エドワード1世は、13世紀イギリスに君臨した国王です。
なんと、その方の子孫はハリー杉山であります。スケールの大きさを感じさせますね。
また、エドワード1世時はトランプの絵柄のモデルになった人物とも言われています。
エドワード1世は、スコットランド、ウェールズに大きな影響を及ぼしました。
そしてスクーンの石にまつわるお話もエドワード1世が関わってきます。スクーンの石ってなんでしょうか?
エドワード1世の身長があだ名となって親しまれています。どんな渾名だったのでしょうね。
またエドワード1世は「ブレイブハート」の映画に出てきます。どんな王様だったか覚えていますか?死因には違いがあります。
エドワード1世、ハリー杉山は子孫!エドワード1世はトランプのモデルか?
エドワード1世の子孫にハリー杉山がいる・・・これほんとです。
ハリー杉山がイギリス王家の子孫、という話は有名でした。
私としては庶子で子孫が多いと言われる、17世紀のチャールズ2世の血を引く子孫だと思ってました。
それどころではなく、ハリー杉山さんは直径の子孫だったのですね。大変失礼しました。
何代くらい前かは想像もできませんが、ハリー杉山さん曰く、自分のひいお爺さん(掛ける)18?と表現しておられました。今から700年も昔のことです。
ハリー杉山さんの家柄には700年もの間、さまざまなご先祖様がいたそうです。処刑された者もいたらしいです。でもこれは貴族なら珍しくありません。
ハリー杉山家には系図がきちんと記されているのですね。由緒正しい家柄でありすぎます。
エドワード1世の王朝はプランタジネット朝というのですが、この王朝は3代下のエドワード黒太子が皇太子のまま亡くなり、その子供のリチャード2世が直系の子供がないまま没したので、プランタジネット朝は終わりになりました。
そしてエドワード黒太子の兄弟に王位は移っていくのですが、その時、エドワード1世の血筋として、ハリー杉山さんのあるご先祖さんに王位は行かなかったのでしょうか?
エドワード1世はまた、トランプの王様の図柄のモデルになったと言われています。
でもこれはほんの1説で、トランプの絵柄のモデルは、ダビデ王、アレクサンドロス大王、ジュリアス・シーザーなどと言われており、残念ながらはっきりとは知られていないです。
そう言われるとトランプキングの図柄はエドワード1世の肖像画に似ていますね。
エドワード1世とウェールズ
ウェールズはイギリスにとってなくてはならない名前です。場所、ではなく名前がです。
プリンスオブウェールズがいるではありませんか。
プリンスオブウェールズがイギリスの皇太子を指すのはエドワード1世に起源があるからです。
しかしエドワード1世の前の頃までは、「プリンス」は王子を意味していなく、「公」といった君主を意味していました。
エドワード1世の父親の時に受け継いだプリンスの地位をずっとイングランドのものにするために、ウェールズ王とその一族を攻め滅ぼしたのです。
そして、ウェールズ王が使用していた黄金の冠を戦利品として持ち帰り、ウェストミンスター寺院に飾りとしました。
もちろんウェールズの土地もイギリスが取り上げ、ウェールズ公の監督に任せと決定しました。
そのウェールズ公こそがイギリスの決めた公、つまりイギリスが差し向けた領主なのです。
ちょうど折りもよく、エドワード1世に世継ぎとなる王子誕生を迎えます。皇太子、次期国王です。
そこで王妃を身重のままウェールズに連れて行き、そこで出産させます。
ウェールズで生まれた子供こそが、「ウェールズ生まれの英語が話せない王である。彼こそ真のウェールズの支配者・・・」と詭弁を振り撒いたのですね。エドワード1世は。
当時のイギリス政府の公用語はフランス語。英語が使われていたかどうかは甚だ疑問ではあります。
それにしてもなかなかのペテン師ですね、エドワード1世という王様は。
ウェールズで忘れていけないのは城です。ウェールズには世界遺産、「グウィネズのエドワード1世の城郭と市壁」があります。
この遺跡には4つの城があります。
ビューリマス城、カーナヴォン城、コンウィ城、ハーネス城(ハーネック城と発音されることもあります)です。私たちに馴染み深いのは、カーナヴォン城でしょうか?
4つの城を全てが要塞城郭です。
エドワード1世が全て建てたというのは、ウェールズに思い入れが強かったのでしょうか?
