松平信康(まつだいらのぶやす)は徳川家康の長男でした。
しかし、裏切りの罪で切腹させられた人物です。果たして信康は裏切ったのでしょうか?
大河ドラマ「どうする家康」ではすくすくと成長する若者でスタートしましたが、これからどんな展開を見せるでしょうか?
人柄は、これまで語られてきた歴史ではあまり良くありません。実際はどうだったのでしょう?
織田信長、徳川家康に翻弄された人生だったのかもしれません。
松平信康は有能だった?
松平信康は、戦争に何度も参加し一人前の武人に育ちました・・この成長は戦国武将にとっては大切なファクターです。
1575年の長篠の戦いでは徳川軍の1部隊を任されるなど、10代で武将として頭角を表します。
江戸時代に書かれた『寛政重修諸家譜』や『当代記』では「松平信康は人の意見に耳を貸さないところがある」、「信康は家臣に厳しくあたることがある」、と書かれています。
江戸時代の書物なので、真実かはわかりませんが、気性の荒い面がある、と思わせる文章です。
有能、という表現はあくまでも「武将」に限っているので、政治面も有能だったかは不明です。
あるいは、大河ドラマ「どうする家康」にあるように、信康自身、武勇で優秀でありたいと思う反面、元々の性格に反する部分との葛藤に苦しむ、ことがあったのかもしれません。
松平信康の子孫
松平信康の子供
松平信康は若くして、自害させられました。
自害させられるということは、罪人の扱いです。
そんな罪人の子孫が残っていたのか・・・?では誰?
その子供たちは、親の罪とは関係なく、ずっと生き延びたということになるのでしょうか?
松平信康の妻は、徳姫(五徳姫、とも言います)。織田信長の娘です。
松平信康と徳姫の間には、女子が二人生まれました。登久姫(とくひめ)と熊姫(くまひめ)と言いました。
松平信康の死後、徳姫は織田信長の元に連れ戻されましたが、二人の姫は家康の側室、西郡局(にしのこおりものつぼね)のもとで育てられます。
登久姫の場合
父、松平信康が、切腹したとき、登久姫は、4歳でした。
ひょっとしたら父の死がトラウマにもなるかと思いますが、家康の側室、西郡局のもとで大切にそだ育てられました。
成長し、信濃国(しなののくに)の名門大名、小笠原秀政(おがさわらひでまさ)と結婚。
豊臣秀吉がこの結婚を決めました。
この頃は秀吉の天下になっており、徳川家康は秀吉との同盟を必要としていました。
六男二女を授かり、幸せな生活を送りました。ただし32歳という短い一生でした。
息子たち一人、次男は小倉藩の藩主となり、宮本武蔵は、その藩主に仕えました。
娘たちも有力大名のところに嫁にいき、ある者は天皇家と縁つづきになります。
父、信康の罪状次第でどうなるか心配な姫でしたが、その子供たちは皆、立派に成長できたのが、戦国時代という厳しい時代の中で、良かった、と思えるワンシーンです。
熊姫の場合
登久姫の一つ違いの妹です。
熊姫は、家康の命令で、徳川家の家臣の息子、本多忠政と結婚します。
熊姫は三男二女を産み、長男、本多忠刻(ほんだただとき)姫路新田藩の藩主とななります。
本多忠刻は、家康の孫娘、千姫と結婚します。
千姫は2度目の結婚。千姫1度目の結婚は、豊臣秀吉の息子、秀頼と結婚していました。
大阪夏の陣で、豊臣氏が滅亡するのですが、その時、大阪城から救出されて家康の元に戻っています。
その、未亡人が本多忠刻に一目惚れしてしまいました。
本多忠刻はイケメンで有名でした。美男美女の織田家の影響ですかね。
千姫は、家康の息子徳川秀忠の娘。一方本多忠刻は、秀忠の兄、信康の孫。
2代目将軍になるはずだったのに、処罰された人の孫と、その2代目将軍に実際になったものの娘が結婚する・・・周囲は複雑な気持ちだったかもしれません。
松平信康に息子がいた! 万千代
松平信康の息子がいたという説が浮上してきました。
その子供の名前が万千代。その子の母親は、武田家と関係のある女性でした。
一つの説では、武田の血を引くらしいことから、同じく武田の一族、穴山梅雪の孫として引き取られる。
徳川の時代になってから、武田氏を復活させる時の後継にしたものの、子孫が続かずに家は滅亡してしまう。
あるいは、万千代は家康と、武田の親族だった女性との間の子として育てられ、その後、武田家の跡取りとしたけれども、子孫がいなく滅んでしまった。
また別の説では、万千代は成長し家長と名付けられ、真言宗系の寺、清和院(せいわいん)の後継者となった。
その印に清和院の紋は、徳川家の紋章でもある「三つ葉葵」の紋を使用している。
ということなのですが、どれも確かな証拠はありません。
息子が生まれたことは確かなようですが、すぐに死んだか、あるいは松平信康の死とともに隠されたか・・・のあたりだと思います。
松平信康、自刃(じじん)!
