先ごろ、イギリスのエリザベス女王が亡くなられて、ウェストミンスター寺院で行われた葬儀が世界中に中継されました。
その時、祭祀を行った人物がカンタベリー大司教。カンタベリー大司教というと、イギリス国教会の第一人者。イギリス国教会は16世紀に、カトリック教会からの離脱した教会です。そしてイギリス国教会の総本山カンタベリー大聖堂の大司教。
ではカンタベリー大聖堂は一体どんなところなのか?カンタベリー大司教とは一体どういう人物がなるのか・・・興味はつきません。
確かカンタベリー大聖堂にイギリス中から巡礼が押しかける時があったっけ?それは何で?確かトマス・ベケットという大司教が昔いたっけ?などと思い出してきました。
トマス・ベケットって誰でしたっけ?
国王ヘンリー2世と意見が合わず殺される羽目になってしまった大司教・・・でしたね。そして殉教者となり聖人に列せられた人物でした。
以前「ベケット」という、トマス・ベケットを扱った映画がありました。白黒でしたが何だか心に残る映画でした。
また「カンタベリー物語」というイギリスの書物もあります。トマス・ベケットとの関係があるのでしょうか?
トマス・ベケットって誰?
イギリスの高位聖職者です。カンタベリー大司教を務めた人物です。生まれは聖職者と関係なく裕福な市民でした。1118年〜1170年の生涯でした。日本で言えば平清盛とほぼ同世代です。
イギリス国王ヘンリー2世と意見が異なることから暗殺されます。そしてその2年後には、ローマ教皇により列聖されて聖人となりました。
裕福な家庭の生まれでしたので、子供時代は清貧な生活を送ったわけではなさそうです。僧職に着いたとはいえ、ひょっとしたらその修道院的生活にはすぐには馴染めなかったような気がします。
昔は賢い子はさらなる勉学のために神学校に行くケースが多かったので、出世をねらって僧職に着いたのかもしれません?切れ者で野心的な人物のような気がします。
当時のイギリス国王ヘンリー2世に使えていて、国王とは気が合ったということです。
ヘンリー2世はイギリスのプランタジネット朝の祖で、自由奔放な性格でした。そこから考えると、トマス・ベケットは案外国王ヘンリー2世と共に遊び歩いた生臭坊主(?)時代があったのかもしれない。
ヘンリー2世はトマス・ベケットが気に入ったかとから、いろいろな役職につけました。まずは大法官として。
大法官というのはイギリスの中世での政府の役職で、国璽(国の正式な判子のようなもの)の管理を任され、その判を押す権限のある仕事、つまり大臣の役割と法廷での権限を持つ仕事です。三権分立どころか一極集中型政治ですかね。
トマス・ベケットはすでに僧職の身でしたが、聖職者が司法や行政の役割を担うことが当時は珍しいことでことではありません。
さらにカンタベリー大聖堂で大司教となりました。ヘンリー2世にとって仲良しのベケットにイギリス1の大聖堂を任せることはすなわち自分が教会を思うままに操れると狙ってのことのようです。
しかし、ここからはトマス・ベケットは大真面目な熱心なキリスト教者になってしまいました。そして国王ヘンリー2世と意見の対立するようなりました。一番の論争点は宗教裁判の権限についてでした。
ここでトマス・ベケットにどんな心境の変化が出たのかは、現在の私たちには知る由もありません。
トマス・ベケット、800年前の暗殺事件
しかし身の危険を感じたトマス・ベケットはイギリスから逃れてフランスに渡ります。そこでヘンリー2世を破門をすると脅しの警告をします。
この時代はまだヨーロッパ中の国王たちは破門をものすごく恐れていましたから、ヘンリー2世も破門宣言にびっくりして、トマス・ベケットと和解します。
しかし、和解が一時的なことで、次なる悲劇が起こります。
な、なんとトマス・ベケットが暗殺されてしまったのです。それも祭壇で祈りを捧げているときに4人の騎士にめった刺しの惨殺されました。
確かに坊さん暗殺なんて洋の東西を問わず罰当たりです!
ことの起こりは、トマス・ベケットが、ヘンリー2世が知らない間にイギリスに帰国して、ヘンリ−2世と係わりのある司教を数名破門したことでした。
この知らせを聞いてヘンリー2世が発したと言われる怒りの言葉は「素姓の卑しい僧侶が国王をばかにしているのに、私には自分に対して主従の誓いを守って、自分の汚名を晴らしてくれる臣下がいない私は不幸者だ」と・・・言ったらしい。
すると4人の騎士がすっと、立ち上がって何処かへ消えた・・・というエピソードが残っています。
そして・・・・・
ベケットは4人に剣で刺し殺されました。血まみれになりその脳漿が飛び散るほどの酷い状態でした。トマス・ベケットの聖遺物箱には暗殺の様子が描かれていますが、そこに切られた頭蓋骨の破片が地面に落ちているところが描かれています。頭蓋骨が落ちるって、どんだけ?
