源倫子は猫愛好家、人物像、性格は?父の思惑。夫は藤原道長。子供達の活躍

2024年のNHK大河ドラマが「紫式部」を扱うことになりました。「光きみへ」。

「源氏物語」の作者です。

女性の物語なので、登場人物も女性が多そうです。

そこで平安時代の、源倫子に目を向けてみましょう。藤原道長の妻です。

紫式部とは、主従の関係、とはなりますが、もっと友情を感じる相手となりそうです。

夫との子供たちはその後どんな道を歩むことになるのでしょうか?

「源倫子」さんの苦労もあるのでしょうか?

源倫子は猫愛好家? 女三の宮に似ている

「光る君へ」の中で、可愛い猫「子麻呂」が出てきます。

猫好き、という資料はありませんが、源倫子は猫が大好きだ、と言われていても不思議ありません。

源倫子の父方祖父にあたる 宇多天皇(うだてんのう)が大の猫好きで、「寛平御記」と呼ばれる書持ちには、宇多天皇の猫自慢が描かれています。

古代から、平安時代、猫は非常に珍重されていました。

清少納言も「枕草子」に猫のことを書いています。

特に古代は、猫は、大事な食料をネズミから守ために必要な動物でした。

平安時代になる頃は、必要な動物から愛玩用に変化してきています。

中国から持ち込まれた猫が 唐猫(からねこ)と呼ばれ特に大事にされました。

唐猫は、黒猫であることが多く、黒猫は邪を払うという意味があり、そういう意味でも好まれていました。

源倫子も大変猫が好きなようで番組の中ではいつも猫を追いかけています。

この様子が「源氏物語」の登場人物、女三の宮(おんなさんのみや)を思い出させます。

猫が大変好きですが、猫のおかげで、自分の姿を見られてしまい、それが元で悲劇が起こります。

当時の、女性は本当は、人前に出てはいけないのです。

ですから、源倫子さんが、頻繁に、男性陣の前に猫を追いかけて、出てしまうのは、平安時代ではマナー違反にあたります。

本当は「打球」の競技会でも、あんなに人前にあからさまに出て観戦してはいけないのです。

御簾をかけて、御簾ごしに眺めなければならないのです。

しかし、テレビドラマの進行上、顔を隠してばかりではなかなか話が進まないので、普通に顔を出しての、観戦という演出にしたのでしょう。

平安時代のしきたりを無視した、設定が残念な点、と思われるのですが・・・・隠れていてばかりでは誰が誰だかわかりませんから、仕方のないことではあります。

源倫子の読み方

「みなもとのりんし」と読みます。「みちこ」、「ともこ」とも読みます。平安時代の女性の名前は、訓読み、音読み両方が使われています。

NHK「光る君へ」では「ともこ」様と呼ばれています。

なぜ、そんな読み方がされたかというと、実はどんな読み方がされたかがよくわかっていないのです。昔の文献は漢字での表記で、ふりがなは振られていませんでした。

また、音読みも訓読みも正しくないのかも知れない、とする研究者もいます。それならいっそ、便宜的に使いやすい、訓読みにしよう、ということになったようです。

便宜的に使いやすい、というのは論文発表などの時、文章の流れとして使いやすい、ということです。

源倫子、人物像

源倫子は964年〜1053年、の時代を生きた女性です。平安時代中期です。

源倫子とは

宇多天皇(第59代天皇、867〜931)の曾孫でした。父は倫子を入内させるつもりでしました。

入内とは天皇の妃になることでした。当時は天皇の妃は一人ではなく、何人もいるのが普通で、親の身分の高さが妃の身分の高さに繋がります。

源倫子、平安時代ではとても珍しく、90歳の天寿をまっとうしました。

平安時代の平均寿命は、男性が50歳、女性が40歳でした。現代とは違い女性の方が短命でしたね。倫子さん、すごく長生きです。通常の女性の2倍以上です。

しかも一番下の娘を産んだ時は、源倫子は44歳でした。現代でも高齢出産。

倫子さんの、子供たちも長生きをした人がいました。源倫子さんは、身体が丈夫な人だったのでしょうか?

源倫子、どんな人?

