2024年大河ドラマ「光る君へ」にも新たな人物が登場しました。
宋人がやってきて、このドラマもいよいよ国際的になってきましたね。
ドラマの中では995〜96年です。
日本は島国で、海外との交流は少ないのですが、意外と、繋がりがあることわかります。
ここでは、朱仁聡の、性格、日本で行動・活動を書いていきます。
今後の「光る君への」の新たな展開をより楽しんでいただければ幸いです。
朱仁聡なんと読む?
日本で通っている名前の読み方は、「しゅじんそう」ですが、
中国語としての読み方は「ヂュレンツォン」です。
これまで、日本の時代ものを扱ったドラマに出てくる、異国人は、中国系の名前は、ほとんど日本語の読み方にされていました。
それを、私たち視聴者も違和感なく聞いていました。
ですが、世の中はだんだんと国際化が進んできて、中国系、韓国系も発音は原語の音で発音されるように、変わりつつあります。
でも当時の、日本人たちはどう呼んでいたのでしょうか?
漢字で表記されると、どうしても日本語読みをしたくなるのではないでしょうか?
「ヂュレンツォン」という読み方、実は現代の中国の標準語・・・なぜ・・・?
読み方は、時代や、その人の出身地によっても違うはず・・・
藤原為時(ふじわらためとき)のように、中国の言葉を勉強している人なら、名前の読み方も、言語風が当然、と思っていたことでしょう。
昔から日本人は、漢詩を読むときには、「読み下し文」と言って、わざわざ返点をつけて日本語で呼んでしましたから、日本語で読むほうが当たり前、と思う人が多かったですね。
ちょっと日本人には発音しにくい名前、ですね。
朱仁聡は宋の商人
朱仁聡は、宋の商人、名乗ってやってきました。
そして商人船の長(おさ)という設定です。
船長なのかも・・・・しかし商人自らが船の船長になることはあまりなく、船長は別にいて、朱仁聡は、この船のご一行様の責任者なのでしょう。
越前到着を目指してやってきたのではなく、乗っていた船が難破して、漂流していました。
実は、朱仁聡が、日本にやってきたのはこれが初めてではありません。
すでに、987年に来たことがあり、その時は朝廷に、羊、鸚鵡(おうむ)などの珍しい動物を、朝廷に献上していることが、「扶桑略記」、「日本記略」などに出ています。
これら献上品は、帰国の際に、朱仁聡に返却された、ということです。
ちょっと不穏な空気を感じ見ますが・・・
朱仁聡はどんな人物?
朱仁聡は日本への渡航リピーターです。
987年に初来日し、その後数回日本にきています。目的はやはり日本との交易でしょう。
朱仁聡は、喧嘩っ早い人物と思われます。
そのエピソードを、ご紹介しましょう。
朱仁聡、若狭の守に暴力を振るう
それも暴力沙汰ばっかり・・・
997年には、若狭の守 源兼澄(みなもとのかねずみ)に暴力を振るいました。
どのような暴力かは書かれていないのですが、朱仁聡はこの件に関して取り調べを受けています。
しかし処罰の記録はありません。外国人との間に厄介ごとを抱えたくない、当時の地方自治体の事情が伺えます
朱仁聡、献上品の代金を請求
999年、朱仁聡は、越前国へ献上した品の代金未払い、で訴訟を起こしました。
この感覚自体が、変わっていると思うのですが・・・
献上品、というのはこちらから差し上げる、向こうに受け取っていただくものですよね。
それに代金を請求するのですか?
同年、朱仁聡は、石清水八幡宮(京都)にも献上品を送りましたが、その使者が石清水八幡宮の修行僧に捕えられたそうです。
捕まえた、ということを岩清水八幡宮から朝廷に訴えを出した、というので、朱仁聡 側の方に何か、怪しいそぶり、乱暴な行動があったのでしょう。
朱仁聡・・・中宮 定子の買い物も・・・未払い扱い?
一条天皇の皇后 定子(さだこ)も、朱仁聡を通して、品物を注文ました。
中宮定子が、宋の商人 朱仁聡 から、唐物(からもの、中国製品、ということ、おそらく調度品)を個移入したことは「小記目録」という中に書かれていました。
中宮様は、代金を踏みたおす気持ちは全くありません。支払いも準備しました。
しかし、代金を払う使者が、越前についたとき、朱仁聡は、太宰府に移ってしまいました。
それでは払いようがないのですが、朱仁聡は、「代金未払い」と訴えました。
ちょっと、自分が移動するなら、その連絡先を相手に言わなければならないのに、その義務を果たさないで、苦情をいうのは自分勝手すぎるというものです。
それでも、定子が誠意を見せて、朱仁聡を探し出して、代金を払うも、代金不足を告げられてしまうのです。
でも・・・実際は、間入った、太宰府側の人物、藤原有国(ありくに)が差額横領していた、とか・・・なんとも・・・ひどい事件です。
朱仁聡の来日目的は、実は密命あり?!
