アンブーリンとメアリーブーリン姉妹を「ブーリン家の姉妹」に見る ヘンリー8世が夫イギリス王妃に。エリザベス1世の母。ドラマのキャストナタリードーマーはまり役!美人は本当?

アン・ブーリンをご存知ですか?1500年代初めころのイギリスの王妃様です。エリザベス1世の母親であった女性です。そして夫は国王はヘンリー8世です。

映画「ブーリン家の姉妹」で詳しく描かれています。そのキャストは役柄にピッタリ。

また別のドラマではナタリー・ドーマーが好演していました。

アン・ブーリンの結婚でイギリスでは波乱が起こります。

そんなアン・ブーリンは美人だったのでしょうか?

アン・ブーリンとメアリー・ブーリン姉妹の映画とドラマ キャストがいい

一番最近で有名な映画は2008年公開の「ブーリン家の姉妹」(The Other Boleyn Girl)です。ナタリー・ポートマンが気の強い、見ようによっては嫌な女の役を演じていました。それに対し、スカーレット・ヨハンソンが全く対照的な性格、容姿をもった妹メアリー・ブーリン役を演じ、その対立と姉妹愛が絡み合った見所満載の映画でした。

映画いえば1969年の「1000日のアン」というのもあります。こちらのアンは「ブーリン家・・・」と比べるとむしろかわいそうに思える王妃としての描かれ方です。アン役のジュヌヴィエーヴ・ビジョルドが美しいアンでした。

「1000日の・・」のアンより「ブーリン家・・」のアンは自我が強い女性です。この現象は、女性に関する世の中の意識変化からの影響があります。現代女性は自分でお金を稼ぐこともできるし、自己主張もします。自分が小さくなっていることをよしとはしません。もちろん全ての女性に当てはまるわけではありませんが、映画内の女性像は昔と今ではかなり違います。時代物を扱った題材でも、ヒロインは自分をしっかりと出せる性格に描かれることが多いです。

「The Tudors~背徳の王冠~」2007年~2010年まで放映されたヘンリー8世の生涯を描いたTVドラマシリーズです。「背徳の王冠」とはセンセーショナルな日本語タイトルですが、ヘンリー8世の行動をみると当然かと・・・Tudorsはヘンリー8世の王朝の名前です。なお、現在の英国王朝名はウィンザー家(The Windsor)です。

ドラマではアン・ブーリンをナタリー・ドーマーという女優が演じており、見た目ちょっと日本の女優小池栄子似でした。小池栄子さんの北条政子の気の強そうな性格も似て見えました。「鎌倉殿の13人」を見るたびにナタリー・ドーマーがダブって見えます。

アン・ブーリンとヘンリー8世の出会いは?

イギリスの王ヘンリー8世(生年1491)はとにかく問題の多い王様でした。本来ならヘンリー7世の次男だったため、王位に就くはずではありませんでしたが、皇太子が早世したため、ヘンリーが王になることになったのです。

兄嫁はスペインから来た姫君キャサリン。4歳年上の義理の姉に当たるのですが、そのキャサリンと結婚します。理由はキャサリンのスペインからもたらされた持参金が一つの理由です。夫死亡となるとその妻は故国に帰るものですが、そのときは持参金も持ち帰ることになっていました。スペインは大国なので、持参金の額もなかなかなものです。この持参金を返したくない・・・・では、といって取られた策がイングランドの王位継承者との再婚でした。

実を言うと持参金のために死んだ皇太子に変わって父親のヘンリー7世が再婚を考えたほどでしたが、さすがに無理で断念しました。

代わりに次期王位に就くヘンリー王子(のちのヘンリー8世)が結婚を望みました。ヘンリー8世は元々、美人だった兄嫁にひっそりと思いを寄せていましたため、再婚にはもってこいのシチュエーションでしたが・・・・・

カトリックの戒律では義理とはいえ姉妹とは結婚できない決まりでしたので、ヘンリー8世は何とかして結婚しようとしてローマ教皇に、金品を送る(つまりワイロ)などしてついには許可を得た次第でした。

ところが、子供はなかなか授からず、生まれても早い時期に死亡したり、残った子供は王女一人だけでした。そうすると、姉弟で結婚したからその罰を受けた、と噂も流れます。

昔の王様というのはだいたい、正式な妃以外に愛妾がいました。つまり愛人。特にヘンリー8世の女性好きは後世まで有名です。

ヘンリー8世の愛妾の一人が、アン・ブーリンの姉妹メアリー・ブーリンでした。どちらが姉か妹かはっきりとはわかっていません。英語にするとsisterです。近代社会以前では、女なんてどうでもよかったので、どの母親から生まれたかの出自のみが大切だったので、十把一絡げで姉妹と片付けられています。女性はそれほど重要視されなかったのは、昔の日本も一緒ですね。かの有名な作家紫式部だって、これは名前でなく役職からきた名称ですから。