自刃とは、刃物にて自らの命を絶つ、という意味です。切腹がまさにそうです。
徳川家康の長男、松平信康は1579年10月5日に、自刃によって亡くなりました。
妻の徳姫(とくひめ)が、松平信康の罪を、父に訴えたところから、有罪となり、切腹させられました。
罪とは、武田との密通、つまり、徳川・織田への裏切りでした。
徳姫は織田信長の娘であり、織田信長は非常に勢力がありましたから、徳川家康は逆らうことができません。
織田信長は、まだまだ勢力を伸ばしたいので、徳川の力を小さくしておくことを目的としました。
一方徳姫は徳川家で、全く思うように奥方として力を発揮できずにもどかしく思っていた。
織田信長・徳姫親子の利害が一致して起きた事件です。
その利害の一つに、家康の正室築山殿(つきやまどの)の排除も含まれていました。
松平元康の生涯
幼少と少年時代の松平信康は、「岡崎城」(愛知県岡崎市)に住みます。
父、家康が少年時代の人質生活を終えた、1560年桶狭間(おけはざま)の戦い以降です。
今川氏より独立した、徳川家康は織田信長と同盟を結び、その条約の印が松平信康と、織田信長の娘、徳姫との結婚でした。
結婚は二人ともまだ9歳。早い結婚ですが政略結婚、に年齢は関係ありません。
1570年、家康が浜松城に移り、信康は岡崎城城主に任命されます。信康11歳。確かに子供ですが、信頼おける、教育係をつけました。
1573年、元康は初めて戦争に出て初陣を飾ります。その後も父、家康と戦場に出て着々と名前を上げていきます。
この戦功、そして織田家の姫との結婚が、これ以降、松平信康にどんな影を与えていくか・・・
結果、義理の父、織田信長と、父、徳川家康との思惑の中で処罰され切腹させられる運命となるのです。
松平信康・・・理由
松平信康が、切腹させられた理由・・・実はそれがよくわかっていないのです。
松平信康の性格も理由の一つに取り上げられますが、その性格が明らかにされていません。
これまで知られていた、松平信康の性格は「乱暴者」でした。
やたらに人を切ったり、侍女を手打ち(殺してしまうことです)にする。
また、父徳川家康の、政策、軍の使い方に不満があり、自分ならもっと上手くやれるという、自意識過剰なところ。
ついには、父を倒して、自分が徳川家のトップになろうとする野望の持ち主。
暴力的、で野心的な面ばかり、言われてきました。
これは本当だったのでしょうか?
「三河物語」などに、松平信康のこうした性格の記述はありますが、この書物は徳川時代になってから書かれたものですから、家康のやり方を正しいとしています。
だから本当の、松平信康を誰も知らないのです。
松平信康と徳川家康は親子だったので、それも青春期に入っている息子なので、親と子の意見の対立というのもは当然あったでしょう。
子供の反抗期・・・に近い?