ヘンリー2世がぼやいた先ほどのセリフは、トマス・ベケットの死は、ヘンリー2世が暗殺指示したものではないよ・・・そう示すためらしいです。
でも、ミエミエの手ですね。記録の中に、ヘンリー2世の息子が父親がベケットを殺したと行って責める記述があります。
騎士も4人いますが、何処と無く聖書の「ヨハネの黙示録」に出てくる4人の破壊の騎士のイメージか?という伝説もあります。
トマス・べケットへの巡礼、カンタベリー大聖堂とは
トマス・ベケットは1170年12月29日夜に暗殺されました。
場所はトマス・ベケットが大司教職に着いていたカンタベリー大聖堂。ロンドンの南東約80キロの地点にあります。
16世紀以前はカトリック教会。イギリスの精神的中心地でありました。
トマス・ベケットの死はかなりの早さでヨーロッパ中に知れ渡りました。聖職者の暗殺事件は当時のキリスト教絶対時代では、許されない罰当たりな事件として捉えられたのでしょうね。その事件性は通常の殺人事件の比ではありません。
しかも聖堂内で祈りの最中の暗殺・・・・まさに殉教者になる題材はしっかり揃っています。たちまち殉教者として巡礼者が集まるようになってきました。
聖堂内での殉教死、そこから治癒力のある聖人という関連付けが生まれました。そして熱狂的な信者がカンタベリー大聖堂に押しかけることとなりました。
巡礼の人気を高めた理由の一つに、殉死から2年で聖人のくらいがローマ教皇から与えられたところにあります。
暗殺事件の犯人かもしれない人物が国王、ということも巡礼に人気を与えるのに一役買ったのでしょうね。ヘンリー2世本人は、事件に無関与と主張していましたけれど。
人々はトマス・ベケットとヘンリー2世の確執を知っていたから、ヘンリー2世が暗殺事件の首謀者は・・・即座に推測できましたね。
ヘンリー2世に対して非難轟々でした。ヘンリー王は暗殺の指令を出していない、そう言い続けましたが・・・
そしてしばらく引きこもりとなります。いや潔斎というべきなのでしょうか?トマス・ベケットの死を悼んでいました。ポーズかも?
ヘンリー2世はトマス・ベケットの死から2年後ベケットの墓参りをし、自ら罪を認めます。そしてカンタベリーの修道士たちから罰を受ける姿が描かれて残されています。
ついにはヘンリー2世はトマス・ベケットを自らの守護聖人にします。これでベケットの完全勝利・・・そんな結末になりました。
トマス・ベケットのカンタベリー大聖堂その後
しかし人気の巡礼地、カンタベリー大聖堂も時代に役割が大きく変化しました。
何より大きな変化は16世紀のヘンリー8世の、イギリス国教会設立です。
国教会により古いカトリック的なものはすべて破壊されました、まさに日本の廃仏毀釈と一緒です。
ヘンリー8世は、カンタベリー大聖堂内のカトリックの教書、祈祷書、歴史書すべて損なわれました。まるで焚書坑儒状態。
トマス・ベケットの墓は壊され遺骨もどこかに放り出されてしまいました。トマス・ベケットに関する記述もすっかり黒く(茶色?)に塗りつぶされ読めないようにされています。名前も消され、その存在すら無かったかのようです。
今ではトマス・ベケットの暗殺場所らしいとされるところは、かろうじて祭壇のような記念場所がしつらえてあるのみです。
遺骨が祀られていたはずのすぐそばには、100年戦争の英雄エドワード黒太子の墓がその場所を守るように残されています。
ですが、ここカンタベリー大聖堂はヘンリー8世以来、イギリス国教会の総本山となり現在に至ります。
カンタベリー大司教は今では、イギリス国教会を代表する聖職者です。だからこそエリザベス女王の祭祀をカンタベリー大司教が執り行った次第なのです。
トマス・ベケットの奇跡?べケットウォーター
トマス・ベケット廟に巡礼する時人が求めるご利益は治癒でした。
ことの始まりは、トマス・ベケットが暗殺された時に流れ出た血が舗道に流れ、その血を飲んだ人がいたら病気が治った、でした。本当にそんな人がいたのかどうかも実はわかりませんが。
病気が治った→奇跡だ、ということになりたちまち大人気。
そこでベケットの血を水で薄めたものを「ベケット・ウォーター」と呼び、巡礼たちはその血を求めてカンタベリーまでやって来ます。
その後もベケットにまつわる治癒の伝説がステンドグラスなどに物語として残っています。例えば病に苦しむ人がベケットの地で足を洗ったら、病気が治った。
また傷を負った女性がベケットの墓に参詣すると夢枕に聖ベケットが立って治癒の予言をする、その時のベケット血染めにも似た衣を身につけていた、などです。
