藤原伊周(これちか)は、藤原九条流の当主 藤原道隆(みちたか)の期待の長男です。
しかし、最近のNHK「光る君へ」を見るところ、どうも身分に驕り高ぶった傾向が見られます。
藤原伊周は今後どうなっていくのでしょう?
ますます出世していくのか・・・・それともどんどん落ちていくのか・・・
そんな、坊ちゃん育ちの、藤原伊周の、もっと立派な人物になれたはずなのに、残念な人で終わってしまった、藤原伊周の半生を、紹介します。
最後までお読みください。
藤原伊周、藤原道長と関白争いに
藤原伊周、嫌われる
藤原伊周が、政治に加わった時、周囲のほとんどが、自分より10歳ほども年上ばかり。
自分たちを飛び越えて、出世していった伊周に対し皆が不満を持つのは、想像がつきます。
しかも謙虚でないのだから、嫌われていきます。
藤原道隆は、病気で亡くなる前、自分の後継者に息子の藤原伊周を推薦したのですが、即座には認めらませんでした。
それは、当然といえましょう。
それでも父 道隆が頑張って申請した末、関白 藤原道隆が病気のとにのみ、「内覧」を認める、というところまで漕ぎ着けました。
「内覧」とは天皇に、誰か役人が文書を提出したいと思ったときに、大臣が先立って、文書に目を通す権限のことです。
「内覧」の権限は、摂政や関白の仕事と共についてくるのですが、伊周には「内覧」だけの仕事しか与えられませんでした。
藤原伊周の「内覧」については、時と場合を記したきちんとした文書(辞令みたいなもの)が出され、それには「関白病間」とのみ書かれていました。
しかし伊周は、「関白病替」(病気の関白から自分に代わる)を希望していたので、不満を述べました。
これには、伊周びいきの一条天皇も、呆れました。
藤原伊周は、仕方なく、「病間内覧」を受け入れたのですが、内覧として、天皇の臣下たちに、倹約令を出したことで、公家たちから批判を浴び、その能力が疑われたのです。
藤原伊周は、身に合わない主張をしたばかりに自分の無能ぶりを晒し、すっかり嫌われてしまったのですね。
藤原伊周 vs 藤原道長
勝ったのは藤原道長でした。
藤原道隆が亡くなると、年長者が後継者という慣習通り、道隆のすぐ下の弟 藤原道兼が一族の当主そして、摂政職につきました。
ところが、その約7日後に、道兼も病死。
そして、藤原伊周と藤原道長の、摂政争奪戦が始まりました。
藤原道長が勝ったのですが、その裏には、一条天皇の母 東三条院 藤原詮子(ふじわらあきこ)の強い、訴えがあったからです。
道長は右大臣に任命され、職務は関白を兼ねた、強い力のある役職になりました。
一条天皇は、ひいきの藤原伊周を推していました。
なにしろ、最愛の妻 定子 の兄だからです。もちろん 定子も一生懸命兄を推していました。
「大鏡」には一生懸命、藤原伊周を推す、一条天皇を涙ながらに説得した、と書かれています。
東三条院は、道長の方が、藤原伊周より、資質も優れ人望がある、と見ていました。
「大鏡」には、東三条院が伊周を退け、道長に味方したのは、これからの政治を考えると懸命な選択だった、と書いています。
しかし、「大鏡」は、藤原道長よりの見方をしている読み物である、とこだけは気をつけておきたいことだと思います。
藤原伊周の失脚
奢れるものは久しからず・・・というように、藤原伊周は、出世で道長に負けました。
その失脚・・・なら、まだ名誉ある政治の敗北と言えますが、伊周はつまらないことで失脚し左遷されることとなります。
藤原伊周、長徳の変のきっかけと・・・
それは女性問題です。996年頃の話です。
藤原伊周には通う女性がおりました。それ時代は、平安時代では別に悪いことではありません。
お相手は、藤原為光(ためみつ)の娘、「三の君」。つまり三女。
ちなみに、藤原為光は、「光る君へ」f4の一人、藤原斉信(ただのぶ)の父です。
さらに為光は、伊周の祖父、藤原兼家の兄弟です。つまり為光は、伊周の大叔父なのですね。
ところがその家に、かつての花山天皇、(退位、出家して花山院、または法皇)が通っていました。
出家して仏道に入った身でも、恋人を作るのですね。
藤原伊周は、自分が好きな女性のもとに、花山院が口説きに通っているのだと思い、悩み、弟 藤原隆家に相談しました。
