田沼意次というと、悪徳政治家のイメージがついてまわります。
時代劇でも悪人として描かれます。
2024年、ドラマ「大奥」ではいつも、何か悪巧みをしてます。
ところが、2023年「大奥2」よしながふみ原作のドラマ化の番組では、松下奈緒さん演じる、田沼意次、国の政策に一生懸命取り組む老中でした。
どちらが本物なのか・・・両方の要素を持った政治家なのでしょうか。
田沼意次、どんな政治家だったか見てみましょう。
田沼意次にいいところがある!
田沼意次の実態は、有能な政治家だったのです。
田沼意次、株仲間を作る
その仕事は財政改革。
田沼意次は徳川家重(吉宗の子)の信任を得て、出世していきます。
この時代、飢饉が起こり、幕府の財政は厳しくなり、幕府がとった政策は増税でしたが、増税はいつの時代も、庶民からは嫌がられます。
家重の次の将軍、家治にも続いて仕えた田沼意次は、商業に力を入れることで財政を立て直そうとしました。
株仲間はその一つです。
同業の商工業者に少人数制の組合を作らせ、そこに独占権を与え、税金を幕府に収めさせました。
物品の売買のために専売制を作り、そこから税を集めます。
専売制度とは、商品にひとつづつ座を作りました、その座で商品を売るのです。
例えば、薬用人参を売るための人参座とか、枡(枡)を売るための枡座などがありました。
そのため、田沼意次の屋敷には、田沼に取り入ろうとする人々が押しかけ行列を作っていたということです。
田沼意次を人々の交流
田沼意次は、政策に活かせるよう情報収集に力を入れました。
そのために知識人、武士、商人たちと積極的に付き合いました。
その一人が、平賀源内(ひらがげんない)。
NHKの男女逆バージョンだった、よしながふみ原作の「大奥」では、平賀源内を伝染病撲滅のため呼び寄せていました。
これも実際に出会ったことがあるからこそできたストーリーです。
農学者、青木昆陽(あおきこんよう)との出会いでは、さつまいもを普及させて凶作から人々を救おうとしました。
医師、工藤周庵(くどうしゅうあん)との交流で、工藤が仙台藩出身だったことから、田沼意次の目は蝦夷地に向かうことになったのでした。
また、創作ではありますが。池波正太郎 原作の「剣客商売」では、市井(しせい)の剣豪と親友にも近い交流を持ったことも、田沼意次の人付き合いのうまさからきています。
田沼意次、大奥で人気
「大奥」の番組で、田沼意次がなぜ、大奥のお上﨟たちと会っているのかが、謎でした。
大奥は将軍以外の男性とは会わない、ということなのに・・・
ところが、田沼意次の場合は、田沼の出世は大奥とは切り離せいない関係があったからなのでした。
9代将軍 家重に最初に仕えたのですが、家重は身体が弱く、言語をはっきりと発声できない障害があり、将軍本人もそれを気にして、大奥に閉じこもることが多い日々でした。
将軍が世を治めていくために、部下 田沼意次に動いてもらうのは必須事項です。
大奥に将軍様が籠ってしまうのであれば、田沼意次の方が大奥に出向くしかありません。
また、大奥の目的は、徳川家を存続させること、つまり世継ぎを作る場所でもありました。
田沼意次にとっても、大奥という場所は自分と自分の後継者にとって大切なところだったのです。
田沼意次は、大奥を味方につけることにし、そのために、大奥の重要な地位にある人たちに、贈り物を欠かしません。
贈り物を持ってくる、それに加えて、田沼意次はイケメンでした。
そこで、大奥の女性たちからは大変な人気でした。
そういえば、時代劇の田沼意次役は、イケメン俳優が多いですね。
2024年「大奥」の安田顕さんはちょっとコワい感じですが、通常の安田さんは、かっこいいですから、やはりイケメン田沼意次でしょうか。
田沼意次といえば賄賂政治?
田沼意次といえば、誰もが連想する賄賂政治。
田沼意次は、前の部分でも書いた通り、「株仲間」を作りました。
株仲間に入ると、税金を払うものの、特権を手にすることができます。
そのため、そこに入りたいと思う、商工業者は大勢いました。
株仲間に入るためには、ただ頼むだけでは効果がなく、「賄賂」というものを持参しました。
例えば、田沼意次が「今は、万年青(おもと、すずらんに似た観葉植物)の栽培にハマっている」といえば、江戸中の万年青がが途端に売り切れになる、とかそんな感じでした。
現代でいう、胡蝶蘭のような扱いの植物だったのでしょう。
現在と江戸時代の賄賂に関する考え方がちょっと違います。
当時は、ある人に便宜を図ってもらった時は、金銭か物品でお礼をするのが普通で、賄賂にはお礼に相当する意味がありました。
当然のことで、悪いこととは思っていなかったようです。
田沼意次は、人々の願いをかなえたのだから、お礼を受け取るのは当然で、もらった賄賂は、幕府のため、また庶民のために再び使う財源という考えでした。
田沼意次はのちに、幽閉に追い込まれた時、
「すべては自分のためではない。自分は老中として天下のためにこの身を捧げた。自分は全く偽りを行わなかった」と手紙に書いています。
ここからも、賄賂とは悪いこと、は考えていなかったことがうかがわれます。
このような手紙を書くからには、賄賂を私腹を肥やすためには使っていなかったようです。
となると、時代劇お決まりの「そちもワルよの〜」といって、小判をこっそり受け取るシーンは虚構の世界ですね。
田沼意次、どんな人?