日本朝廷側の懸念を見ると・・・
朱仁聡が日本にやってきた目的・・・商人だから日本との商い、と考えるのが普通ですが、どうもそれだけではない、様子です。
アメリカの人気SFドラマ「スタートレック」のように、未知の世界を友好を求めて旅を続けているのなら面白いですが、1000年も前の世界事情を見ると、そんな楽しい任務ではなさそうです。
「密命を・・・」というと考えられるの一つが、日本に宋国への服従を求める親書を持ってきたとか・・・
またある種の破壊行為を、日本国内で起こして、日本を宋の属国にする計画とか・・・
物騒な発想ば浮かんできますが・・・
あるいはすでに、宋人たちがすでに日本で暗躍していて、それを鎮める和平のための企画書、なんて発想もあります。
まだ海外との、交渉に慣れていない、日本人にとっては、大変な試練です。
しかも、平安時代の戦力は、ゼロに等しい。
国際的な戦争はもちろんのこと、国内での戦争だって、対処できないところです。
もし海外から攻め込まれたら、ひとたまりもありません。
おそらく幕末の黒船以上に、深刻な問題になりそうだと思います。
朱仁聡 一行、太宰府に移される
1000年、朱仁聡は太宰府に移されることになります。
やはり、調停も、宋人たちの動きはおかしい、と思ったのでしょうか?
そのあたりのことが藤原実資の「小右記」に書かれています。
高麗(朝鮮半島)から、日本に書状が送られてきます。
それによると、朱仁聡が、越前あたりで、なんらかの行動を起こす可能性あり、ということでした。
そして、書状には、唐人(宋人)を速やかに、日本国から追放することをお勧めする、と意見が書かれていました。
そこから、中国人たちを、太宰府送りにすることにしました。
高麗からの陰謀の手紙かもしれないし、内容が本当のことなのか・・・わかっていません。
とにかく、心配のあるものは、できるだけ遠くに離そう、とした朝廷の政策だったのです。
一行が、太宰府に行ったとなると、周明が将来、太宰府で医療活動をやっていても不思議はありません。
朱仁聡と藤原為時・・交流はあった?
朱仁聡が、若狭についてから越前に送られてきたちょうどその頃、藤原為時(ふじわらためとき、 紫式部の父)が、国司となり越前に赴任してきました。
その理由は、やってきた、宋人たちに一条天皇が興味を持った、ということも一因です。
得意分野が漢学だった、藤原為時を、ちょうど良い、と見て、赴任させました。
それなら、藤原為時は、朱仁聡をはじめとする、宋人と交流を持ったのではないでしょうか?
藤原為時は、宋人に詩を送った、という話は、「今鏡」(いまかがみ)や「本朝麗藻」(ほんちょうれいそう)などに見られます。
宋人たちと、漢詩を歌いあったということです。
と言っても、朱仁聡と詩を読み合ったわけではありません。
朱仁聡は、商人であって、あまり文学な得意そうな人ではありません。どちらかというと暴力的?
藤原為時と、詩を歌いあったのは、周世昌という、朱仁聡と同行した人物です。
周世昌という人物は、どうやら、朱仁聡の船の通司(通訳のこと)を務めていたようで、ということは文人としての素質は十分、ということでしょう。
余談ですが、藤原為時の漢詩は、中国で披露された時、あまり高い評価は受けませんでした。
朱仁聡、日本人仏教僧と会見?
源信僧都という僧侶が、987年、朱仁聡の元に弟子を連れて会いに行っています。(最初に朱仁聡が来日した時)
源信が書いた「往生要集」(おうじょうようしゅう)という伝記に、記されています。
源信はそれより以前にも、朱仁聡が来日した際、同行していた、中国人僧と親交を持っていたようです。
987年には、親交を持った中国僧は来日しなかったようですが、源信はそれでも、朱仁聡に会いに行きました。
以前出会った時の、懐かしさと多分、手紙を託したかったのでしょうね。
「光る君へ」の舞台、995年では、朱仁聡と源信の会見は、あるでしょうか?
朱仁聡 役 浩歌 とは?
浩歌とかいて「ハオゴー」と読みます。
この名前を見たら、外国人かな?と思いますが、実は違います。
日本生まれ、で日本育ちの日本人です。
日本名は「矢野浩二」。
俳優養成所を出た後、森田健作さんの、弟子兼付き人をしていました。
その後、中国でのドラマ撮影の後、中国で俳優活動をすることとなります。
そのときに、芸名を「浩歌」としたそうです。
中国で「浩兄さん」と呼ばれていた時の発音を、そのまま「浩歌」と変えました。
2023年の朝ドラ「ブギウギ」でも中国人作曲家の役をやっていたのは記憶に新しいです。
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