を産んだのですが、過酷な状況で姫も子供も、死んでしましました。
雛鶴姫の伝説は真実か分かりかねますが、雛鶴姫をまつった、雛鶴神社というものがあります。
また雛鶴が子供を産んで、なくなってしまった場所を雛鶴峠という名前が付けられているので、単なる伝説とも思えません。
護良親王、誰に殺された
護良親王は、幽閉された上、殺害されてしまいました。
手を直接下したのは、淵辺義博(ふちのべよしひろ)で、命令を下したのは足利直義です。
裏には、足利尊氏の思いがあった、というのは、漫画・アニメ「逃げ若」の解釈です。
、後世の人々が、護良親王と足利直義について書かれれた解説書から想像すると、足利直義は自分の判断で、殺害に踏み切った、と、思えてきます。
1335年、中先代の乱が起こります。
北条時行の軍に攻められ、足利直義は鎌倉から逃げなければならない状況でした。
その時、まだ、鎌倉で幽閉されていた護良親王の存在は、非常に危うかったのです。
もし北条時行と結託すれば、足利は追い詰められるかもしれません。
そのために、のちに不安を残さないためにも、排除していこう、という思いで、暗殺してから鎌倉を去ったのでした。
護良親王の最後
護良親王の最後は、淵辺義博に襲われたわけですが、その場所が、土牢の中、座敷牢で、寺で蟄居中にとか、場所についてはいくつか話があります。
『太平記』に、護良親王の最後が描かれています。
護良親王は、暗殺されたとき、28歳でした。
淵辺義博が鎧を身につけた、武士を何人かつれて、護良親王を襲いました。
その時、組み伏せて、首を切ろうと狙ったのですが、護良親王は、自分を狙た刀の刃に噛み付き、刀を折りました。
淵辺義博は、脇差で護良親王の胸を刺した上で、首を切ったのですが、その時の護良親王は、刀をくわえたまま目を見開いて、ものすごく恐ろしい顔をして息絶えていたのです。
その姿がとても恐ろしかったから、切った者たちは首を投げ捨てて、逃げてしまったようです。
刀に噛み付いて折った、という話からは、護良親王のものすごい執念を感じますね。
自分は無実だった、と訴え続ける、護良親王の哀しさが、ひしひしと感じられるほどです。
護良親王の首
護良親王は首を落とされたのですが、その首についても伝説があります。
- 殺害された後、側女の一人がその首を持ち出し、首を洗い清めて埋葬した、というのです。その伝説は、横浜市戸塚区の王子神社と言われ、その近くに首洗いの井戸というものがあります。
- 側室の雛鶴姫が、首を持って逃げる途中亡くなり、首は、都留市石船神社に祀られている、という説があります。
疑問としてな、首を洗う時、くわえたままの刀の刃はどうしたのでしょうか?
外さないと、手を刺しそうで怖くて洗えません。
外したとしたら、その刃の行方が気になります。
石船神社に行く前には、舞鶴姫がなくなると同時に、護良親王の首を富士吉田の小室浅間神社に納めたと言います。
石船神社には、今でも護良親王の首、というものが伝わっています。
その顔は漆加工されています。
護良親王と(思われる)頭蓋骨に金箔を施し、梵字を書き入れた上で、木屑、木片、漆を使って造顔されています。
が、その首がいつ、漆加工されたのか、その年代が明らかにされていません。
目には水晶をはめ込んでいますが、今では左目だけにしか残っていません。
護良親王は後醍醐天皇との親子関係は?
後醍醐天皇の皇子として生まれた、護良親王は、幼い頃は父のお気に入りでした。
賢い子だったからです。
しかし、寺に預けられる、などした事実を考えると、護良親王が特にお気に入りかどうか怪しいものです。
「お気に入り」という箇所は、『太平記』などに後から載せた記述ではないでしょうか?
「お気に入り」と言っても、のちに後醍醐天皇に対し、反乱を起こす意思がある、みなされます。
そこには足利尊氏の、陰謀が潜んでいました。
足利尊氏は、後醍醐天皇のお気に入りの側室、阿野廉子(あのれんし)と組んで、護良親王を排除することにしたのでした。
阿野廉子にとっては自分の産んだ子供 義良親王(のりよししんのう)を次の天皇に付けたかったからです。
護良親王は、結果 後醍醐天皇の命令で征夷大将軍を解任され、足利直義(あしかがただよし、尊氏の弟)の手で、逮捕され、幽閉されます。
幽閉されながら、護良親王は、
「足利尊氏よりも、後醍醐天皇に恨みを感じる」と言った、と『梅松論』には書かられています。
『梅松論』は南北朝から室町時代の、歴史・軍記物語で、作者は不明ですが、室町幕府の人間ではないかと、考えられています。
直接自分が対決した敵よりも、自分の実の父親の方を恨んでいる、なんて、とても悲しい話ですね。
まとめ
護良親王の悲劇は、源義経の悲劇とよく似ています。
義経の話は、鎌倉時代の初め、そして護良親王の話は、鎌倉時代の最後。
繋がりはないのですが、悲劇で始まり、悲劇でおわった鎌倉時代でした。
妻(側室)であった雛鶴姫の伝説も残り、護良親王と雛鶴姫の神社がある、山梨県では御神体となり大切に扱われています。
護良親王は、活躍した時期が短かったので、父 後醍醐天皇のように重要視されていませんが、父のためにかなりしっかり働いた人物です。
敗北したのは、足利尊氏の野心と陰謀に敗れたからでした。
それでも南北朝の歴史を彩るエピソードで、護良親王の伝説は今でも人気があります。
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