源倫子の容姿は、肖像画がありません。どのようなものか知ることはできませんが、平安時代のことを書いた書物「栄花物語」で触れられています。

小柄でふっくらした女性であると。そして髪の毛がとても豊富だったということです。

つまり長い黒髪の女性ということでしょう。平安時代、女性の髪が長いということが美人の条件だったのです。

ちなみに倫子の娘たちも髪が豊富な女性だったようです。

さらに「栄花物語」では倫子が44歳で出産した時でも20歳前後の見た目だった、と。

これはちょっと・・・・盛り過ぎ?

平安時代の部屋の作りだと、照明も暗そうなので、薄ぼんやりとしか見えなかった、ところにも原因がありあそうです。

また、源倫子の性格を表す話も、出ています。90歳まで生きた倫子には、先立って死んだ子供もいます。

子供が病気にかかった時は、成年に達し他子供も、懸命に看病し、子供が亡くなった時には、泣き叫んで悲しんだ、ということです。

ここから非常に愛情深い母親の姿が見えてきます。

源倫子、性格は?

「栄花物語」の中には次のように書かれています。

藤原道長が、新しい妻、源明子(みなもとのあきこ)迎えた時にはやはり辛い様子があるようです。

それでも気性が穏やかなようで、おっとりと構えていらっしゃる。・・・という具合です。

「栄花物語」には、娘 彰子の世話のため宮中に行く様子も描かれていますが、その時も、道長の妻として、中宮の母として気配りと、細かなサポートを続けた、ということです。

そうかと思うと、お祝いという公的な宴会の場面で、酔った藤原道長が、紫式部と歌の掛け合いをするところなど見て、不機嫌になって部屋から退出してしまうということもありました。

紫式部に嫉妬していたようです。

道長は「自分が出世したおかげで。妻や子供たちは幸せだろ」と行ったつもりですが、倫子のほうは「あなたが出世できたのはあなたを支えた、妻や娘たちですよ」という抗議した感じです。

大貴族の娘だからこその、主張だと思います。

「栄花物語」は藤原道長を中心に描いた書物ですが、赤染右衛門(あかぞめのえもん)が書いたと考えられています。

藤原倫子は、大貴族の娘の持つおおらかさと、しっかりした面を持ち合わせ、なた大貴族の娘だからこそ持ち合わせる、自身と誇りを持った女性でした。

源倫子の父

源倫子、父の想い

源倫子の父は、源雅信(みなもとのまさざね)といい、宇多天皇の孫です。

雅信の父は天皇の子供に(親王)あたるのですが、臣下の身分に降ろされ、宇田源氏の姓を名乗ります。そして官職として成功を収めていきます。

「源氏物語」の主人公、光源氏と同じような立場ですね。

源雅信はやがて左大臣になりますが、同じく権力の座にいて自分で采配を振るいたいと思っていた藤原兼家(ふじわらかねいえ)、にはよく思われていませんでした。

雅信は藤原兼家にとっては目の上のたんこぶ?

雅信は結構年齢がいって、公務が体力的に大変になっていたのですが、忠実にそしてテキパキと行っていました。

源雅信は自分の娘を、天皇の妃にしたい、とずっと願っていました。しかし藤原兼家はこれ以上、雅信に自分の上に行ってもらいたくなかったのでした。

その時の天皇は、花山天皇と言いましたが、ちょうど最愛の妻を亡くし、心弱っているところをつけ込まれ、剃髪して出家してしまう、事件が起きました。

天皇の出家はいくら冗談でも済まされない事件で、花山天皇はそのまま退位、となり、源雅信の思惑は叶いませんでした。

源倫子の父は道長との結婚に反対

そんな時、藤原兼家の息子、道長が倫子にプロポーズ・・当時の言葉ではプロポーズとは言いませんが、求婚したのですね。

「光る君へ」では、親や、姉から勧められ最初は渋々という感じで、話は進んでました。

実は、「栄花物語」に『男の地位は妻の家柄によって、決まる』とあるように、藤原道長は、出世欲に目覚め、源倫子を嫁にします。

よく、宮中でお仕事中の4人組 f4達も「家柄の高い妻の家からの応援で出世する」と話しています。

父、源雅信は、「道長は出世できそうもない・・・」と言って反対したのですが、妻、藤原穆子(ふじわらのぼくし、または むつこ)が、この結婚に乗り気でした。

上級貴族である父 源雅信にとっては、天皇家への入内が一番の望みだったのです。

年齢の釣り合わない、天皇より、道長の方に将来性を感じた、ということです。源倫子の肝が座ったところは、母親ゆずりだったのかもしれません。

なお、この母も86歳まで生きました。平安時代の強い一族・・・そんなイメージが湧いてきます。永安時代は女系で家が栄える、というのもこういうところにあるのではないでしょうか?

