2024年 NHK大河ドラマ「光る君へ」で道長の兄、藤原家の長男藤原道隆に注目しましょう。
平安時代のイケメンとして名高いです。
ドラマでは、井浦新さんが、熱演中です。
イケメンとして、性格はどうだったのでしょう?妻とは恋愛結婚だったと言います。
魅力的な人物像が感じられます。
それなのに死後に、怨霊の噂があるのは気の毒ですが・・・・
ここでは藤原道隆の人物像を描いてみようと思います。
藤原道隆 イケメン!
藤原道隆(ふじわらみちたか)は、左大臣 藤原兼家(ふじわらかねいえ)の跡取り息子です。
将来政治を担う役職に就くとみられる、身分の高い男性ですが、イケメンで有名でもありました。
平安時代後期にに書かれた歴史物語「大鏡」には
「姿形は大変、すっきりと美しくいらっしゃいました」
とあります。
さらに、「大鏡」には、病気になった時でさえ、見舞いに来た人物が言った言葉を書いています。
「人がこのように病気の具合が悪かったら、気味が悪く見えたりするのに、それでも普段と同じく、とてもこざっぱりと高貴な様子をしていらっしゃるので、病気になった時でも美しい顔貌は必要なのだな、と感じました」
ちょっとまどろっこしい表現ですが、他の人ならげっそりと病みつかれているのに、この人(道隆)だけは、変わらぬ美貌を保っておられる、ということです。
病気になっても、美しい、かっこいい人だったのですね。
こんなところは、紫式部の「源氏物語」の『柏木』を思い出させます。
光源氏の妻 女三の宮(おんなさんのみや)に恋をしてしまったばかりに、光源氏に疎まれる青年です。
柏木は光源氏に、嫌われ、それ以上に、チクチクと嫌がらせをされることで、心を病み寝込んでしまいます。
光源氏の息子「夕霧」が見舞いに行った時に、柏木は病み疲れていても美形だ、と思うのでした。
藤原道隆は、人の恨みを買って病気になったわけではありませんが、寝込んだにもかかわらず美貌を保っている、というところが光源氏のモデルになったかもしれません。
藤原道隆役、井浦新
平安時代のイケメンってどのようだったのでしょうね。
現代とは感覚が違うとは思いますが・・・
大河ドラマ「光る君へ」では、井浦新さんがキャスティングされています。
NHKの、藤原道隆の人物紹介では
「才色ともに優れており、上品さ、明るさをも兼ね備えた、申し分ない後継ぎ」とあります。
藤原道隆は芸術にも秀でていました。
井浦新さんも、俳優の他にモデル、デザイナー業も務め、写真展も開いています。
NHKで「日曜美術館」の司会を務められたこともあり、美術にも造詣が深い方です。
「大鏡」には、藤原兄弟の父 兼家の60歳のお祝いをする時、お祝いに、道兼(みちかね、道隆の弟)が舞台を舞うことになっていたのに、嫌がっていました。
それをみかねた、藤原道隆は、その甥を抱き上げて一緒に舞いを踊り、それをみた人は皆、出来を誉めたと言います。
井浦新さんから、そのような温かみのある人柄が、2024年2月段階では感じられます。
しかし、そこは藤原一族、この後、どんな変化があるか、注目しましょう。
井浦新さんといえば、2012年NHK大河ドラマ「清盛」で、崇徳上皇を演じて話題になりました。
崇徳上皇は、保元の乱(1156年)に敗れ流罪にされますが、それを恨みに思い怨霊になった人物です。
日本3大怨霊とまで言われています。
井浦新さんの、メイクの出来が秀逸で目を見張りました。
今回、藤原道隆も怨霊になる疑いがかけられます。
そこで井浦さんへの配役になったかな?と思われます。
藤原道隆の性格は?