ただし反抗、で片付けていいか?というとそうではなく、筋の通った考え方をしています。
若いだけあって、世の中のまだ汚さを実感していなく、潔癖なところがありました。
このままいくと、松平信康の意見に賛同するものが出て、家の方針が二つに割れる可能性があります。
家臣にも、家康の考えに賛成派と、信康に賛成するものと、2つに割れそうな雰囲気がありました。
今はまだその時ではない・・・家康はこう考えました。
そこで、松平信康を徳川の構想から外す、と考え始めたのではないでしょうか?
そこに付け入ったのが、織田信長でした。
信長からの命令とあれば、徳川は従わなければならない立場にあったのです。
案外、徳川は信長から難題を押し付けられた・・難題を飲まなければならない、そんなパフォーマンスをして、自分の苦悩でさえも味方につけた、したたかものだったのかもしれません。
松平信康と徳姫は不仲?
松平信康の妻は徳姫(お五徳姫、ということもあります)、織田信長の娘です。
年は松平信康と同い年。桶狭間の戦い後、信長と家康が同盟を結び、三河国の安定を図るための政略結婚でした。
松平信康と徳姫の仲が良かったかどうかの記録はありませんが、夫婦の間には女子が二人生まれました。
女子だけ、という事実に不満を持ったのが、信康の母、築山殿でした。
戦国時代の武将には必ず跡を継ぐ男子が必要だというのに・・築山殿は、息子に側室を持つように勧めました。
が、それが面白くないのが徳姫です。
自分は徳川よりエライところの姫・・・プライドもあります。そこで、その不満を、徳姫は父、織田信長に手紙にして愚痴ったのです。
いくら家のためとはいえ、夫に側室ができる・・・それで心が傷つかない妻はいません。いくら政略結婚でも。
手紙の内容は、
義理の母にいびられた(?)こと以外に、夫、信康の傲慢な態度、築山殿が武田氏と内通、の内容もあったようです。手紙は実物が残っていないので、事実の確認は取れません。
松平信康と織田信長
徳姫からの12ヶ条に及ぶ手紙を読んで、自分の娘が蔑ろにされている、と思った信長は激怒したのでしょうか?
というより相手を排除する良い手を思いついた・・・と思ったでしょうか?
隙あれば、他の国を自分の国に取り込みたい・・・が戦国武将の思惑が絶えずありました。
信長にとっては手紙の内容が真実かより、相手国を弱らせる良い手段を見つける方が大切でした。
義理の母、「築山殿のいびり」、築山殿の不義、そして夫、信康の「武田氏とのつながり」、「城主とも思えぬほどの乱暴ぶり」、「家臣や次女の手打ち」、など12項目ありました。
この頃松平信康は着々と戦争で成果を上げ、力をつけてきています。
その戦場での活躍は賞賛されている。
その感性は父、家康以上との評判です。これから天下取りを目指す織田信長にとって、もしかしたら邪魔な存在になるかもしれません。
信長にとって、邪魔な芽は早いうちに刈り取ってしまおう・・・なんて考えていたかもしれません。
言ってみれば、織田信長は松平信康を恐れていた・・・・
「松平信康」の潔癖さはいつか、相手の武器になる・・とでも思ったのでしょうか?
信長と、家康は主従の関係でしたから、松平信康を命令して処罰させました。
その時に作り上げた理由は、松平信康の「謀反」です。
松平信康は、徳川家康にはめられたかも・・・?
しかし松平信康、処罰の仕掛け人は織田信長の仕業ではない・・・こんな説もあります。
徳川家康黒幕説・・・実の父親が、なぜ?
