戦国武将、大谷吉継は、ドラマや映画ではいつも白頭巾を被った姿で登場します。
それはハンセン病を患い、顔など皮膚に斑紋が出る症状を隠すためだった、ということです。
しかし、ハンセン病だったかを疑う調査も出ています。
病気でありながらも活躍する姿が後世、大谷吉継ファンを生み出しました。
大谷吉継の、生涯などはこちらをご参照ください。
ここでは大谷吉継の病状、など詳しく見ていこうと思います。
大谷吉継 病気?
NHK大河ドラマなどで、大谷吉継の登場を見た人の多くは「あの、頭巾をかぶっている人は?」「なぜかぶっているの」などと疑問を持ちます。
白頭巾をかぶっている?
時代劇で頭巾をかぶっているという、たいてい顔を見られたくない人、というわけですが、では、なぜ顔を見られたくなかったか?
頭巾をかぶって登場する時代劇ヒーローといえば、大佛次郎(おさらぎじろう)作の「鞍馬天狗」ですが、あれは正義のヒーローで、表の顔を知られなくなかった、なんて作り話ですが。
こちら、大谷吉継は正義のヒーローではなく、もっと深刻な事情がありました。
病気だった、それも顔立ちが変わる、それも皮膚等が崩れてくる病気、と言われています。
この白頭巾姿も、戦国時代の記録はなく、江戸時代中期に出回った戦記物から、定着したスタイルとなりました。
「関ヶ原軍記大成」、関ヶ原合戦誌記」などに出ていました。
戦国時代を描いた屏風絵があり、その中では大谷吉継は頭巾姿で描かれていますが、この屏風絵は1800年代に描かれていますから、幕末です。
病気であった・・・という内容だけが伝わり、病気の実態はわからないままです。
「白頭」とは?
頭巾なんて何色でもいいのに、わざわざ白?、とあるのには理由があります。
大谷吉継が20代に書いたとして残されている書状には、「白頭」という号が入っています。
昔の手紙には、自分の名前を表す「号」を入れることが普通でした。
今では号を入れるのは、書家とか画家(それも日本画家)が書く、雅号と呼ばれるものです。
ということは、20代の頃から、髪が白く変色していた、頭髪がない(禿げ)、あるいは白頭巾をかぶっている、ということが想像されます。
それとも、単に愛称だったのかもしれない。
江戸時代に大谷吉継の書状を読んだ人物が、癩病(ハンセン病)で、顔立ちが崩れて白頭巾をかぶっていた、と想像を発展させたのかもしれません。
大谷吉継の病気はハンセン病だったのか?
有力説はハンセン病
大谷吉継がどんな病気だったか?
もっとも有力な説がハンセン病でかつては「癩病」(らいびょう)と呼ばれていました。
世界中でもかなり古い時代からある病気です。
病気の特徴の一つに、皮膚疾患があります。
皮膚疾患には、皮膚に斑紋ができ、その斑紋は時には白、赤など色味を帯び、広がり皮膚が壊死した状態になることもあります。
また、神経が麻痺し、痛みを感じにくくなり、毛根に障害が出る症状になります。
後世に書かれた、大谷吉継を書いた小説によると、ある時から傷を負っても痛みを感じなくなった、と書かれています。
さらに大谷吉継は、目も悪くなってきていました。
病気であった証拠
こちらには、根拠があります。
1594年、上杉景勝の家臣、直江兼続に、自分は今、草津温泉に湯治(とうじ)に来ていると、書状に書きました。
その時、書状を締めくくる花押(かおう)を目が悪く書くことができないから、代わりにハンを押す、書き加えました。
花押とは、書いた主がわかるサインのようなもので、書状の最後に必ず入れるのが決まり事でした。
文字がよく見えないから、手紙は自分の家臣の代筆だったのですが・・・それでも署名がわりの花押は自分で入れるのが礼儀でした。
しかし、花押がかけずにハンコを押す、と断りを入れました。
目が悪くなるのもハンセン病の一症状ではありますが、だからと言ってこれがハンセン病とは言い切れません。
単に目の病気だったことも考えられます。
皮膚疾患を発生させる病気をあげれば、ヘルペス、接触性皮膚炎、アレルギーだってあるかもしれません。
アレルギーは現代でこそ騒がれていますが、昔だって知られてはいなくても、存在の可能性はあります。
身体が弱るなら、癌が原因でもおかしくありません。
梅毒からくる症状、の可能性もあり、のように可能性はたくさんあります、。
とにかく、大谷吉継が何らかの、疾病を患っていた、これだけは本当です。
大谷吉継の病気はいつから?