藤原道隆の性格について、清少納言は「枕草子」では次のように書いています。
『絶えず冗談を言っており、人を楽しませていた。道隆の周囲は笑いが絶えない』
ということでした。
最も、軽口を叩く、と言われていたのは、お酒が好きで、酒を飲みすぎて、つい話好きになってしまったのかもしれません。
お酒で陽気に、ということもあるかもしれませんが、藤原道隆 自身は、藤原家の長男として大事にされ期待され成長した人物。
そして本人も、性格がよく、良家の息子らしく良い教育をうけ、それなりに頭も良かったようです。
いかにも、名門の大事に育てられた、ボンボンという感じがします。
一方では、臆病な面も指摘されています。
その例は、花山天皇が肝試しを計画した時のことです。
肝試しを命じられたのは、藤原道隆、道兼、道長の三兄弟。
成功したのは、道長のみ、道隆と道兼は二人とも気味が悪くて脱落しました。
このエピソードは、藤原道隆が臆病だ、ということを示したのではなく、道長の肝が座っている、ということを言いたかったので、道隆には気の毒な話です。
時には、陽気に、時には臆病に・・・そして大酒飲み・・・となると、依存症の兆候があったような気がしますが、そこはどうだったのでしょうか?
藤原道隆、どんな人
藤原道長と同じ藤原北家の長男なのですが、藤原道隆自身、どんな人・・・という人物像はそれほど知られていません。
弟の道長の方が、政治家として有名になりすぎて霞んでしまう、残念に思える人物です。
藤原道隆は、お酒大好き!
藤原道隆の人物像を語る上で、外せないのが、酒です、それも大酒飲みでした。
お酒ずきなことは、当時、有名なことで、「大鏡」や「枕草子」にも記載があります。
「陽気な大酒飲み」とか、「酔うと軽口を叩き、人前で烏帽子を脱ぐこともある」ほどでした。
「人前で烏帽子を脱ぐ」ことは非常に無礼なことでした。
烏帽子とは被り物のことで、雛人形で、男型の雛がかぶっている黒い帽子のようなものです。
藤原道隆は、身体を壊すほど大量に飲んでいました。
かかった病気は「飲水の病」、つまり糖尿病です。
現代でもと、糖尿病は放っておくと、視力を失う、手足の末端が壊死する、合併症を引き起こすなどありますが、平安時代は治療法がなかったのだから、死に至る病になります。
糖尿病はもちろんですが、それより、アルコール依存症にならなかったのかが、心配なのですが・・・依存症についての記述は見当たりません。
藤原道隆の場合は、本当にお酒を愛した酒飲み、という感じで、過度の期待による重圧から酒に逃げた、という様子ではありません。
それだから、依存症とはならなかったのでしょうか。
藤原道隆、出世の早い人物
藤原道隆(953〜995)、藤原兼家の長男として、愛され大事に育てられました。
早くとんとん拍子に出世しましたが、実力というより運が良かった人です。
生まれた時代と、立場が良かったのでしょう。
天皇が、花山天皇が退位し、藤原道隆の甥にあたる 一条天皇(いちじょうてんのう)が即位し、その妃に、自分の娘 定子(ていし)を入内させます。
花山天皇の退位は実は藤原家の陰謀だったのですが・・・その事件については、花山天皇と藤原道兼の記事をお読みください。
父 兼家(かねいえ)はその兄(道隆にとっては伯父)兼通(かねみち)とは仲が悪く、政治での出世は、兼家の方が早く関白になったのでした。
兼家は病気を機に出家し、一族の家督、関白職も含めて、道隆に譲りました。
藤原道隆の家は、「中関白家」(なかのかんぱくけ)と言われていますが、これは、道隆の死後に呼ばれるようになった名称です。
父 兼家と と弟 道長という二人の力ある関白の間にいた関白、という中継ぎ的な意味でした。
藤原道隆、人格が変わるの?
