足利直義(あしかがただよし)、という人物は室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟です。
政治的には優れているが、戦下手と言われている噂があります。実際はどうだったでしょう。
護良親王を殺害したり、高師直との仲は最悪だった、足利直義の性格は?
観応の擾乱を呼ばれる反乱を起こしましたが、その結果は?
ここでは、足利尊氏の影に隠れていた、足利直義の報われない弟人生をご紹介します。
足利直義、戦下手?
足利直義は、「戦が弱い」、「大したことのない将軍」と諏訪頼重たちは言っていました。
では本当に、戦下手、だったのでしょうか?
それは、中先代の乱で、北条時行に負けて、鎌倉を捨てて逃げ出したことから、「戦下手」の汚名がかけられたからだと思います。
足利直義は、「太平記」の記述から、戦は上手ではない、とは見られています。
それと同時に、「太平記」からは足利直義のいうことは、理にかなっていることも多いが、その行動は行き過ぎることがある、と感じられることがあります。
ということは、足利直義は、頭でっかちな人であったのかも、と感じられます。
「太平記」は足利直義には、好意的と見られる書き方です。
しかし足利直義が、極端に走ったところに関しては、批判的に書いています。
「逃げ若」の作者、松井優征先生は、足利直義の戦下手な理論をくつがえそうとしているところがあります。
足利直義のことを
「よく通る声 詭弁と偏見と正論を交えて北条軍すら黙らせた」と、諏訪頼重の目を通して表現しています。
ここから、足利直義の持つ底力を感じさせられる箇所だと、感じさせています。
ということは、足利直義は理論家ではあるが、その理論を実践できるほどには実力をつけていない、いや周りがついて行っていない、と私は思います。
足利直義、「逃げ若」では?
「逃げ若」で、足利直義は、歴史上の足利直義と同じように、頭がきれ、政治力のある人物に描かれています。
上の章で、足利直義は戦下手は「太平記」にある、と書きましたが、
「逃げ若」では、戦下手ではなく、先を見通す能力があり、簡単には動かない、という一面があるために、戦では動きが慎重なため、戦ベタに見えてしまうのです。
とにかく、冷徹で、物事の秩序を大切にする人物で、実際の足利直義がよりパワーアップした感じです。
ただし、理詰めから離れた感情は読めないのです。
ですから、感情に突き動かされる人物は、足利直義の理解を超え、自分自身を制御できなくなる、という欠点があります。
兄 尊氏のことは尊敬していますが、兄がだんだんとカリスマ化して強くなり、仏をも恐れぬ人物になると、兄に対し不安を感じるようにもなります。
足利直義、尊氏兄弟
足利直義は、足利尊氏の一歳下の弟です。
鎌倉幕府が滅んだ時(1333年)、兄 足利尊氏と共に後醍醐天皇側(南朝)について戦いました。
子供の頃から、足利直義と、尊氏との兄弟仲は良く、室町幕府を作ったときも兄を助けていました。
しかし性格は、正反対でした。
そのためでしょうか?いつの間にか、争いあう間柄になってしまったのです。
足利直義と尊氏の性格
兄の足利尊氏の性格は、感情の起伏が激しかったのでした。
弟の足利直義の方は、冷静沈着そして生真面目で、兄弟でも性格は水と油のように違いました。
生真面目だったため、足利直義は賄賂・お中元のような贈り物は一切受け取りませんでした。
室町時代にも、賄賂やお中元のように贈り物をする習慣がありましたので。
足利直義は、伝統的な面を大事にし、目指す政治も保守的なものを目指し、天皇のことも重んじていました。
室町幕府初期、天皇家は、北朝と南朝に別れて、どちらもが自分が正統な天皇だと言って、戦っていましたが、それでも足利直義は天皇を大切に思っていました。
室町幕府は足利直義、尊氏それぞれがお互いの違う面を認め合っており、足りないところを補い合う形で、町幕府の政治をうまく取り仕切っていました。
足利直義と兄 尊氏との兄弟仲
兄弟仲は、子供の頃は大変良いものでした。
兄弟仲は大人になっても良好なままでした。
足利尊氏が室町幕府を開いた後も、兄が軍事面、弟が政治面でと、良い組み合わせで、室町幕府を作っていました。
兄 尊氏は卑怯なやり方を嫌っていたので、足利直義は自分が変わって手を汚す役割をやっていた、ということが「太平記」に描かれています。
