日本にやってきた海賊というと、元寇が有名ですが、その以前平安時代にも、日本は海賊の被害を受けます。
大河ドラマ「光る君へ」に出てくる刀伊の入寇です。
「刀伊の入寇」とは一体、何なのでしょう?
この戦いで、藤原隆家が活躍したのは注目すべきことです。同時に双寿丸の活躍も見たいです。
ここでは、刀伊の入寇と藤原隆家の活躍について、述べていきます。
刀伊の入寇とは?
刀伊の入寇とは(といのにゅうこう)、日本に外国からの盗賊が船で攻め込んだ事件のことです。
1019年3月末から4月、5月にかけて、盗賊、海からくる賊、つまり海賊が日本の九州地方を襲いました。
歴史上で、「日本が初めて外敵に襲われたのはいつ?」と調べると、1274年の元寇が出てきますが、それよし200年以上に「刀伊の入寇」が起こりました。
「刀伊の入寇」を始めての外敵、と見ていいとは思いますが、日本の地理を見てみると、もっとそれ以前にも、外敵に狙われることもあった、と思いませんか?
確かに、日本の周囲は、波が険しく、山岳がちな地形のため、侵略しづらい、ということでしたが、根気強く狙えば、侵略はできないことではない、という感じがします。
それでも、九州地方では、このような外国に手酷く攻め込まれる、という事件には出会ったことがないので、住民たちはパニックになったことでしょう。
刀伊の入寇どこの国
襲撃されたのは日本ですが、襲撃をかけてきたのは、中国大陸北東部に住む女真族の一つと見られる人々です。
「刀伊」という名前は、高麗語で高麗より東にいる敵のことを「東の夷狄(いてき)」と呼んでいたので、
日本ではそれを端的に「とうい」とよび、それに漢字を当てて「刀伊」となった次第です。
刀伊の、民族 女真族ですが、中国に居住していますが、この時代(11世紀)では中国のほんの一部族でしたが、12世紀には金王朝をたて、
もっとのち、17世紀には、満州族といわれ、清王朝を建てた民族です。
王朝まで建てた民族なので、刀伊の入寇で、少しずつ財力と勢力をつけていった国なのでしょう。
刀伊の入冠なぜ起こった?
唐王朝の滅亡により暴れ出した女真族、海賊行為がを起こしたからです。
刀伊の入寇より、20年ほど前に、中国は唐王朝が滅び、中国全土が戦う中、ついに960年に宋王朝が生まれました。
唐が滅びたしばらくは、中国大陸は混乱していたのではないでしょうか?
中国の動きに連動して、朝鮮半島では新羅から高麗に変わり、満州地方の勢力も契丹族(きったんぞく)に変わりました。
女真族は、この3大勢力から押し出される形で、南下を始めたと思われます。
というのも、女真族の痕跡は、アムール川から、ウラジオストク、やがて日本海に徐々に南下していったことが、遺跡の発掘によってわかってきているからです。
女真族は宋(中国)、高麗、満州に挟まれた中から、脱出して、勢力を養うことを計画したのでは、と私は思います。
勢力をつけるために海賊化して、日本の国を襲い始めました。
刀伊の入冠で双寿丸は参加した?
「光る君へ」第44回の放送で、双寿丸は自分が太宰府に行くことを、藤原賢子(かたこ)に告げました。
双寿丸の上司は平為賢であり、平為賢は、藤原隆家に仕えていますので、隆家が「太宰府に行く」と言ったら、当然、その部下たちも一緒に太宰府に赴くことになります。
双寿丸は、こちらの記事にありますように、武士という仕事に誇りを持って当たっています。
ですから、太宰府が、危険な状態でその平定のために行く必要がある、と言ったら迷わず行くのが職務、そう双寿丸なら考えるはずですね。
刀伊の入冠といえば、藤原隆家!