藤原隆家は、兄のためと思ったのでしょうか、花山院を襲撃し、花山院の法衣の袖を射抜いてしまいました。
法衣って坊さんの着るものですね。その法衣を堂々と着て女性のところに行くのはどうかと思うのですが・・・平安時代の、地位の高い人はそんなこと構わなかっのでしょう。
ところがふたをあけてみれが、花山院が通っていたのは、「三の君」の妹「四の君」だったのです。
そして二人とも、花山天皇が愛した、きさき 忯子(よしこ、または しし)の妹でした。
これは「長徳の変」(ちょうとくのへん)と呼ばれている事件ですが、恋人のことで、それも勘違い、とくる、藤原伊周にとっても、花山院にとってもちょっと恥ずかしい話です。
でも、法皇に弓を引いたのは事実なので、不敬に当たる罪に問われるのは仕方ないことです。
藤原伊周・・長徳の変の続き
花山法皇に弓を射った事件は、法皇自信、あまり大事にしたくなくったので、揉み消そうとすれば揉み消しにできたかもしれません。
しかし続いて、起きたのが、藤原道長と、東三条殿(藤原詮子)に対する呪詛事件です。
東三条院は、病にふせっていました。
その時屋敷の床下から、呪詛の札が・・・・
呪詛の札の話は、藤原実資の「小右記」ほか「日本紀略」(にほんきりゃく)という歴史書にも書かれています。
花山法皇の事件とほぼ、同時に起こったことなので、これも藤原伊周が呪ったのでは・・・と見られてしまったのです。
こちらについては、伊周自身も否定していますし、証拠も上がっていません。
真偽のほどはいまだに謎です。
ただ、法皇襲撃事件とともに、藤原伊周兄弟を徹底的に追い落とすには、十分な事件です。
藤原道長のやらせ陰謀かもしれません。
東三条院の、仮病説も考えられます、なにしろ、父 藤原兼家が仮病を使ったこともありましたね。
「光る君へ」の中では、藤原倫子様に何かありそうな様子を匂わせていました。
藤原道長は「光る君へ」の中では、良い人のように書かれていますが、歴史上ではなかなかの狸親父、と見られています。
道長あたりの、伊周追い落とし作戦の一つだったような気がするのですが・・・
藤原伊周の左遷
藤原伊周の政権争いを勝ったものの、藤原道長はまだまだ安心していません。
それに、身内に「天皇や上皇に弓を引いたもの」がいたら、自分の今後にも関わってくるかもしれません。
そこでで追い打ちをかけます。
藤原伊周を、九州の太宰府(福岡の太宰府市)に、太宰権帥(だざいごんのそち)という役職を与えて、赴任させます。
権(ごん)というのは「副」を表し、帥(そち)というのは「長官」を表します。
つまり、藤原伊周は、太宰府の副長官という役目を受けました。
転勤に見えますが、これは左遷です。
「太宰権帥」という役職から、藤原伊周のことを「帥殿」(そちどの)と呼ぶようになります。
この呼び方は、「大鏡」でよく見られます。
弟 隆家 のほうは、「出雲国権守」(いずものごんのかみ)という、こちらも、副長官という役職で、出雲に左遷されます。
二人の左遷も、叔母の東三条院(藤原詮子)が病に倒れ、回復してこないということで、「大赦」で京都に帰ることが認めらました。
大赦とは、恩赦のことですが、国家の吉凶事に関わる事件があった時に発令されるものです。
京都に帰還したからと言って、藤原伊周・隆家兄弟に権力が戻ることはありませんでした。
自分から政界復帰する、気力というものがなくなってしまった・・・というのが実情だと思います。
藤原伊周の弟について
藤原伊周の弟 藤原隆家(たかいえ)ですが、このかたは復帰します。
のちに、太宰府にゆき、刀伊の入寇(といのにゅうこう)という、大陸から女真族が侵略してくる事件で、その討伐で大活躍をしました。
それでも、再び高職に就くことはありませんでした。
藤原隆家の子孫の一人は、平清盛の義理の母、池禅尼(いけのぜんに)という人物で、幼い源義経(みなもとのよしつね)の命を助けた人で、知られています。
さらに南北朝には、後醍醐天皇の皇子 懐良親王(かねながしんのう)をバックアップした、九州の菊池一族が藤原隆家の子孫を名乗っていた、と言います。
藤原伊周の弓・・・自信満々?