真面目な性格、と言われていますが、兄を思う気持ちは人一倍強く、だからこそ兄のためにどんな仕事もやってのけたのでyそう。
兄弟のどちらもが、「自分のほうが〜」と思うことなく、良い連携関係が結べてました。
その仲の良さが、ずっと続くと思っていたら、そうはいきませんでした。
それは、足利直義の性格が原因となったようなものでした。
それには、室町幕府の、執事 高師直(こうのもろなお)と性格が合わず、二人の関係がよくなかったせいでした。
その高師直は、足利尊氏が任命した人物だから、やっぱり、兄弟の性格の違いが出てしまった、と思われます。
足利直義の性格を表す事件
足利直義の生真面目で、天皇家を重んじる性格がよく出ている事件を紹介しましょう。
土岐頼道が酒に飲まれてしまい、足利直義から処罰を受ける話が「太平記」に書かれています。
土岐氏は鎌倉時代からの有力が御家人です。
1342年、土岐頼道は笠懸(かさがけ)の帰りに、法事から帰る途中の光厳上皇(こうごんじょうこう)とでくわした時に起こした事件です。
笠懸け、とは流鏑馬(やぶさめ)に似た、武士の鍛錬です。
外で、天皇や上皇と出会った時は、天皇に礼を示し、馬から下りて相手を先に通すのが通例でしたが、土岐頼道は、それどころか、矢を射かけて、上皇の車を倒し、バカにしたのです。
この時、土岐頼道は、酒を飲んで酔っており、土岐頼道は武家の名家であることを自慢していたところもあります。
酒も入って気が大きくなっていたのでしょう。
その乱暴ぶりについて報告を受けた、足利直義は、土岐頼道を許しませんでした。
足利直義の立場では、絶対に見逃すことのできない事件です。
そして、逮捕し、事件から3ヶ月後、京都の六条河原で首をはねられて、事件は終結しました。
それほど、足利直義は潔癖な人物だった、ということを示した事件でした。
土岐頼道という人物は、御家人たちから人気があり、文化の発展にも力を尽くした人物で、助命を願う人が数多くいました。
それでも、足利直義は許さなかったのですが、多くの人に説得され、土岐一族を、滅ぼすことだけは断念した、ということです。
人気者の土岐頼道を処罰したことで、周囲は、足利直義を嫌う人が出たかもしれません。
足利直義、護良親王を殺害
天皇家を敬う気持ちのある、足利直義の行動としては、矛盾を感じさせる事件です。
しかし、1335年、足利直義は確かに、護良親王(もりよししんのう)の殺害を命じます。
これは、護良親王が、北条家の残党、北条時行(ほうじょうときゆき)に利用されることを恐れたからです。
そして 兄 尊氏のためになる、ことも考えに入れての上でした。
「逃げ若」では、足利直義が、護良親王を殺害しなければならない思いが、特に強くあらわれています。
兄 尊氏も、弟に「やることはわかっているな?」と言うところから、護良親王の殺害をを指示している様な雰囲気に見えます。
足利直義が護良親王を殺害したとについては、こちらの記事をお読みください。
足利直義と高師直
足利直義と高師直は、幕府運営の方針が全く違う人物同士。
当然、争いが起こります。
その間を、足利尊氏がどう取り仕切るかが、問題です。
足利幕府の兄弟決裂のきっかけ、高師直。
上記で書いたように、足利直義は、生真面目で伝統を重んじる人物。
高師直は、革新的な国づくりを目指した人物。
この二人が、幕府内に残って政治を行なっていたものだから、二人の対立は当然起こるというもの。(将軍である尊氏は、戦に出ていました)
幕府内の武士たちは、足利直義につくものと高師直につくものが出て、2派に分かれていきます。
ちょうど、この時代、天皇家が南朝と北朝に別れたたけっており、足利家は北朝に味方を、対する南朝には後醍醐天皇がいます。
そのため、南朝の有力な武将だった、楠木正行(くすのきまさつら)を討ち取った、高師直の方に軍配があがりつつありました。
足利直義と高師直を取り持つ尊氏
どうも室町幕府が分裂しそうになった気配に、流石にまずい、と思った足利尊氏。
1349年に、尊氏は弟の話を聞いて、高師直の執事職を解いて、代わりに高師直の甥 高師世(こうのもろよ)を執事にしました。
この時は、まだ弟を大事に思う兄でした。
足利直義も、「兄がそう言うのなら…」と言うことで、おとなしく引き下がりました。
足利尊氏は、これで一件落着、と思ってのですが、実はそうでなかったのです。
足利直義に高師直、反撃!
