紫式部は、源氏物語の作者です。
なぜ、紫式部は源氏物語を書いたのか、なぜそれが不朽の名作となって現代でも人気があるのか・・・その謎を探ってみましょう。
「光る君へ」では、道長が勧めたような流れになっていましたが、実のところは?
また、一体どこで描かれたのでしょうか?
ここではでは、光源氏に愛された、女性たちの魅力から、紫式部の考えを読み取っていきましょう。
どうぞ、最後までお読みください。
紫式部は、源氏物語をなぜ書いたのでしょう?
紫式部が「源氏物語」を書くきっかけになったのは、夫 藤原宣孝の死、でした。
結婚約3年で、夫は病死しました。子供も生まれ、まだ小さい頃です。
紫式部の絶望感は、半端ないものだっでしょう。
紫式部、絶望からの脱出
その時の紫式部の絶望感は、「紫式部日記」に描写があります。
『庭の花の美しさも目に入らない、鳥のさえずりも耳に届かない・・・庭から見る雲の流れも、月、霜、雪も、どんなに来ようとも、季節が来た、とただ知るだけ。一体こんな気持ちはいつまで続くのだろうか』
夫の死のことで、世の中の無常感を味わっていました。
無常感とは、物事は全て、はかなくうつろいやすいものと感じることで、虚無感ともいえます。
虚無感を持つ中から、少しづつ、慰めを文章に見出し、自分でも物語を書いて、友人や、物語好きな人たちに読んでもらっているうちに、ストーリーがどんどん広がっていったのです。
元々、書くことが好きだった、紫式部だったからこそできた、鬱からの脱出法だったのですね。
紫式部、源氏物語を書いた年代
「源氏物語」は、書かれた時から、人気があった小説で、江戸時代でもその研究書が出されていました。
その一つ、安藤為章(あんどうためあき)が書いた著書「紫家七論」に、
『夫 藤原為時 1005年5月10日に死去。その後3〜4年の間に「源氏物語」の大部分を書き上げた』と見ています。
残されている記録に、「源氏物語」の存在が明らかになってきたのが、1008年11月1日、とあります。
その文章は、「紫式部日記」の中にあり、その記述には、藤原公任(ふじわらきんとう)が「こちらに若紫はおいでですか?」と言って紫式部をさがしていた、と言うのです。
このシチュエーションは、紫式部はすでに、宮中で勤めていた時期、と言うことです。
「源氏物語」を紫式部に書くよう勧めたのが、道長?
「光る君へ」の中では、藤原道長が、自分の娘 彰子 のもとに天皇を惹きつける手段として、面白い読み物を求めていました。
その書かせる相手として、道長が思い当たったのが、紫式部、と言うわけでした。
そこで、道長は、紫式部に、何か書くよう勧める、
以上のような話の流れになっていました。
ですが、その可能性は少ない、と見えます。
と言うのも、「源氏物語」がすでに有名になっていたから、その作者、紫式部に道長が目をつけた、と言う、考えが今では通説になっています。
そもそも、道長が紫式部の作品に気が付いたのは、一条天皇が、物語を気に入った、と言う話を聞いたことがきっかけ、と言うことが伝説であります。
紫式部は、「紫式部日記」によると、1005年に宮中で、中宮 彰子のもとで、仕え始めます。
紫式部という名前は、やはり「若紫」の部分が好きな 彰子 が、作品の名前にちなんで、「紫」という名前を与えた、と伝えられています。
そう考えると、藤原道長が、紫式部に物語を書くよう勧めた、というのはちょっと違う?と私は見ています。
紫式部と、道長と紙
しかし、「源氏物語」の完成に、藤原道長が全く無関係、とはいえません。
というのも、紫式部が小説を書き続けられた理由の一つに、紙 があるからです。
紫式式部が「源氏物語」執筆にかかった時間は、ほぼ10年ほど、という研究結果が出ています。
一人の作家が、物語を一冊仕上げるには、特に長い、という期間ではありませんが、紫式部は中断した時期もありました。
その理由が、紙の不足ではないか、と言われています。
平安時代から、室町時代までにかけて紙は貴重品でした。
ちょうど、紫式部が宮中に侍女として上がる前に、道長は紫式部に大量の紙をプレゼントしました。
「これに、物語の続きを書くように」と。
「光る君へ」に出てきた、清少納言が、上質な紙を中宮 定子からいただいた話と似ていますね。
実は、道長が、紫式部に紙を与えた、というのは伝説にすぎないのです。
道長が紙を与えた理由としては、まず、紫式部一家の稼ぎでは、それほどたくさんの紙を買うことができなかった、というところにあります。
そうなると、紫式部には、パトロンがいた、説が浮かび上がってきます。
その相手が、紫式部を 中宮 彰子の侍女(女房)に抜擢した 藤原道長の名前がどうしても出てくる、というわけでした。
こんなに、惜しげもなく5000枚以上の紙を提供できたかなりの大物。つまり藤原道長。
そんな大物が、貴重品の紙を与えるのだから、道長と、紫式部の仲が、恋人関係にあると言っても差し支えない、と思われる根拠となっていました。
たかが「紙」、されど「紙」ですね。
紫式部の「源氏物語」、有名になった理由
紫式部の「源氏物語」様々な登場人物とその人生
紫式部が源氏物語生まれて、すでに1000年。
その人気は今でも色褪せることはありませんし、海外でもどんどん翻訳されています。
なぜこんなに有名になったのでしょうか?