しかし実際問題として流れ出たベケットの血の量など高が知れているし、薄めたところでそんなに量があるわけではないのですが、ヨーロッパ中に知れ渡ったとなると、かなりマガイモノくさい。かなりどころじゃありませんよね。
それに血なんて・・・考えるだけで病原菌の巣・・・気持ち悪い・・・が本音ですが。中世人はそんなこと関係なかったのですね。霊験あらたかな水・・と思っていたのでしょうね。
トマス・ベケットとカンタベリー物語
トマス・ベケットが人気あるから、人々はカンタベリー大聖堂に巡礼をし、巡礼者がたくさんいたから「カンタベリー物語」はできたようなものです。
巡礼が盛んだったのはヘンリー8世以前ですね。
この物語は14世紀イギリスの詩人ジェフリー・チョーサーの作です。
カンタベリー大聖堂にあるトマス・ベケットの霊廟に参詣する巡礼たちが語る物語形式の物語です。巡礼者は一つの団を形成して動き宿泊します。そこで団体参詣者同士酒を片手にそれぞれ物語を語りながら夜を過ごす、というシチュエーションです。
カンタベリー大聖堂参詣と言っても巡礼団はどこから出発するのでしょう?チョーサー自身はロンドンの人間でしたので、また人口が多いのもロンドンだったため、おそらくロンドンからの出発かな?と考えています。
似たような形式の物語はイタリアのボッカッチョの「デカメロン」にあります。チョーサーはイタリアを訪れた時にこの形式を知り、自分も書いてみたくなって「カンタベリー物語」を書きました。
騎士の物語、僧侶の話、刑事の話などいろいろな職業の人が様々な話を語っています。
かなり下品な話も含まれています。チョーサー自身「この物語は嫌ならば飛ばしてくれてもいい」なんて断りも入れてあります。
結構たくさんお話はあります。それぞれの話に面白がって夢中になると、巡礼の旅どころではなくなりそうなのですが、実際の中世人はどうだったのでしょうね。
これだけ物語があると、百物語、なんて思い出してしまいましたが、あちらは怪談ですべてが終わった時に・・・・・何かが起こる?というコワイものでしたが、果たして「カンタベリー物語」全部終わった時には・・・
30人の団体で一人往路2作、復路2作合計120作、という計算になっていました。ですが24作を作り終えたところでチョーサーは死んでしまいました。
実際どんな旅だったのでしょう?なんだか賑やかで楽しそうな旅行にも見えて来ますが。実際は巡礼旅行なのですよね。厳しかったのかもしれません。
映画「ベケット」
1963年のイギリス・アメリカ合作映画に「ベケット」があります。白黒映画です。原作がジャン・アヌイの戯曲です。
トマス・ベケットがリチャード・バートン、ピーター・オトゥールがヘンリー2世でした。
脚色賞でアカデミー賞を受賞、ゴールデングローブ賞では作品ドラマ部門賞、主演男優賞をピーター・オトゥールが受賞してます。
映画のあらすじをざっと紹介します。
ヘンリー2世とベケットの二人でつるむ放蕩ぶりが描かれています。トマス・ベケットも坊さんながらかなり世俗っぽいワルです。愛人もいるのですから。
ですがベケットは出世欲も強いのですが、高位聖職者にベケットの人となりを疑われ、それを知ったベケット本人がだんだん心を入れ替えていく様が描かれているのがこの映画です。
トマス・ベケットが成長してくると、ヘンリー2世のいつまでも自分の欲でのみ動くところを苦々しく思うようになり、王を諌めるの側になっていきます。
思うようにならないヘンリー2世は、結局ベケットに対し可愛さ余って憎さ百倍的な思いになって、トマス・ベケット排除するものはいないのか?という暴言を吐くのです。
そして4人の侍従がベケット殺害に至った。
自分の行為を深く後悔し、ベケットの墓前に詣でて、自ら身体に鞭を打って許しを乞う、といったストーリーです。
トマス・ベケットの心情がとてもよく出ているストーリーだと思いました。王とつるむ側から王を諌める役に変わったベケットの心の動き、が明らかにされた映画です。
映画作りには解釈とそれに絡む推理が必要です。さらにえた解釈に説得性を持たせなければなりません。
自分の持つ疑問点には答えてくれる映画だと思いますが、これが真実かどうかがわかりません。
しかし、この「ベケット」は説得性が実に効いた映画だと思いました。
ヘンリー2世役のピーター・オトゥールだけがアカデミー主演男優賞だったのは残念です。でもヘンリー2世の遊び好きで直情的なところがよく現れていた面で、それが評価されていたのだな、と納得できます。
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