生まれは1719年。
家柄は、足軽で父は紀州藩(和歌山県)出身でした。
子供時代は、9代将軍 家重の元で小姓奉公をしていましたが、家重に田沼の有能さを見出され、政治の世界に進むことになりました。
それからあれよあれよという間に、出世街道を進んで、1772年ついに老中に昇格です。
田沼意次という名前からイメージされる人物像は、権力自慢の嫌なやつ、ですが、実際は面倒見の良い人物であった、と記録があります。
家茂の時代、郡上八幡の一揆時の、事務処理能力、判断力が優れていました。
また失脚後のことを書いたものですが、田沼が減給され、家臣を解雇しなければならなくなった時、彼らの暮らしが困らないよう、手当としてかなりの額を渡していました。
しかし、権力を持ってからは、傲慢になる部分が目立ち、そのイメージが現代にまで残る田沼意次の人物像となって残ってしまった、とちょっと残念な人物です。
田沼意次の失脚、松平定信の台頭
1782年 天明の飢饉(てんめいのききん)が起こり、1783年には浅間山の大噴火がありました。
まさに天変地異の年間ですね。
続いた災害が、田沼意次の失脚に結びつきました。
そういう意味では運が悪いですね。
田沼意次の失脚は、賄賂をもらったから、というのが原因ではありません。
その頃、白河藩の藩主になった、松平定信(まつだいらさだのぶ)の行動力が素早かったのです。
凶作にならなかった、越後から米を買い入れて、日用品を揃えて白河の庶民に配布したり、仕事を失った農民に新たに雇用を確保するなどして、一人の餓死者も出さなかったことが評判になりました。
それに対し、田沼意次は、対応に遅れをとってしまいました。
そのため、百姓一揆、豪商への打ち壊しが続いて、田沼意次の政治生命は危うくなってきました。
ライバル(?)松平定信の話は江戸にも、武勇伝となって伝えられてきます。
田沼意次の立場はますます悪くなっていきました。
さらに、田沼意次も後ろ盾になるはずだった、次期将軍 家基(いえもと)も17歳という若さで亡くなってしまいます。
飢饉に対する対策の遅れと、一揆などの責任を問われついに、田沼意次は1786年、老中の職を追われることとなりました。
これが田沼意次の失脚の理由です。
必要な時に的確な行動が取れなかった、そして自分をバックアップしてくれた将軍がいなかった、です。
次の将軍は、徳川家治の元に養子となった、徳川家斉(いえなり)でした。
家斉の元で、老中となり権力を持ったのが、松平定信です。
田沼意次の評判
田沼意次というと、悪徳賄賂政治家のイメージが強すぎます。
なぜここまで悪く言われるようになったのでしょうか?
田沼意次は、財政立て直しを頑張ったのですが、そのために、商業や農業の発展に力を入れすぎたのです。
江戸時代は武士が政治を回していたので、武士たちにとっては、田沼意次は武士よりも、商人を重視しすぎている気持ちがしたのでしょう。
江戸時代の身分優劣は 士・農・工・商だったので、一番位が下の商人に力を入れて、しかもそこから金銭を受け取っているのが卑しく見えたのでしょう。
それにしても、田沼意次が失脚した時に、町人達が田沼意次を貶めるヤジを飛ばしていたのがちょっと・・・と思うのですが。
やはり、稼ぎが少ない町人達から見ると、田沼意次が一人だけガッポガッポとお金を集めていたように見えて、面白くなかったのでしょうね。
しかし現代での田沼意次の評価は変わってきています。
農民から重税を取り立てなかったところが優れていると。
経済政策にこれまでなかった、組合などを取り入れたこと。
田沼意次は時代を先駆けての政策をとっていた、ということでした。
時代が、ついていかなかったのかもしれません。
田沼意次の最後
田沼意次は失脚後、1787年、生涯屋敷に幽閉される、という処罰を受けました。
この処分を下したのは、将軍ではなく、松平定信でした。
松平定信は、将軍 家斉の元で老中を務めています。
松平定信は、田沼意次を恨んでいた、ことが理由と言われています。
松平定信も、吉宗の孫であるため、将軍になれる希望があります。
しかし、徳川家の分家の一つ、田安(たやす)家に養子に出されたり、田安家の後を継ぐ必要が亡くなった時に、また松平に戻りたい、といっても願いが叶えられませんでした。
その裏に、田沼意次の差金があった、ということで恨んでいるというわけです。
田沼意次は、幽閉のまま、1788年 70歳で、その生涯を終えました。
心臓発作で、医師に看取られて亡くなりました。
ですから、「大奥」のドラマであるような、炎上する江戸城で、切腹はドラマを盛り上げるためのフィクションです。
田沼意次は魅力的な政治家
田沼意次の一生を見てみると、「出る杭は打たれる」ような人生に見えます。
新しい政策を考案した・・・しかし、やはりお金を得ると人は変わってしまうのかもしれません。
大金を手にし、幕府の有力政治家になると、どうしても傲慢さが出てしまいそうですね。
またそれを人がどう見るか・・・その見方によって変わってきます。
「大奥」と男女逆転版の「大奥」、両方の田沼意次は別人のように違っていた人物でした。
かたや、権力を手に威張り散らす。
かたや、権力があっても、幕府と人々のために働く。
どちらが本当の姿か・・・どちらも本当の姿なのだ、と思います。
コメント