松平信康処罰の理由を、乱暴者、武田との密約、つまり信康の裏切り、としています。どうしてそう見られているかというと、「三河物語」の中にもあるからです。
信康切腹事件も、信康が悪者でなくてはならないのです。正しいのはすべて「神君家康公」。
徳川家臣の中でも、信康の処罰について意見が分かれました。結局は岡崎城を追放、二俣城(現在の浜松市天竜区二俣町)にて謹慎、そして切腹という判決に至ったのでした。
しかし正直なところ、家康は息子信康を切腹にまで追い込みたくはなかったようです。後々、家康は、信康事件を後悔することを、家臣に漏らしたり、手紙に書いていました。
松平信康事件は、徳川家、初めの頃の、黒歴史なのです。
黒歴史は隠したいものです。
松平信康の最後に関わる、服部半蔵の想い
松平信康の処罰を見届け、報告する検使役、として送られたのが服部半蔵正成です。
服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさしげ)の父も徳川家(松平家)に仕えていました。私たちが、忍者の棟梁などとして考えている、服部半蔵正成は2代目の方です。
切腹には、最後に首を切る介錯人が必要です。介錯は渋川四郎右衛門(しぶかわしろうえもん)が選ばれました。
この人物も長年徳川家に仕えた人物。ですから、主人の首に刃は恐れ多くて当てられない、と任務放棄しました。
代わりに介錯の役目をすることになったのが、服部半蔵。
しかし服部半蔵も3代にわたって仕えた主人の方の首はとても切れない、信康殿がいたわしい、と役目を投げ出してしまったのです。
代わりに介錯を務めたのは、もう一人の検使役、天方通綱(あまがたみちつな)が請け負いました。
介錯人が次々、辞退する・・・松平信康は慕われていた人物だったでは、と思わせる一場面です。
松平信康の竹千代時代
父は、松平元康(まつだいらもとやす、後の徳川家康)、母は今川義元(いまがわよしもと)の姪、瀬名姫。1559年に駿府城(すんぷじょう)で生まれます。
幼少名は竹千代。松平家(後の徳川家)に代々伝わる、長男の名前です。父、家康も、祖父松平元康も幼少名は竹千代と言いました。
竹千代という名前は、のちに家督を継ぐものとして、松平家に代々伝わる名前でした。
だから信康も、将来の松平家、つまり徳川家の後継者と期待されていたわけです。
その時、父はまだ16〜7歳、今川家で人質の身分でした。今川家の状態はちょうど義元の息子、今川氏真(いまがわうじざね)が家をついだばかりの時でした。
松平元康が生まれた翌年、1560年、桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)が起こり、ここから今川家は急速に力を失います。
松平元康(徳川家康)は、力を失いつつある今川家から独立して、自分で三河を統一に野望をかけます。
松平信康は、父の野望を目にしながら育つのですが、まず最初に、父、家康が今川家を一人で出ていったために、母や妹と共に、今川家に人質として残されてしまいます。
しかし、家康は今川家の忠実な臣下で親族にあたる「鵜殿長照「(うどのながてる)を討ち、その二人の息子と引き換えに、自分の家族を取り返しました。
幼い、松平信康も命の危険に関わる経験をしました。
そんな厳しい経験は2度とゴメンだ、と思うようになるでしょう。
信康の行動は、戦争をもう終わりにして、誰も悲しむことのない平和な世を早く作りたい、と願っていたのかもしれません。
そのためには何をしてもいい、と思うところもあったのでしょうか?
松平信康の墓、首塚があるのか?
松平信康は小松原長安寺に葬られました。
長安寺に、家康は位牌堂を作り、清瀧寺と名前を新たにつけました。
一方、服部半蔵は、松平信康の死を悼み、江戸麹町の清水谷の安養院に信康の供養塔を立てました。服部半蔵の墓もここにあります。
場所は今では新宿区四谷に移転されて、西念寺と名前を変えました。
首塚と呼ばれるものは、岡崎市朝日町にあります。若宮八幡宮に作られています。首塚と記された石塔が立ています。「岡崎三郎信康」と名前が記されています。石塔の様子は比較的新しいです。
ここは自害を命ぜられた信康のために首塚が立てられ、慰霊として仁徳天皇の霊と共に祀ってある、と書かれています。
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