藤原隆家、といえば、藤原伊周の弟。つまり道長の甥です。
ということはバリバリの公家です。
この公家のボンボンが、武士も真っ青(?)な活躍を、刀伊の入寇でみせるのです。
藤原隆家は、目に病気を持ち、その治療のために名医を求めて太宰府に、1012年からいました。
それも、名医を探すために、わざわざ自ら朝廷太宰府権帥(だざいふごんのそち)の役職を希望しての赴任です。
藤原隆家の太宰府での職務は、優れていた、と平安時代の歴史書「大鏡」には書かれています。
1019年、刀伊が対馬、壱岐に攻め込んできた、というニュースが藤原隆家に伝わると、隆家は総大将となって、戦います。
「戦う」と言っても、これは当時の九州、それどころか日本にとっても未曾有の事件!
日本は、襲撃に対し未経験であるため、刀伊たちはやりたい放題、九州本土の、博多あたりまで迫ってきます。
日本側は藤原隆家を指揮官として戦略を練ります。
藤原隆家は、腕の良い武人を起用し、弓矢を主力とした戦闘を展開します。
戦闘は防御が中心でしたが、粘り強く攻防した結果、刀伊を敗走させることに成功しました。
その後も防御を続けた結果、刀伊は日本への進攻をついに断念しました。
刀伊たちは、日本に太刀打ちできない、そう思ったのでしょう。
日本軍の攻戦は功を奏したのでした。
刀伊の入冠の結果
日本はなんとか「刀伊」を撃退することに成功しました。
その理由は、訓練を重ねた武芸を身につけた兵というものがいたからです。
実は、日本では律令制度(奈良時代から)が整備されてくると、農民たちが組織する寄合的な、軍事体制は崩れていきました。
というか、中央に対抗する恐れがあるために、解体されていった、ということです。
1019年「刀伊の入寇」で活躍した兵はどんなものか、というと藤原隆家が組織した、プロの武人。
平為賢たちの一団(部下に双寿丸)がそれにあたります。
もう一つ、地方の武者も存在しました。
それが、935年に関東地方で起きた、平将門の乱、同じ頃起きた 瀬戸内海の藤原純友 の乱を平定した、武者の子孫です。
どちらの乱も起きたのは、平安時代初頭。「刀伊の入寇」からさかのぼってみると、まだ100年もたっていません。
乱を平定した武者は、農民が武士になったものたちではなく、地元から生まれた土着の武士ということになります。
地元も、というかローカルな武者たちはこののち、「鎌倉幕府」創立の力になることは2022年の怠大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に現れてきます。
刀伊の入冠は悲惨
刀伊の入寇では、壱岐と対馬の島が、略奪され放題でした。
刀伊の入寇の様子を、藤原隆家は報告書、そして私信にして、朝廷の藤原実資に送り、実資は「小右記」に報告書の内容を書いていました。
手紙により、九州を襲った賊が女真族であった、という報告もありました。
そこには被害状態も書かれていました、そこには
刀伊軍に拉致されて人の話、拉致された後生きまたまま海に投げ込まれた女性の話、が出ています。
その女性は、投げ捨てられた後高麗人に助けられたのですが、その様子を自らが書いた書き記し、その文書もまた、添付されていました。
さらに日本人で拉致された人は300人を超え、あるいは400人以上とも言われていますが、彼らは帰国を望んでいる、ことも藤原隆家は、付け加えてありました。
それ以外の被害もひどく、住民の拉致に加えて、財産、食糧、家畜の略奪を行っています。
住民は、奴隷にするため、食糧は彼ら 刀伊の食料にするため、でした。
これら被害の全てを、藤原実資に報告した、藤原隆家の意図は、朝廷の危機管理が甘い、ということを伝えたかったのでは?と今日では、学者たちが推測しています。
刀伊の入寇が「光る君へ」に
刀伊の入寇事件、2024年大河ドラマ「光る君へ」で描かれます。
ここで、注目しておきたいことは、ここに紫式部が出現したこと、ではありません。
紫式部は、あくまでも事件を描き出すための小道具としての扱いです。
紫式部の目を通して、見られることが、大切だと思います。
まずは、朝廷は無能?おそらくこういう結論が考えられるでしょう。
いつの世も、国際的な事件の前では政府は何もできない、のですが。
そして、職業としての武士、という階級が芽吹いてくることが、注目ポイントと思います。
武士、という階級が確定するのは、まだまだ時は必要ですが。
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