高師直の方が尊氏の決定に不満でした。
そこで、自分よりの武将を集めて、足利直義を殺害しようとします。
足利直義は、兄も屋敷に逃げ込んでしまいました。
足利直義は、兄に対して、自分の気持ちをぶつけるつもりだったかもしれません。
この時登場したのは、足利兄弟双方から尊敬されていた、禅僧 夢窓疎石(むそうそせき)が仲裁に入り、足利兄弟は和睦することになりました。
その結果、
- 足利直義は引退、出家(坊さんになること)。
- 政務を足利尊氏の息子足利義詮(あしかがよしあきら)に渡すこと。
- 高師直の政界復帰
が決められました。
これで丸く治るか?いやそんなことはありません。
今度は、足利直義の方が、不満を持ちます。
足利直義 vs 高師直 が足利尊氏を巻き込んで、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)がいよいよ始まります。
足利直義がついに、兄から決別する日が来た!
足利直義の政治
足利直義は政治力に優れた人物で、直義なしでは、室町幕府の行政は、難しい、とみられます。
足利尊氏は、1333年に鎌倉幕府を倒し、その後に室町幕府を開きました。
兄の、足利尊氏は、将軍でであり室町幕府の軍事面を引き受け、一方、弟の足利直義が政治や司法面を担当し、副将軍の役割をしていました。
こうしてみると二人は、二人三脚のように、室町幕府をまとめる仲が良い兄弟に見えます。
このやり方は非常にうまく機能しており、歴史上「二頭政治」と呼ばれています。
足利直義は、鎌倉幕府時代の執権政治を政治として思い描いていました。
ですから、足利直義は、領主からの訴訟を主に扱っていました。
この頃、領主たちは、自分たちから財産や土地を奪う武士たちに悩まされていたことを憂いた、足利直義は、秩序ある国づくりを目指していました。
足利直義は「観応の擾乱」の渦に
観応というのは、1350年から52年までの年号です。
擾乱というのは、入り乱れて騒ぐこと、秩序が乱れる、ということです。
観応の擾乱が、「変」でもなく「乱」でもなく「擾乱」とわざわざ歴史に出てくるということは、お大事になってはみたものの、騒ぎ立てたでけの内覧だった、ということでした。
ことの起こりは、足利直義と高師直の方針が合わなかった、ことが始まりです。
でも、大掛かりが兄弟喧嘩、と見栄なこともありません。
しかし、そんな観応の擾乱ですが、解決した後、室町幕府がまとまったというのは、なんとも皮肉な話です。
観応の擾乱、 第1章
足利直義が出家することで、一応収まったに見えたのですが、この出家は引退と見せかけたパフォーマンスで、政界復帰を狙っていました。
足利尊氏・高師直も、足利直義がおとなしく、引退したのを不審に思っていました。
その時、足利直義の養子、足利直冬(あしかがただふゆ)が九州で勢力を伸ばしており、養父の直義に加勢するため、挙兵しようとしていました。
足利直冬は尊氏の庶子でしたが、尊氏が自分の子と認知しなかっため、足利直義が自分の養子とし、山陰・山陽地方の統括を任せていました。
1350年 足利尊氏と高師直は、九州平定に向かいます。
足利尊氏たちが出陣後、足利直義は京都の隠居所ををこっそり抜け出して、奈良で兵をあげ、武士たちに、高師直を討伐を訴え武力を集めます。
知らせを聞いた足利尊氏たちは、京都に戻ろうとするものの、足利直義に敗北。
尊氏は、今度は足利直義からの条件を受けて、和解します。
今度は、高師直、師泰親子を京都に送り、出家させる、という条件でした。
ところが、高親子は京都に向かう途中、兵庫県武庫川で、足利直義に味方する武将 上杉能憲(うえすぎのりよし)に殺害され、観応の擾乱はここで、一旦幕を閉じます。
第1幕は、足利直義の勝利でした。
観応の擾乱、 第2章
足利直義、再び挙兵
足利直義は、足利義詮の補佐をするという形で、幕府政治の運営にかかわっていました。、
しかし足利義詮とも折り合いが合わず、結局、1351年 引退しました。
足利直義の引退と同時に、尊氏は南朝の武将を討ち取るために近江国(おうみのくに、現代の滋賀県)、義詮も南朝の武将を討つため播磨国(はりまのくに、現在の兵庫県)にそれぞれ出陣です。