まずは、『愛』という世界普遍のテーマを打ち出しているところにあります。
そして人物。
平安時代当時に、人々の心をつかんだのは、人物描写や、自分の周りにモデルがいるかも?
と、思わせるほど、登場人物は多くて、その誰もが個性的なのです。
平安時代の衣装、部屋の作り、装飾品や、当時の生活の様子が細やかに描かれていることも、魅力の一つです。
紫式部一人で、これらの人物を一人ひとり作り上げていった、才能には目を見張ります。
紫式部の、「源氏物語」の底に流れる無常
それに加えて、物語の奥底には無常感が流れていることにあります。
紫式部が、夫を亡くした時の、虚無感が無常感、つまり、人の命は永遠ではないということ、最後には、必ず死が待っているということ。
人々もたくさん、その生き様もたくさん、そして死に方もそれぞれ違うのです。
平安時代の死生観も関係しています。死生観というより、人が死んだ時の扱いでしょうか?
特に、平民の死は満足に埋葬されない場合もありました。
風雨にさらされたままであることがしばしばありました。
京都にある化野(あだしの)の念仏寺は、野晒しにされていた遺体の慰霊のため、空海が建てたということです。
死、死生観は弔いに繋がり、仏教と切り離すことはできません。
平安時代は、死が常に身近にあったため、人々は無常を感じていました。
だからこそ、仏教の儀式を大切にしていました。
無常感もまた、平安人の心をとらえたといえましょう。
「源氏物語」の空蝉で、紫式部が伝えたかったこと
「源氏物語」空蝉が光源氏を振る!
空蝉という女性人物が登場する「空蝉」の章ですが、ここでは、源氏が考えていたような女性へのアプローチができませんでした。
空蝉に対し、光源氏の方は「ずっと前から、あなたが好きだった」どか、「こうなったのは前世からの宿縁」とか言葉を尽くすのですが・・・・
私たち読者から見れば、『嘘ばっかり・・いつもこのセリフ、いってるし・・・』です。
光源氏は、女性を口説く時、必ず『こうなるのは、前世からの宿縁』と言いますが、一体何回言えば、気が済むの・・・・という感じです。
勝手に仏教思想を持ち込まないでほしい!
紫式部が空蝉する描写
「源氏物語」に登場する空蝉(うつせみ)という女性は、空蝉の方は、光源氏に惹かれながらも、源氏にの恋人にはならない女性でした。
空蝉は、自分の身分が低いから、こんないいかげんな扱われ方をしたのだ・・・と思って悔しさと悲しさが混じった感情を覚えます。
もし自分の父親が生きていて、それ相当の身分であったなら、こんな扱いを受けなかっただろう、と考えていました。
源氏を通した、空蝉の描写によると、空蝉は目元も腫れぼったく、そんな美人ではない。
ちょうどその時、空蝉と一緒に伊与之助の娘、軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打っていたのですが、むしろ、見た目は軒端荻の方が美しいかも・・・と光源氏は考えていました。
しかし、空蝉の動作や、仕草はしっとりとおちついて、嗜み深く見え、それが空蝉の欠点を上回り、優れた女性に見える、といういうのです。
ここでは、身分が高く生まれても、親が死ねば、親身に世話してくれる人がいなかった場合の、女性の立場を描いています。
ある意味、紫式部本人も、ここに反映させています。
後ろに有力な人物がついていない場合は、身分が低い、自分と同じような境遇にあることを書いたものでした。
紫式部、空蝉の誇り高さを描く
そこには、身分がたとえ低くても、女性にはしっかりと自分の立場を守り通す意思と力がある、それをここでは特に強調したのだと思います。
夜、こっそり光源氏が忍んできた時はその気配を察知し、着ている、衣(小袿、こうちぎ 平安時代の女性の準正装着)だけを脱ぎ捨てて逃げていきました。
空の衣だけを残していってしまった様子が、蝉の抜け殻のように思えて、そこから「空蝉」という名前になったのでした。
光源氏は、ここで初めて、相手から拒絶される、という体験をしました。
今まで、モテまくりで、女性に拒まれたことがないのに・・・これは光源氏にとってもショックでした。
でもここは、光源氏のショックよりも、自制心を保ち続けた、空蝉に、強さを感じます。
そこには、ここまではっきり主張しないと、自分というものをわかってもらえない、という空蝉の思慮深さが描かれています。
平安時代の女性は、親の援助がないと、惨めな思いをし、望まない結婚をしなければならない時もあるけれど、それでも自分を主張することができるのだ。
ということを、紫式部は合わせて書きたかったのでしょう。
紫式部が空蝉と同じよう、強い意志を持った女性、とここから私は感じ取ることができるのです。
紫式部、「源氏物語」に「若紫」なぜ書いた?