源倫子と藤原道長との仲は

源倫子と道長の結婚に至るまで

「光る君へ」の中では、源倫子の方が、道長に片思いして・・・というストーリーでした。

若い頃の、藤原道長はなかなかのイケメン、と知られていました。年が行くと、でっぷり体型になりましたが・・・

母親、穆子の方が、惚れ込んだ感じでした。

母娘として考えると、両方で盛り上がったような感じがしますが。

平安時代の女性は、男性の顔を近くで見ることはできなく、顔を見るとしたら御簾越しだったので、そこから見て密かに、憧れた、なんて可愛らしい状況が想像できます。

源倫子が結婚したのは24歳の時。平安時代の超上流階級の姫としては少し遅い結婚かもしれません。

それは、父親 源雅信が出し惜しみしていたのでしょうか。

後世の歴史評価では、藤原道長は、大政治家ですが、倫子の結婚相手候補になった時はまだ、藤原家の五男で、父 源雅信は物足りなく思っていました。

と言っても、倫子の方が天皇家の曾孫、父は左大臣、源雅信(みなもとのまさのぶ)です。藤原兼家だって、摂政を務めていたので、そんなに低いとはいえないのですけれど。

源雅信は摂政の藤原家を抑えてその上にいましたから、見下していたところがあったのかもしれません。

源倫子、結婚後の仲は?

源倫子と藤原道長の結婚によって、源家と藤原家は縁戚関係となり両家の仲は良好なものとなりました。

道長にとって、地位と経済的なバックボーンが加わり、今後の道長の政界での地位の向上につながります。

平安時代の結婚は、男性側にとってはまさに逆玉。

政略結婚なのですが、二人の愛情はどうだったでしょうか?

源倫子の家の身分が、皇族出身ということで、倫子は道長の正妻となりました。当時の慣わしでは、身分の高い男性は何人もの妻を娶ります。その中で出身家の身分の高さで、妻の順位も決まってくるのです。

倫子が天皇家の出身であることから、藤原道長は自分の娘たちを天皇家に入内させて、生まれた男子を天皇にしようと考えたのかもしれません。

源倫子と藤原道長の仲は、良かったとあります。道長がつけていた「御堂関白記」(みどうかんぱくき)という日記によると、道長と倫子は一緒に内裏(宮中)に行ったり、お寺に参詣する、物見遊山にも出かけていたようです。

単なる政略結婚ではなく、源倫子は夫を支える、そして政治的出世にも貢献した、心強い人物。子供も育て上げた愛情深い妻、そんな姿が見て取れます。子沢山だったところからちょっと肝っ玉かあさん的なところもあったかも?

源倫子と紫式部の絆

源倫子・紫式部とのやりとり

天皇の妃に倫子の娘「彰子(しょうし、またはあきこ)」が天皇の妃に上がった時に、その侍女となりました。

紫式部は、宮仕えの間に「紫式部日記」という自信の日記を残しています。その中に面白い記述があります。

菊の節句(9月9日)に源倫子から紫式部にあてて、菊花綿が送られてきました。菊花綿というのは菊の花の上に綿を一晩おいて、菊の花から出る水分を集めて浸したもの。言ってみれば、菊花水でしょうか。現代でも薔薇の花の水分を集めた化粧水などありますが、そのようなもの、と考えてよさそうです。

源倫子は、この綿に手紙を添えていました。「この綿で顔を拭えば、老化が消えるでしょう」と。菊の花の水分にエイジング効果があるかどうかは謎ですが、当時はこう信じられていたのでしょう。

受け取った、紫式部は「倫子様こそ、この露を染ませた綿で、お顔をお拭きください」と。手紙を返しました。

この日記が書かれた頃、紫式部は35歳くらい?そして源倫子は40歳を越えていました。そうすると現代女性でもそうですが、お肌のエイジングケアが必要なお年頃です。

源倫子、紫式部と仲は良かった?

このやりとりから何が見えるでしょう?