いえ、ウェールズ国民はなかなか、エドワード1世に従ってくれなかった、反乱が多かった、のが理由です。
でもカーナヴォン城は今でもイギリス王室が滞在します。
4つもの要塞型のお城を作ったエドワード1世、かなり強欲なイメージですね。
ですが、自国が強いことが良いことされていた時代ならば、エドワード1世のような力強く他国に進出する国王が国民のヒーローだったのかもしれません。
エドワード1世、スコットランドを支配下に
エドワード1世はスコットランド併合の野望がありました。
これはエドワード1世の父ヘンリー3世の時からの悲願でした。なんといってもイギリスのすぐ上にある国ですから。
スコットランドの当時の直径の血筋が絶えたため、かねてから婚姻で繋がりができていたイギリス王エドワード1世に王位継承者の決定を任せた結果、国王が選出されました。
新スコットランド国王はイギリスに臣従の誓いを取るイギリスの傀儡(かいらい)国王です。
新王はスコットランドのしきたりにしたがってスクーンの石に座って戴冠式を行います。スクーンの石はスコットランドの戴冠の象徴でした。
スクーンの石、元はと言えば、初代スコットランド王がスコットランドに持ち込み、それがやがて首都スクーン(現在のスコットランドのバースに当たる場所)に置いたところからスクーンの石と言われるようになりました。
しかし傀儡として即位したスコットランド王はイギリスに逆らい始めます。
フランスとの間の雲行きが怪しくなってきたエドワード1世側は、スコットランドにフランス出兵を要請するのですが、これを断ったばかりか、フランスと同盟を結ぼうとします。
エドワード1世、スクーン石を持ち去る
当然エドワード1世は激怒し、スコットランドに攻め込みます。そしてスコットランドを徹底的に打ちのめします。
逆らったスコットランド王をイギリスに連行し投獄。同時にスコットランドの王位継承の証であるスクーンの石を戦利品として共に持ち帰ります。
ここの戦争から、「エドワード1世、スコットランドに鉄槌を下した王」と呼ばれるようになります。
エドワード1世は、スクーンの石が下部に収まる椅子を特注し、ウェストミンスター寺院におきました。
そしてこれよりイギリスを継ぐ王はスコットランドもまた治める、という意味を表したのです。
スクーン石の持ち去りはスコットランドから見ると、スクーン石強奪事件となりますね。
イギリス人にとっては、エドワード1世は英雄でありますが、スコットランドにとっては国の仇であるわけです。
エドワード1世のスクーン石のその後
スクーン石、この後はどうなったかと言いますと、1950年スコットランド人の手で盗まれます。スコットランド側から言うと、「取り戻した」のですが、許可なしに忍び込んだのですからやっぱり盗んだ・・・・でしょうね。ですが、「よくやった!」と言うのがスコットランド人の心の中だったのかもしれません。
しかし運ぶ最中、二つに割れてしまいます。スコットランド人が取り返そうとして失敗して壊してしまう、なんて皮肉ですね。
その時はイギリス側に戻りましたが、1996年ブレア首相の時代にスコットランドについに正式に返還されました。
全く関係のない、遠く離れた国に住んでいる私たちもほっとした気分です。
よってイギリス旅行でウェストミンスター寺院に行っても、スクーン石を見ることができません。スコットランドのエディンバラ城に置かれているそうです。
かつてスクーン石が置かれていた、スクーン宮殿にはスクーン石のレプリカが置かれています。
ですが、イギリス王の戴冠式の場合はウェストミンスター寺院にやあってきました。
チャールズ3世の戴冠式にはお目見えしました。スクーン石はあまり写りませんでしたけれどね。確かにありました!
スクーン石についてもう一つ、名前にちなんだお菓子があります。
イギリス、アフタヌーンティーには欠かせない、スコーンです。石のような形をしているところからつけられたらしいのですが、全くスクーンの石に似ていません。お菓子は丸い形、スクーンの石は長方体です。
ティータイムには王家に関係の名前のスコーンを食べながら厳粛な気持ちになるのはいかが?
エドワード1世の身長は?そこからくる渾名は?
エドワード1世は長身だったそうです。188㎝〜190㎝という記録があります。
そこから来た渾名(あだな)は「longshanks」。意味は「長身、足長」。日本の本では「長脛王」などと表記されています。
shankとはそもそも足首から膝までを指すので、脚そのものが長いというわけではないとは思うのですが。
体型が大きいと言われているイギリス人でしたが、それでもそのイギリス人が「大きい、長い」と渾名がついているエドワード1世はよっぽど大き方のでしょう。
身長190㎝、というとバスケット選手並みですね。でも現代なら190㎝超えはそんなに珍しくないかも。
190㎝というと、すごーくよく伸びたという感覚かな、という想像ができます。
長身イコール足が長い、の意味にはならないような気がしますが・・・
多くの国で背が高い、体つきが大きいというのは支配者として大切な条件でした。
日本ではそうではなく、身体が小さくての人間の器次第で支配する地位に着くことができました。
となると、群雄割拠の激しさは外国の方が厳しかったのでしょうね。
エドワード1世、ブレイブハートでは?エドワード1世の死因
エドワード1世は映画「ブレイブハート」では、すでに持っていた病気に苦しめられる中、ウィリアム・ウォレスの処刑が行わると同時に死亡した、描き方でした。
ここではどんな病気かの説明はありませんでした。
実際の死亡時期は「ブレイブハート」とは違い、ウィリアム・ウォレスが処刑された1305年の2年後、1307年です。
映画「ブレイブハート」の演出を盛り上げるために、エドワード1世の死の時期と死因を変えたのですね。
実際の死因はちょっと違っており、赤痢にかかっていたところスコットランド遠征中に悪化したこととが原因です。
遠征に向かう途中、まだイングランド国内にいるうちに死亡しました。
エドワード1世、死後の希望
エドワード1世はに自分の心臓は「エルサレム(聖地)」に、身体は「スコットランド平定まで埋葬しないこと」と「自分の骨をスコットランド進軍の先陣に掲げよ」と息子(のちのエドワード2世)に頼んで死にました。
ですがその望みは何一つ果たされず、心臓も望んだように取り出されず全身全てウエストミンスター寺院に葬られてしまいました
息子はめんどくさいと思ったのでしょうか?だから親の望みをかなえなかった。不肖の息子でしたね。
それとも親に対する反発心が強かったのでしょうか?
その割にはこの息子は、大負けして父エドワード1世が頑張ったスコットランドの支配権を全て失ってしまいました。
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