「源氏物語」に登場する、「若紫」(のちの 紫の上)の章は、物語の中でも特に人気があります。
これは、現代だけでなく、紫式部の生きた時代でも人気のキャラクターでした。
光源氏、若紫との出会いはドラマチックが受けた?!
「若紫」はなぜこんなに人気があるのでしょう?
紫式部は、「若紫」に、それも子供時代の描写が細かいから、そして何よりも、「若紫」が可愛らしいからと思われます。
光源氏の生涯の生涯の伴侶となる相手との出会いが、ドラマチックに書かれてるからです。
幼い時に、光源氏は、紫の上の若い頃「若紫」(姫君)と最初にであった、瞬間の描写が絵画のようにイメージに浮かんできます。
泣きながら一生懸命走ってきます、その理由は、侍女の犬君(いぬき)が、自分が捕まえるはずのスズメを、(餌を置いて、上からかごを瞬間被せて捕まえる)を逃した・・
と言う可愛らしい理由でした。
若紫は、顔立ちが、自分が愛している、藤壺の宮によく似ている・・・ここらあたりに光源氏は惹かれました。
そこで、姫君の保護者と話してみたところ、保護者は尼で、姫君の母方の祖母、さらに話を聞いてみると姫君の父は、源氏が敬愛する、藤壺の宮の兄いうことがわかります。
藤壺の血縁者ということで、光源氏は紫の上に心を寄せるようになります。
紫式部 若紫の生い立ちを自分になぞらえて?
紫の上に、紫式部自身を投影している、とみる方もいますが、ちょっと違うと思います。
まず紫の上は、身分が高い、ということです。
確かに母は亡くなりますが、父はあんまり紫の上を大事にしているようではないのですが、とにかく存在します。
容姿も全然似ている感じではありません。
紫式部は、この紫の上(若紫)の描写にとても力を入れています。
紫式部の母、光源氏の母、紫の上の母、どの母親もみんな、子供が幼いうちに亡くなっています。
幼い時に、母親を亡くすとはどんなに辛いことか・・・・それを紫式部は小説に書き入れたのです。
若紫は、祖母を亡くして、ひとりぼっちになってしまったところを、光源氏が、自分の住まいにつれてきたのです。
本当は父親のところで、引き取るはずだったのところを、無理やり(?)自分の家に連れて行ってしまいました。
後世の世界でこれをやっていたらら、光源氏は、誘拐で罪に問われるかも?
手元で、自分好みの女性に育てていきます。
現代でも、「源氏物語」を読む男性は若い女性を自分好みの花嫁に育てるところを、憧れる人がいるくらいです。
女性も、将来の伴侶と会えるのを夢みる人もいます。
『若紫』では、自分の希望を表している、ということで人気があるのではないかと私は思います。
「源氏物語」若紫、光源氏に一番愛された妻になる
若紫は、物覚えの良い子でしたから、教えること、箏とか笛とか、和歌をどんどん覚えます。
だんだん大人びて、綺麗な女性になってきた若紫を光源氏はついに、自分のものとしてしまうのですが、そこが衝撃的で・・・
この箇所が読んだ人の度肝を抜いて、源氏物語をより一層印象付ける、出来事となりました。
光源氏には、成人した時に結婚した、「葵上」という左大臣家の姫が、正室(正妻)でしたが、葵上が出産で亡くなります。
その後は「若紫」が「紫の上」と呼ばれるようになって、実質上の正室という形になりました。
正室、といっても、光源氏に引き取られて、その後急に妻となったわけですから、ちゃんとしたお披露目の士気もなく、ずるずると正室になったような感じです。
紫の上は、光源氏に一番に愛された女性になりました。
「源氏物語」、若紫(紫の上)自分でどうにもできなかった人生
紫の上は正妻にはなるものの、人生の終わり近くなって、光源氏は、「女三の宮」(おんなさんのみや)という、上皇の姫を妻に迎えます。
上皇の姫だから、身分は高く、当然、光源氏の正妻という地位に、女の三宮は着きます。
そこで無常感を感じた、紫の上は、出家を望みますが、光源氏が許さなかったのです。
この箇所を含む、紫の上の記述を読んだ、瀬戸内寂聴さんは、「紫の上は、源氏物語の登場人物の中で、一番かわいそうなひと。自分の思うような人生を送れなかったからです」といっています。
確かに、そうですね。
紫の上は、自分の好きなタイミングで出家することもできなかった。
紫の上は、源氏物語の中で「女が本当に自由になれるのは、出家しかないのでしょうか」と考える箇所がありました。
身分の高い人のところに嫁に行っても、自由を手に入れられる幸福にはありつけない・・・これが平安時代の女性の生き方でした。
紫式部は、若紫(紫の上)の人生が本当に、満足のいくものだったか、後悔する人生だったか、このは判断を、私たち読者に投げかけている、そんな気がします。
主人公 光源氏に愛されながらも、夫の行動に悩まされ続けた、紫の上。
絶対的な美貌を持ち、心のうちも素晴らしいと言われた「紫の上」も持っていた、心の中の葛藤。
これが、小説の登場人物としての、「紫の上」の人気の一つだった、と今、私は思います。
紫式部、「源氏物語」をどこで書いた?