お互いある程度の歳を重ねたもの同士の思いやり、ともとれます。

あるいはお互い嫌味を言い合っているような雰囲気にも取れます。

思いやりと、取るか、嫌味と取るか?で二人の関係が変わってきます。もし思いやりとしたら、お互い、言いたいことをなんでも、ポンポンと言える気のおける親友のような間柄。

ただし、身分に関して言えば、倫子の方が大貴族、紫式部は、弱小。

こんなにお互い軽口を聞いていい相手ではありません。

これは、後世までも伝えられる噂、紫式部は藤原道長の愛人であったのではないだろうか?という憶測が生まれます。

NHKのHPによると、源倫子と紫式部は「複雑な関係」とあります。

源倫子と紫式部は再従姉妹(はとこ)の間柄ではあります。

面白い対決になりそうでう。

源倫子の元に紫式部は仕えていた?

「光る君へ」の中では、まひろ(紫式部)は、源倫子のもとに仕えていた、という話もあります。

だからこそ、倫子と道長の娘 彰子が宮中に嫁に行く時、紫式部の女官の話がすんなりとまとまった、と言われています。

実際はどうだったのでしょうか?

「光る君へ」では、2024年3月現在、まひろは頻繁に、源倫子の家に通っています。

でも、これは侍女ではなく、他の名家の娘たちと、和歌を勉強する会のような感じです。

本来なら、まひろのようなかなり下級貴族の娘が、倫子様のような上流貴族と交流することはまずありません。

上流貴族階級からの紹介、とかそのような形ならばあるかもしれません。

可能性は低いのですが、今後の、紫式部・源倫子とのやりとりを考えると、以前からの知り合い?という雰囲気が出ています。

源倫子・紫式部、友人説は、全くの創作でない可能性が考えられます。

藤原道長、倫子との子供

源倫子と藤原道長の間には、女4人、男2人が産まれました。

上から、

彰子(しょうし)、頼道(よりみち)、妍子(けんし)、教通(のりみち)、威子(いし)、嬉子(きし)、

の6人です。

平安時代、いや、もっと前の奈良時代もそうだったのですが、政治の中心にいる家系には女子の誕生が喜ばれたのです。

女子ならば、皇室に嫁に出せる。嫁に出し、天皇との間に男子が生まれ、その子が天皇となれば、妃の実家は天皇の父親、つまり外戚。権力を握れる、というわけでした。

源倫子の娘

3人の娘は天皇の妃になりました。それも中宮という高い地位の妃となりました。

特に長女の彰子は、一条天皇の中宮となり、後一条(ごいちじょう)天皇、後朱雀(ごすざく)天皇を産みました。

彰子より12歳下の、三女威子は、後一条天皇の中宮となりました。ここで、えっ?と思われた方、いると思います。

後一条天皇は彰子の息子だから、威子とは叔母、甥の関係になるではありませんか?

平安時代は、このくらいの関係はなんでもありませんでした。実の親子でなければいいのですから。

昔の世界では、血縁の結婚は、当然のように行われていました。

古代エジプトは兄弟姉妹での結婚が普通でした。またヨーロッパのハプスブルク家は血縁結婚が多すぎて、血脈が途絶えてしまった例まであります。

古い時代では、血縁結婚は、自分たちの血統を守るることが何より大事で、劣性遺伝がどうの・・・という考えには至りませんでした。

源倫子の最後

藤原道長は、4人もの女子に恵まれ、それぞれの子供が天皇になっていったということだから、まさしく、大成功の人生でした。

それに2人の男子も、天皇の摂政、関白を務める、父親の後を継ぐ立派な息子として育ちました。

ちなみに、長女の彰子も87歳まで生きました。息子も80歳くらいまで生きました。

しかし、娘三人(妍子、威子、嬉子)と夫(道長)には先立たれ、少し悲しい晩年になったと思われます。

源倫子

藤原倫子は、平安貴族の女将さん、と言ってもいいかと思います。

子沢山なのはもちろんのこと、娘 彰子を宮中に入れ、そこで他の人に馬鹿にされないようにと気配りをした・・・

多くの道長の妻の中でも、第一の妻として、道長一門をまとめあげました。

紫式部を自分の味方につけることで、多少の嫉妬はあるかもしれないけれど、友人付き合いをしたことで懐の広さを感じさせる女性、と見えます。

多分、紫式部も、この人には敵わない、と思ったのではないでしょうか。

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