藤原道隆が出世する前までは、良き息子、良き兄というイメージでした。
「光る君へ」の中でも、弟の道兼を慰めたり、道長の話を聞いてやるなど思いやりのある兄です。
NHKの解説からは、藤原道隆の性格が変わっていくとあります。
しかし、人格が変わるのではなく、本性が出てきた・・・と言った方がいいでしょう。
そのきっかけは、花山天皇退位事件でした、歴史上 寛和の変(かんわのへん)と呼ばれています。
花山天皇を退位にして、藤原兼家の孫、一条天皇へ譲位させることが目的です。
藤原兼家の孫、ということは、道隆、道兼、道隆 三兄弟の甥です。
花山天皇退位は藤原家の、それも藤原家の当主 藤原兼家の陰謀だったのですが。
藤原道隆も、この陰謀に当然関係します。
では何をしたかというと・・
三種の神器を東宮御所に移しました。
三種の神器は、天皇が天皇になるための大切な道具、「鏡、剣、曲玉(勾玉)」の三種で、正式な皇位継承者が受け継ぐものです。
藤原道隆が天皇家の重要な象徴を手にしたことは、次期天皇を支えるという重要な役割を果たす、ということを意味します。
一条天皇の即位後、藤原道隆は、政治的手腕を振るえるようになり、朝廷での影響力も増大します。
これまで、人の良いお兄さんだった人が、権力に取り憑かれるような人物となります。
娘 定子を一条天皇のもとに妃として入内させ、自分も父と同じように、天皇の血縁者になろうとします。
自分が父より継いだ関白の地位を、次に自分の息子に継がせようと考えますが・・・どうもそこはうまくいきませんでした。
藤原道隆と藤原道長との兄弟仲
「光る君へ」で、ただいま放映中(2024年3月)の時点では、お互い労わりあう兄弟に見えます。
では兄弟仲はどうだっだのでしょう?
特に仲が悪い兄弟、とも見えませんが非常に仲が良い兄弟同士だったようではありません。
成長して、政治に関わるようになると、だんだんと、兄弟それぞれに主張が出てくるものです。
藤原道隆は藤原三兄弟の長男、当主となるべき人物ですから、二人の弟は兄に従うのは当然です。
道隆自身、兄貴風を吹かせるような人物だったのでしょう、弟たちの面倒を見てやっている、なんていう気分だったのかもしれません。
藤原道隆は、40歳ほどの若さで病死します。
その時、道隆の娘 定子は天皇の妃でした。
男子も生まれましたので、一族全体で、停止とその息子を盛り立てていこう、と思うところでしょうが・・・
しかし、弟の道長は藤原道隆の娘たちのバックアップをせずに、自分の娘 彰子を一条天皇の妃にしました。
兄 道隆と同じように、紫式部を雇い入れて、宮中に文学サロンを作り出しました。
結論として、藤原道隆と道長の兄弟は仲が悪い、というわけではありませんでしたが、道長の方が、いつかは兄の上をいこう、と思っていたのでしょうか。
藤原道隆、妻とは恋愛結婚
藤原道隆の妻は、高階貴子(たかしなたかこ)といい、といい、才女で有名な女性でした。
しかし、貴子さんの実家、高階家はそれほど高い地位の貴族ではなく、藤原家の正妻となるにはちょっと、格下と見られていました。
女性の身分が低いのに、妻に と押し切った藤原道隆はなかなかのロマンチストといえましょう。
大貴族であればあるほど、格が釣り合った結婚というものを大事にしますので、藤原道隆の結婚は恋愛結婚ということになり、当時では珍しいことだったでしょう。
藤原道隆と妻 貴子との愛情深さを表す、次男ような和歌を貴子は詠みました。
「忘れじの 行末までは 難ければ けふをかぎりの命ともがな」
意味:あなたのことはずっと忘れない、ということは簡単だけど、守るのは難しいでしょう。でも忘れない、と言ってくれた嬉しさのまま、命が終わってくれればいいのに
ちょっと切なくなる恋の歌ですね。
いくら、恋愛の末での結婚でも、そこは平安時代。男性は複数の妻を持つのが当たり前です、特に藤原氏の御曹司ともなると、正妻以外の妻も何人か・・
道隆が他の女性のところに行った時は、ちょっとヤキモチも・・
「ひとりぬる 人や知るらむ秋の夜を 長しとたれか君に告げつる」
意味:誰かを待ちながら一人で寝てしまった、なんて経験がないほどいつも女性と共に過ごされたあなたには、秋の夜の長さ、なんてご存知でしょうか?誰かから聞いたのでしょうか?
可愛いところがあります。
藤原道隆から返歌があった後に。
「夢とのみ 思ひなりにし世の中を なに今更に 驚かすらむ」
意味:あなたのことはもう夢の中のことと思っているのに、なぜ今更『夢じゃない』なんて言って、目覚ますほどに驚かせたのですか?