ちなみに姉妹共々、キャサリン王妃の侍女をでした。当然王と出会う機会は多く、そこから知り合うというところから始まりました。

メアリー・ブーリンとの間には男子が生まれました。ですが神の前で宣誓した結婚から生まれた正式な子供ではないので、庶子扱いです。しかもこの子供は王より認知を受けていません。また他の愛妾との間にも男子が生まれましたが、その子の庶子のため王位につけることができません。

当初は、ヘンリー8世はアンも姉妹のメアリーと同じように、愛妾にしようとしました。ちょうどメアリーが妊娠中で引きこもっていたため、ヘンリーの目にとまりました。一説では、自分から王に近づいたとも言われています。

何としても後継を設けたかった、ヘンリー8世はここで当時としては前代未聞の行動をとります。離婚、という。キリスト教ではあるまじき行為でした。

アン・ブーリン、ヘンリー8世を夫にするための道

ヘンリーはアンに求愛を迫るのすが、アンは退けます。姉妹のメアリーの様子も知っていますし、王の女好きの性格も、自分は何かあったら顧みられなくなってしまう可能性もよく知っていましたから。これまで王からのプレゼントを断っていました。最も王の気持ちを焦らすための作戦だったのかもしれません。

ここで後世に伝えられている台詞があります。「私は王妃になるには身分が低すぎますが、愛人になるには誇りが高すぎます」

結婚してくだされば貴方様の思いのまま・・・という意味です。

このセリフ同じセリフを言ったのが、ヘンリー8世より3代前の王エドワード4世が自分の王妃になった女性、エリザベス・ウッドヴィルでした。彼女はすでに未亡人で王位を争った敵側の人間だったため、結婚は反対されていました。

果たしてこれがエリザベスのセリフだったか、アンのセリフだったか、アンが真似をしたのか、両方の話が混じってしまったのか不明ですが、とにかく効果覿面でした。

拒絶されるとますます思いが募るのが恋心・・・・というやつですか?

ついに王は、では結婚しよう、そう言い放ちます。

ヘンリー8世は結婚していたキャサリンと離婚してアン・ブーリンと結婚することにしました。子供まで成したメアリーを捨ててです。

そしてメアリー・ブーリンに男子が生まれたから、同腹の姉妹アン・ブーリンからもきっと男子が生まれるはず、という不確かな確信を持った上での結婚でした。

アン・ブーリンとヘンリー8世の結婚、その波紋

スペインから嫁いできたキャサリン王妃との離婚は容易ではありませんでした。当時の英国はカトリック教徒だったからです。カトリックは離婚を認めていません。例外は子供がいない時ですが、女子であろうとも生まれていれば絶対に離婚できません。今回のヘンリー8世とキャサリンの場合は王女メアリーが生まれているから認められるものではありません。

そこでヘンリー8世は王妃がかつては自分の兄の妻だったことを取り上げ、結婚は間違いだった、と理由をつけてローマ教皇に結婚無効を請求しました。

当然教皇は認めません。せっかく苦労して出した許可を簡単には取り下げません。しかも、王妃キャサリンの甥はスペイン王です。スペインはカトリックの強国でローマ教皇との信頼関係も絶大です。スペインが自分の身内が粗末に扱われるのを黙ってみているわけありません。

なかなか思うにように結婚の許可が下りないヘンリー8世は業を煮やして、カトリック教会から絶縁して自国のキリスト教を打ち立てます。それがイギリス国教会です。その教会の元では国王が宗教上の最高責任者を兼ねます。

もちろん、離婚問題だけでイギリス国教会設立を決めたわけではありません。イギリス国内教会、修道院の財産、税金が関係しています。これらの財産類はイギリス国内にありながら全てローマカトリックの元に入ってしまうことに対して、また司教など重要な教会の職につくものの任命権が全てローマカトリック側にあることへの不満も主な原因になっています。離婚問題はほんのきっかけでしかありませんが、イギリスの未来を完全に変えてしまう宣言であることは間違いありません。

アン・ブーリンって美人だったの?