ちなみに、室町幕府は、南北朝のうちの北朝に味方していました。
この足利親子の出陣の目的は、京都に残した足利直義を、東西から挟み撃ちにすることでした。
しかし、足利直義は、兄親子の陰謀に気がついて、京都から逃げ出し、自分の支持者を連れて、北陸で挙兵したことから、「観応の擾乱」の続きが始まりました。
足利直義の敗北
足利直義は、ついには尊氏に捉えられ、幽閉され、その後に亡くなり、観応の擾乱は1352年、ようなく終わりを告げました。
その経過はどうだったかというと、
足利直義の軍勢は、尊氏が恩賞をちらつかせたために、多くが尊氏側に寝返りました。
さらに、足利は天皇家の北朝に味方していたにもかかわらず、敵方の南朝の後村上天皇から、足利直義討伐の許可を取り付けます。
これは、足利直義は、南朝方について、兄 尊氏を追放しようとしていたからです。
ここから、足利直義は、完全に兄から離れようとしていたことが伺えます。
しかし、その南朝も、足利直義を討つ許可を、尊氏に与える、ということは天皇家といえども、日和見主義なんだな、と私には見えます。
天皇からの許可があったから、足利直義は捕えられてしまったことに、哀れみを感じました。
兄と天皇に、振り回されたような、足利直義の人生だった、のですね。
観応の擾乱の結果
観応の擾乱の、効果は良い面も悪い面もあります。
良い面といえば、足利直義の派閥と尊氏の派閥が一つにまとまって、室町幕府将軍の権威が強くなりました。
悪い面は、尊氏が、南朝の天皇から、足利直義の追討命令をとったために、南朝がまた力をつけてきたことです。
そのため、徐々に進みつつあった、天皇家の南北朝統一が、また分裂始めてしまいました。
しかも、尊氏は、南朝の天皇から、足利直義追討の許可を取る時、南朝から出された要求の一つ「皇位は難聴に任せる」という条件を、受けていました。
これで、北朝の立場は弱いものになり、北朝と、室町幕府は危機に立ちますが、なんとか回避することはできました。
それでも、南北朝の分裂状態は、この後60年ほど続き、室町幕府3代目将軍 足利義満(あしかがよしみつ)の時代にようやく、おさまりました。
足利直義の死因
1352年2月、45歳で突然、死亡しました。
当時の歴史読み物「太平記」には「死因は黄疸と発表されたが、毒を守られた、という噂がある」とあります。
死亡の前に、足利直義は、観応の擾乱を起こしたとして、兄 尊氏に捕えられ、幽閉されていました。
そこに死亡のニュースが来たから、あまりにも急でタイミングが良すぎて、「毒殺」の噂が出るのでしょう。
また、足利直義 死亡の日は、「観応の擾乱」で、直義が討った高師直の命日でもあったために、他殺の疑いが出たもの、とも考えられています。
高師直の命日なら、毒殺よりも呪いとなるのではないでしょうか?
黄疸とは、病気からくる症状のため、黄疸だから、死に至るという意味ではないと思うのですが。
黄疸の場合、考えられる病気は、肝臓に障害が出ている、例えば肝臓がんなどです。
また膵臓や、十二指腸の病気、それからアルコールの摂取しすぎ、などあります。
足利直義は、お酒が非常に好き、たくさん飲む、という記述はどこにも見つからないので、アルコールからくる不調は考えにくいです。
現代の、歴史学者 峰岸純夫(みねぎしすみお)氏の見解では、肝臓ガンを疑っています。
「太平記」以外では、足利直義の毒殺を記したものがないため、噂であった、可能性は大きいです。
足利直義について、まとめ
足利直義、尊氏は、武家社会においてはかなり仲が良い、兄弟でした。
兄と、弟ではそれぞれの仕事の分担を弁えた、分業のような幕府運営を目指してきました。
弟が、兄を押し退けてまで、という関係にもなりませんでした。
それなのになぜ?二人の関係が、不幸に終わるか?という疑問が残ります。
実は、二人の心の底には、お互いに自分にない性格を相手に見て、そこを嫉妬していたのかもしれません。
相手の特徴を認めると同時に、それが自分を脅かす存在に見えたのでしょうか?
兄弟は、本当はお互い争いたくなかったのに戦ってしまった、かわいそうな兄弟、なのです。
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