藤原伊周と藤原道長の、「競べ弓」のエピソードが「光る君へ」の中にありました。
その話は「大鏡」の中に出てきます。
その経緯はこうです。
藤原道隆の屋敷で、息子の伊周が弓遊びを楽しんでいる。
そこに、道長がやってきます。
道隆は道なたを客人としてもてなすつもりで、そこで弓を打っている、息子の伊周と共に、弓打ちをするよう勧めます。
そうして始まった勝負。道長の方が勝っていしまった。
道隆や伊周の一族、友人達は、後2本延長の勝負を申し出ます。
道長としてはせっかく勝ったのに、これはないだろう・・・と少し怒るのですが、2本追加に同意しました。
1本目「自分の家から、天皇・皇后が出るのなら、この矢よ、当たれ」と言って打ったら命中しました。
同じく、伊周も、同じセリフを言って矢を射かけたら、緊張性か、少しずれました。
そこで2本目の矢を射つことになるのですが、今度は「自分が摂政・関白になるのならこの矢当たれ」と言いました。
これも命中。
びっくりした、道隆は、嫌な予感がして、この勝負を止めました。
この願掛けの、内容は出来すぎている感じがします。後から書いたのでは、と思われるのです。
のちの、道長の出世具合を予言されるような出来事です。
それにしても、遊びとはいえ、下手に願掛けなどするものではありません。
藤原伊周の人柄
生まれながらにして、将来の地位が約束されていた、坊ちゃん、だったのですね。
しかし、子供時代から秀才で知られていて、一条天皇の幼い頃には勉強を教えたこともありました。
見た目も麗しく、才色兼備な男性でした、
せっかく、父も出世し、妹も帝の寵愛を受け、とこれから政治的に大物になれるチャンスがあったのに、それを生かしきれませんでした。
というのは、名家の生まれの子女にありがちな、自分は偉い、と錯覚する気持ちがあったのでしょう。
でも、くらいが上がるにつれ、傲慢になってきて、皆に嫌われるようになったのでした。
また、マザコン気味を表しているエピソードもあります。
伊周、隆家兄弟が左遷されると知った、母 貴子が 息子を心配しすぎて病に倒れてしまった時は、こっそりと帰ってきてました。
結局、伊周は隠れているのがバレて、また太宰府に送り返されてしまいました。
マザコンの反面は、優しさ、とも言います。優しい一面もあったのでしょう。
「栄花物語」では、藤原伊周を「心の幼い人」と表現しています。
そう言ってしまうと、優しさは当時の人はあまり感じていなかったようです。
横暴な人、と思われていたのだから、そこに優しさの感想が入る余地がなかったのかもしれませんが・・・・
結局、母は亡くなります。
その後、東二条院の病気平癒のため、許されて帰ってきても、伊周達に、人々は優しくありません。
そんな中、妹の定子が亡くなります。
伊周は、穢れを構わず、定子の遺骸を抱きしめて泣いた、と言います。
これで、伊周の政治生命はもう回復が望めません。
というか、どのように復帰していいのかわからないでいたのです。
藤原伊周は苦労知らずのボンボンにありがちな、メンタル面が弱い人、と言えます。
これは父親にも同じ傾向が見られましたが。
一方、藤原伊周の叔父、藤原道長は、チャンスを確実にモノにしていきました。
同じ、家の出身でも随分と違うものです。
藤原伊周 イケメン
清少納言は「枕草子」で、「(藤原伊周の)容姿は良い」という内容が書かれているので、イケメンだと、いうことが証明されています。
「光る君へ」の中だけの、もてはやされるイケメンというのではなかったのですね。
藤原伊周は、ただ、見目麗しいだけではなかったのです。
頭脳明晰でした。
それというのは、母 高階貴子(たかしな貴子)が、息子をばっちりと教育したからです。
高階貴子は、宮仕えしていたこともあり、宮中では評判の才女でした。
そんな貴子は、腕によりをかけて、息子を教育しました。
特に力を入れたのが、漢詩でした。
伊周と言わず、男性は漢詩をよく理解し、自分でも書かなければなりませんでした。
伊周は、物覚えの良い子供でした。
「大鏡」には藤原伊周の学才は優れており、日本だけに留めておくのはもったいないほど」とありました。
こんなに頭のいい子なら、政治学をもっとしっかり教え込めば、良い政治家になれると思えるのにもったいないです。
母も、父も、そのことに思い至らなかったのでしょうか?
と言っても、父 藤原道隆自身が、政治家としては特に優れていなかったので、仕方ないかも?