大谷吉継の茶会の話は有名です。
大谷吉継が武将たちに敬遠されたという、豊臣秀吉主催の茶会は1587年ということです。
茶会事件の2年後、というから1589年ですね、この年に大谷吉継は敦賀を与えられ、その後も小田原攻め、で活躍しました。
また、秀吉の大陸出兵には後方支援をしていた、というのですから、病に臥せっている所ではありません。
自覚症状があんまりなかったのだと思います。
むしろ茶会事件の方が、どこの資料にも載っていなくて、伝説の可能性が強いのです。
辻斬りの犯人では、という噂も立ちましたが、この事件は茶会の1年前、1586年なので、こちらの場合も、大谷吉継の病状が、どうの、という時期ではありませんでした。
でも噂になったというのなら、確かに大谷吉継の病気は多くの人が知る事実、だったのでしょう。
関ヶ原の戦いの大谷吉継の病状は?
今に知られている話だと、大谷吉継は関ヶ原の戦いの時には、もう病がかなり悪くなっていた、といううことでした。
そのため関ヶ原に向かうにも、神輿のような乗り物により、家臣たちに担がれ、体力も無くなってきてため、甲冑もまともに身につけることができなかったと。
でも、本当に悪いとは思えない、話が幾つか出てきています。
行動的な吉継?
大谷吉継の病状について、最近出てきた説では、本当に死に至る病だったのか?という疑問も出てきています。
それとも本人の精神力で頑張り抜いた武将なのでしょうか?
石田三成 襲撃事件で
1599年、石田三成が、加藤清正たち7人の武将に襲撃される事件がきました。
加藤清正たちが石田三成のリコールを狙ったもの、と言われてきましたが、この事件の裏には、石田三成が家康の暗殺を企てた、という噂もあります。
加藤清正たちは、暗殺を止めようとして、石田三成を訴えようとした、というわけです。
暗殺事件に関して石田三成の無罪を証明しようとしたのが、大谷吉継でした。
石田三成の無実を訴え、あちこちの大名たちに釈明の手紙を積極的に書いて送っていました。
手紙は、座ったまま出かけるから、それほど体力を消耗する活動ではありませんが、かなり神経も使う作業なので、重病人のすることには思えません。
伏見城戦いの時には
石田三成襲撃事件の翌年、1600年には、伏見城の攻防戦が行われました。
その時も、病人とは思えない行動、酒を飲みすぎて酔っていた、という話が伝えられています。
徳川家康が、京都の本拠に決めていた伏見城を、攻撃する事件でした。
徳川家康の留守を狙っての、攻撃です。
説話によれば、伏見城の戦い後それほど間を置かなくて起きた関ヶ原の戦いでは、大谷吉継は満身創痍の出立のはずですが。
伏見城の攻撃に加わろうとした武将、島津義光(しまずよしみつ)がいます。
島津は、攻撃に大谷吉継を誘います。
しかし、大谷吉継は、その前の晩、酒をたくさん飲んでしまい、酔い潰れて戦いどころではない、と返答しました。
実際、二日酔いだったらしいです。
そんな立つこともできない病人が、二日酔いになる程、酒を飲むでしょうか?
二日酔いのエピソードは、現代の歴史家 外岡慎一郎さんが「二日酔いの大谷吉継」という本を書かれています。
このかたは大谷吉継について、本をたくさん書かれています。
大谷吉継、子孫はいるか?
ハンセン病を疑われている大谷吉継・・・・
そんな病気で子供はいたのだろうか・・・と疑問がありますが、息子 大谷吉治(よしはる)がおりました。
息子は関ヶ原の戦い後、浪人(牢人)となり、大坂の陣では、義理の兄弟真田幸村とともに戦ったものの、戦死。
吉治に子孫はいたものの、直系は絶えてしまいました。
その後は養子を津軽藩 杉山家からとり、大谷家を存続させてきました。
津軽藩 杉山家は、かつての大谷吉継の盟友、石田三成の子孫の家系です。
こんなところにも、大谷吉継と石田三成との絆はあるのですね。
現代に、大谷吉継の子孫は残りますが、直系でなないのです。
代わりに、真田信繁(さなだのぶしげ 幸村ともいう)のもとに嫁に行った大谷吉継の娘にも子供が多数生まれており、こちらは現在、直系の子孫がおります。
大坂の陣の後、残った息子(長男は、大坂の陣で秀頼と共に大坂城で自害)が仙台藩に拾われたことで、生き残ったのです。
こちらも、真田家の子孫であると同時に、大谷家の子孫となりますね。
こうして思わぬところから、自分の先祖がわかる時がありますので、もしかしたら、自分たちにも誰か有名な人物の血が流れているかもしれない、と想像するのは楽しいです。
大谷吉継の病気 「どうする家康」では
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」でも大谷吉継がトレードマーク(?)の白頭巾を被って登場しました。
そこでは、「大病から復帰した・・・」とあります。
一度、病により秀吉から病気療養のため静養の許可をもらっていましたから。
ハンセン病は、当時では不治の病だったので、これを見ると、大谷吉継は本当にハンセン病だったのだろうか?という疑問にぶつかります。
大谷吉継と石田三成のお茶会のエピソードも、茶会という形ではなく、三成が吉継の飲みかけの茶碗から残りの茶を飲み干し、うつる病気なら俺にうつせ・・・と言っています。
茶会のエピソードの存在に疑いを持ちながら、お茶のエピソードを盛り込んだ演出と思いました。
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