紫式部、源氏物語の執筆となると、ふたつのお寺の名前が出てきます。
石山寺と、廬山寺。
石山寺は元からのお寺ですが、廬山寺は、お寺ではありますが、紫式部の邸宅跡に移転してきたお寺です。
紫式部が源氏物語の発想を得た、石山寺
石山寺は源氏物語を書いたところというよりは、紫式部が「源氏物語」の発想を得た地、という方がいいでしょう。
石山寺のあるところは、滋賀県大津市、琵琶湖の臨む瀬田にあります。京都からは少し離れており、平安時代から多くの参拝者がいます。
現代では京都から、JRに乗ると30分あまりですが、徒歩で行くと4時間半かかります。
スニーカーもリュックもない平安時代、に長い着物の裾をからげて4時間以上歩くのは、さぞかし大変だったでしょう。
「蜻蛉日記」(かげろうにっき)の作者、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)も、参拝したことを日記に書いています。
明け方に京都を出発し、逢坂の関を越え琵琶湖のほとり 内出浜から船に乗りんし、夕刻に石山寺についた、ということです。かなりキビシイ・・・
石山寺では、
『紫式部が、中宮彰子から新しい物語を読みたい、という希望を叶えるために、寺(石山寺)に7日間の願掛けをしたところ、琵琶湖の湖面に映る十五夜の月を見て、貴公子が都から離れたところから月を見て恋しく思う場面を書こう』
という発想を得た、石山寺の解説にあります。
石山寺には、「源氏の間」という部屋があり、紫式部らしい人形が置かれています。
2024年は「光る君へ」の影響でさらに、十二単などの展示物がたくさんです。
しかし、源氏物語は、紫式部が彰子に仕える前から書いていた話なので、「源氏物語」そのものの着想ではなく、都から須磨に追放された、光源氏のことを思いついたのでしょう。
紫式部が源氏物語を執筆した、廬山寺
廬山寺もお寺ではありますが、お寺の以前は紫式部の邸宅と言われているところです。
芭蕉は京都御所に比較的近いところです。
紫式部は人生の大半を、この家で過ごしたと言います。
廬山寺の略歴の中には、紫式部は「源氏物語」、「紫式部日記」、「紫式部集」のほとんどをこの建物で書いた、ということです。
紫式部の住んでた家は、紫式部の曽祖父 藤原兼輔(ふじわらかねすけ)が建てたようです。
今、「光る君へ」でまひろ(紫式部)が住んでいる家が多分、この家なのでしょう。
こちらも現在、参拝することができます。
まとめ
光源氏の一生と、その子供たちの生涯を合わせて70年ほどの時代を、ぎゅっと一冊にまとめた小説。それが「源氏物語」です。
「源氏物語」の魅力は、この本を何度読んでも尽きることはありません。
華やかに見える、光源氏も一皮剥いてみれば、厭世主義、そして性格も暗い、と思える箇所もあります。
光源氏の人間を深めているのが、登場する女性たちで、誰一人かけても、この物語の魅力は半減してしまいます。
どんな外国文学でも、「源氏物語」に勝るのもはない、と思えるほどです。
「源氏物語」に関する研究はまだまだ続けられていますし、翻訳本も次々出ています。
原文は難しいですが、翻訳ならたくさん読めますし、翻訳それぞれの良さ表れています。
ぜひお読みいただければ、と思います。
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