と再び歌を返しました。
これらの歌は、「拾遺和歌集」(しゅういわかしゅう)、「後拾遺和歌集」、百人一首などに載せられています。
藤原道隆と、貴子との間には三男四女と、計7人の子供が生まれます。
藤原道隆の死因
藤原道隆の死因、それはなんと言っても糖尿病です。
その糖尿病は過度の飲酒から来ました。
平安時代の死因のトップは流行病です。
ほとんどは天然痘、はしか、などです。
そんな伝染病ではなく、アルコールの過度の摂取からの糖尿病で亡くなったのですから、ものすごい不摂生な生活をしていたのでしょうね。
藤原道兼は臨終の床では、あの世というところでは、また自分の飲み仲間たちと楽しく飲みたい、などと言っていたということです。
いやそうではなく、自分の息子 伊周 が関白職につくことを願いながらこの世を去った、という話もあります。
しかし、どちらの言葉も記録にはなく、伝えられているだけです。
どちらの言葉も、藤原道隆の性格を表していていますね。
藤原道隆、怨霊になった?
気のいい、お酒ずきな陽気な人物、藤原道隆。
怨霊とは程遠いいイメージなのですが、怨霊になった、と噂があります。
経緯はこうです。
藤原道隆は無念を残して亡くなった?
藤原道隆が病気で倒れた時、道隆は自分の関白職を自分の息子 伊周(これちか)に譲ろうと思いました。
伊周はすでに内大臣になっていたから、資格はあるはずですが、認められませんでした。
再度、息子への移譲を申し立てるのですが、それでも認められず、藤原道隆は失意のうちに亡くなります。
関白職は、道隆の死後、道隆の弟、道兼が任命されました。
関白職のいざこざで、藤原道隆の家は没落に向かいます。
道兼の死後は、ついに関白職は、さらに道兼の弟、道長が受けます。
道長の関白就任を不服に思って、伊周は道長に反乱を起こしますが、伊周は敗北し、藤原道隆が作り上げた、「中関白家」は二度と国の中枢部に登ることはできなくなりました。
藤原道隆の屋敷で異変が?
1029年、道長の息子、頼道(よりみち)は、藤原家の屋敷 東三条殿で病に倒れました。
東三条殿とは、藤原家の当主が住んだ屋敷で、藤原兼通も、藤原道隆もかつて住んでおり、道隆はここで最後を迎えました。
頼道が体調を悪くしたことで、陰陽師に見てもらったら、東三条殿には悪霊が憑いており、悪霊が病を引き起こしている、というのです。
藤原頼道は屋敷より避難して、兼家の弟(道隆三兄弟の叔父)で僧侶になっている者に、お祓いをささせました。
藤原道隆は怨霊になったのか?
迷信深い平安時代のこと・・・何か良くないことが起こると、すぐに怨霊のせい、となります。
それでも怨霊になる人とは、ある人のせいで辛い人生を送った、非業の最期を遂げた人たちです。
藤原道隆の場合は、そこから考えると怨霊になる条件から外れているような気がします。
ですが藤原道隆の性格として、あまり根に持つタイプには見えないのです。
どちらかというと、陽気で、自分に最後が近いと知っても、仲が良い友人たちと酒をまた飲み交わしたい、と思っていましたから。
道隆の最後こそ、自分の後継者を息子とすることができなくて、失意のうちに亡くなった、ということですが。
道隆が付いていた関白職を、道隆の息子でなく道長が継いだ・・・この出来事をむしろ、道長の方が気に留めていた感じがします。
藤原道隆の息子、伊周との関白争いのレースに勝った道長・・・藤原道長は兄に対し、後ろめたい気持ちを持っていたのでしょう。
その後ろめたさが、兄の霊を恐れる気持ちにつながったのだと思われます。
東三条殿には、何か取り憑いていたのか・・・それは本当に兄の藤原道隆の霊だったのか・・・
人の心の闇が、怨霊への恐れになったのでしょう。
いかにも平安時代の思想を表す事件ですね。
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