似たような平安時代のイケメンに、藤原公任がいました。
公任も政治力より、文化人として名を上げました、それにこちらもイケメン。
父親も、藤原頼忠という権力を持った政治家でした。
しかし、藤原公任の方が、後ろ盾を失うのが早く、恵まれた出世ができず、当時の人気は、藤原伊周にかないませんでした。
「源氏物語」、藤原伊周がモデル
藤原伊周は、美形で、文化的才能に恵まれていた・・・
文化的才能は、和歌が上手く詠めたり、漢詩の知識が豊富などです。
「枕草子」や「栄花物語」で藤原伊周の美点が描かれていました。
そこから紫式部の「光源氏」のモデルの一人になったのではないか、と言われています。
「光源氏」のモデルはどうも、複数いたのでは、と言う研究が行われている最中です。
ただし、光源氏は、政治的能力にも優れていたと言う設定ですので、そこは誰がモデルになっているのでしょう?
少なくとも、藤原伊周や藤原公任ではないのは確実でしょうが・・・
藤原伊周の役職は
藤原伊周の役職は21歳で内大臣になりました。994年のことです。
藤原伊周の出世は非常に早いです。それは環境のおかげだったのです。
それもそのはず、父 藤原道隆と、天皇の妃となった妹の 定子(さだこ、または ていし)が一生けんめいバックアップしたからです。
990年に、父 藤原道隆が摂政になると、もうこれからとんとん拍子。
藤原道隆は、自分の自慢の嫡子 伊周を強引にも引き立てました。
蔵人頭(宮廷内で、事務方、秘書のような仕事をこなす)から、参議へと昇進です。
その時はまだ18歳・・現代でいえば、やっと大学にあがっが若造です。
参議とは、国の最高機関、太政官(だじょうかん)の官職で、役職の順位で言えば、大臣、納言の次に権力がある職です。
納言の位は三位(数の少ない方が偉い)以上でないといけないのですが、参議は幅広く有能な人物を登用するために、四位からなれます。
蔵人頭(くろうどがしら)就任からわずか4ヶ月で、今度は権中納言(ごんちゅうなごん)、そして992年には権大納言にまで出世してしまいました。
なにしろ、伊周の叔父 藤原道長をも追い越していたのですから。
父親の引き立ては誰が見ても、見苦しいまでの身内びいきです。
年長者を敬う習慣があった、平安時代では、このような、叔父たちを蔑ろにするような、昇進は賛同を得なかったでしょう。
慣例の達人、藤原実資も、首を傾げる感じです。
それに、藤原道兼も藤原道長も、良い仕事をしていましたから・・・誰が見ても眉をひそめるような人事でした。
藤原伊周が、政治的才能に溢れていた、また未熟ながらも一生懸命な姿勢が見られたら、好意的に見てくれる人もあったでしょうが、どうもあまりよく思われていませんでした。
その様子が、平安時代の歴史読み物「大鏡」に書かれています。
「大鏡」には、藤原道長は優れた人物だったけれど、藤原伊周は、あまり優れたところが見つからず、父と妹の権威を自分のものと捉えていました。
「光る君へ」で見る通り、追従する人はたくさんいますが、陰口も数多かった、という想像ができます。
藤原伊周の遺言
藤原伊周の妹、定子は皇子を産んでいましたので、その子が天皇になることを夢見ていました。
しかし、定子の後に入った、藤原道長の娘、彰子にも男子ができ、伊周は失望を味わい、1010年、35歳で亡くなります。
藤原伊周の最後については、「栄花物語」に記述が残っています。
その時、自分の子供達に遺言を残しました。
二人の娘には「結婚しても、宮仕えしても、親の名を恥じぬような生き方をしなさい」と。
息子には「人の言いなりになるような人生なら、出家した方がいい」と。
あまちゃんの、伊周にしては、かなりしっかりとした言いつけです。
しかし息子 道雅の方はあんまり言うことを聞かなかったようで、その生活は荒んだもので、伊周の家だった屋敷は、すっかり荒れ果ててしまいました。
一方、二人の娘はしっかりとした生き方をし、長女は藤原道長の息子と結婚し、次女は、道長の娘、彰子のもとに、女房として仕えました。
従姉妹の元で、女房になる・・・・ってどんな気持ちでしょうか?
これまででも、従姉妹や、姉妹のところで仕える、と言う話はありますが、それは母親の身分が低いため、と言う理由が見えましたが。
伊周の場合も、道長の場合もどちらも、大臣クラスの父を持っていて、母親の身分が・・・・と言うほどではないのですが。
やはり、家自体が落ちぶれてくると、どうしても身分に差が出てくるのでしょうね。
コメント