王を引きつけたくらいだからさぞかし美人と思うかもしれませんが、アン・ブーリンは当時の感覚では美人の部類に属さないようでした。当時の美人というと、肌色は白い、体型的には豊満(グラマー?)、金髪、碧眼と言われていました。対してアンは暗い色の髪と瞳、肌色もそれほど良くなく、痩せぎすなタイプで、どちらかというと妹(姉)メアリーの方が美人、と言われるタイプでした。父親でさえも、もっと見栄えの良い娘だったら・・・と嘆いていた有様でした。

ヘンリー8世の妹がフランスに嫁ぐにあたり、アン・メアリーの姉妹は侍女として一緒にフランスに渡りました。文化が花開くフランス宮廷で二人は学問、音楽と勉学に励みました。ですから外国語、人を惹きつける話術、物腰を一生懸命習得しました。

帰国後はキャサリン王妃の侍女として宮廷に出入りするようになりました。メアリーの美貌はもちろんのこと、アンの方も巧みで豊富な話術で男性からの人気のマトでした。

また、ドレスの着こなしも自分で工夫していました。そしてその動きは優雅でドレスと良く会いました。アン・ブーリンの着こなし方は宮廷で流行したほどです。

特にアン・ブーリンの女性の魅力は美貌ばかりではない、という証拠ですね。ひときわ目立つ姉妹はヘンリー8世の目を引くのにに大して時間はかかりませんでした。

王妃アン・ブーリン娘しか産めず ついに終焉 しかし娘はエリザベス1世に

アン・ブーリンは王妃となりますが、実は王妃となる前に懐妊していました。「結婚」と聞いて早くも気持ちだけ先走ったのでしょうか。婚姻成立後4ヶ月ほどで産まれています。今でいう「デキ婚」

それなら、子供の誕生はアン・ブーリンが正式に結婚した後でなければ意味がありません。神の前に結婚が認められた後なら、その子供は嫡子となることができるのです。ですから結婚を急ぎました。

とことが産まれた子供が女の子。もうヘンリー8世はがっかりです。「せっかく結婚までしてやったのに・・・・」と不満が湧いてきます。

しかし。この王女こそがのちのエリザベス1世となりました。

その後もアン・ブーリンは懐妊にしますが流産します。だんだんとヘンリー8世の心はアン・ブーリンから離れて、後継となる男子を埋めそうな女性に目移りします。実はアン・ブーリンにプロポーズしてから結婚まで、6年もかかっていました。前王妃のキャサリンが即座に離婚を承諾せず解決まで時間がかかったからです。

そうなるとアン・ブーリンも30歳近くなって、次の子供を望むのは難しいと見られていました。その時ヘンリー8世は次の王妃候補に目星をつけていました。また離婚すればいいだけです。

離婚に向けて今度使った手は、アン・ブーリンになんらかの罪を着せて離婚に持ち込むことでした。

その結果、アン・ブーリンはいわれのない罪を着せられ、処刑台に消えたのでした。

映画「1000日のアン」とあるようにアン・ブーリンが王妃であった期間は立ったの1000日でした。つまり3年弱。王妃という地位に現王妃を蹴落として、他の女性を押しのけてでも王妃になったアン・ブーリンは果たして幸せだったか・・・それは誰も知ることができません。

ただ、後継者欲しさに離婚、再婚を繰り返すヘンリー8世は、ついに一人男子を授かったのですが、ヘンリー8世没後わずか10歳で王位に就くものの在位期間6年でその命を終えています。

その後は結局、最初の王妃キャサリンとの王女メアリーが女王として王位につき、ついでアン・ブーリンの娘エリザベスがエリザベス1世として女王となります。

皮肉なことに、望んだ男子ではなく、女子によって国は栄え、特にエリザべス1世時代はこの上もない繁栄を遂げたことは、誰もが知る事実であります。

また、こんなに当時の世界に驚異を与えてまで、カトリック教会から離脱し、婚姻のために法律を立てて今日に至るわけなのですが、現代に来て見ると「なぜ?時代に逆行したの?」と思うことがあります。

ごく最近、イギリスのチャールズ皇太子はダイアナ妃と離婚して違う女性と結婚しました。その時、これは再婚だから新たな妻は将来王妃となることはできない。

また「世紀の恋」と言われたエドワード8世はシンプソン夫人と結婚したくて、認めれなければ退位と言って、王冠を捨てて夫人と一緒になりました。

どちらの女性も離婚歴があったため、イギリス国教会の戒律で認められないことが理由だったのですが、ヘンリー8世時代、結婚したいがためににカトリックから離れて国教会を建てたのでしょう?と思うとどうもスッキリしない気持ちになります。400年も経つ間にも色々新たに変化を重ねた、ということなのでしょうか?

 

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