藤原道兼の死因?悪人か?性格は。紫式部の母の仇 殺人を? 妻は誰?花山天皇を騙し関白に キャスト?母は?

2024年、NHKで大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。

第一回目は、主人公 紫式部こと「まひろ」のお母さんが殺されるという衝撃的な最後でした。

犯人は、藤原道兼(ふじわらのみちかね)・・・・「光る君へ」でのもう一人の主要人物 藤原道長(ふじわらのみちなが)のお兄さんです。

このお兄さん、本当に暴力的な人間だったのでしょうか?

35歳という若い年齢で亡くなりましたが、死因は何だったのでしょう。

もしかしたら、暴力的なところから人に恨まれて・・・・?と疑惑が出てきますが。

本当はどうだったのか・・・調べてみました。

「光る君へ」を見ると、同情したくなるところもあります。

ここでは、複雑に見える藤原道兼の、本当の姿に迫ってみましょう。

藤原道兼の死因は病死?

藤原道兼は天然痘?

995年6月8日、享年35歳で藤原道兼は亡くなりました。

伝えられている藤原道兼の死因は、病死 と記録があります。

本当に病死だけで、どんな病気?と病名は、語られていません。

藤原道兼の亡くなる前年、994年あたりから、天然痘という伝染病が流行しました。

そこで後世の推測では、おそらく藤原道兼は天然痘にかかったと推測されます。

この時代の天然痘は非常に怖い病気で、非常な高熱に襲われ、身体中に発疹ができ、それがやがて水脹れとなります。

高熱は肺炎や脳炎の合併症を引き起こし、命を落とすケースが非常に多い病気でした。

感染力が強かったのも怖がられた原因です。

兄の、藤原道隆は糖尿病だった、ということでした。

当時流行していた、という理由から天然痘の死因が推測されているのですが、伝染力の強い病気の割には、藤原道兼の近辺で、罹った人がいる、という記録がありません。

藤原道兼を藤原実資が見舞うところからわかる事実?

道兼を見舞いに行ったのが、藤原実資です。

その様子が、平安時代の歴史物語「大鏡」に記載されています。

「大鏡」によると、

『いつもと顔色が違って、輝いた様子が見えない』と藤原実資が思った、というのですね。

藤原道兼の元に、見舞いにも行って、そして、『輝いた様子が見えない』とまで藤原実資が言った、ということは、実資は道兼のことを心配していた、ということになります。

実資は、藤原道兼を評価していた・・・道兼に対し、悪い印象を持っていないようです。

また、藤原実資は、道綱を天然痘とは思っていない。

天然痘であれば、うつされる危険性は十分にあったはずです。

それなのに実資は、天然痘にかかっていないので、おや?と思うのですが。

藤原実資は単に、運がいい、だけだったのでしょうか?

藤原道兼が天然痘だったら、道兼の家の人たちも、家臣を含めてかなりの人が、天然痘にかかったはずで、家が閉鎖になるほどになるはずですが、それほどのことは歴史に書かれていません。

これは重要なことです。

藤原道綱の死が早すぎる!

藤原道兼は、関白になってすぐに亡くなったので、その死が急すぎて、何かあったのかもしれない、と想像を逞しくする人がいると思います。

流行病で亡くなった、と知られていても、早すぎる死は、疑惑を引き起こすものです。

しかも、「大鏡」や藤原実資(ふじわらさねすけ)の「小右記」には病死としか書かれていないので、裏に何かあるのでは、と勘繰ってしまいます。

藤原道兼は、かつては花山天皇を、騙して出家させてしまいました。

花山天皇(この時は、天皇位を退いているので、花山院と言います)から恨みを買ってもおかしくない、と世間から思われています。

現在残されている歴史書では、藤原道兼の死因については病死、以外のことは書かれていません。

暗殺の疑いがあった、とも書かれていません。

だからこそ、現代の我々は何かあったら面白い、と思い、歴史の裏側から、なんらかの死因を想像してしまうのです。

「光る君へ」の中では、円融天皇の場合のようにこっそりと毒を盛られ、徐々に弱っていく・・・なんて演出が用意されるかも、なんて想像すると面白いですね。

藤原道兼、死霊となって登場?

とかくと、なんだかコワいですが、藤原道兼が死霊らしい、ということは藤原行哉の「権記」に書かれているのです。

死霊になるくらいだから、暗殺された?と思うかもしれませんが、そうではありません。

藤原道長に取り憑いて、話をした、というのです。

別に恨み言を言ったのではなく、自分の山荘だった、粟田の屋敷を寺にするように、と言ったり、道隆の息子、伊周を復権させるよう、と口にしたのです。

この時道長は病に倒れており、道兼らしい霊が言うには、伊周を戻すことによって、道長の体調が治る、と忠告していました。

ただし、この霊は、はっきりと、藤原道兼と書いているのではありませんが、読む人に、道隆だと思わせてしまうところがあります。

しかし、陰陽師や巫女のような霊媒が、伝えることであるのに、道長が憑いてしまったと言うのが不思議です。

もしかしたら「光る君へ」でも、藤原道兼は思わぬ形で再登場するかもしれませんね。

藤原道兼、悪人説は本当?

藤原道兼は主人公、まひろ(紫式部)の母親をいきなり殺し、返り血を浴び、まさに悪人そのもの、に見えますが、本当に悪人だったのでしょうか?

藤原道兼は、病に罹りますが、その看病をしたのが弟の藤原道長でした。

この病気が元で、道兼は死んだのですが、伝染の恐れがあったのですが道長は気にしませんでした。

亡くなった時も、「悪い夢であってほしい」と嘆いていました。

「光る君へ」の中では、藤原道兼は長兄 藤原道隆(ふじわらみちたか)と仲良く月見をしていましたが、実際はそうではなく、道兼と道長との仲の良さが、読み物に残っています

以上の、看病の話は「栄花物語」の中に書かれています。

また、「大鏡」には以下の話が出ています。

藤原道兼が関白になり、そのお祝いに藤原実資(さねすけ)がきた時の話です。

関白になった時、藤原道兼はすでに体調を崩していました。

具合が非常に悪いなか、なんとか気力を振り絞って、横になったまま、御簾(すだれ)越しに会いました。

「あなた(実資)には感謝したいことがたくさんありまして、今ここでやっとお礼を言うことができました」と謝意を表した、というのです。

藤原道兼の素顔は、優しく、義理堅かった様子が見受けられます。

それを見た、藤原実資も、『いつもほどの輝きが見られない』と言ったのは「死因」を書いたところで述べた通りです。

ここからは、実資は、藤原道兼を、信用すべき人、と思っていた、ことが証明されます。

そして、父の、藤原北家を一番にして国の舵取りはこの自分がやる、という野心に利用され、押し潰された人物だったのではないでしょうか?

藤原道兼の性格

性格と共に、見た目がどんなだったかも気になります。

平安時代に書かれた歴史書「栄花物語」によると、『容姿は、顔色が悪く毛深い』と。

同じく平安時代の歴史書「大鏡」では『容貌は悪く、片意地をはるところがあり、偏執的な性格」と。

また、醜い・・・とか、散々な言われようです。

藤原道兼の兄、道隆は美形で有名でしたが、弟の道長の方は・・・こちらも容貌的にはあんまりパッとしませんでした。

それでも、道隆(みちたか)、道兼、道長(みちなが)は母親が同じです。

ときには、一人だけ容姿が良い、ということもあるのでしょうね。

性格についても、非常に冷酷で人々は、道兼を恐れていた、といいます。

全体的に扱いにくい、意地が悪いとあります。

あんまりいいところがないようですが、反面、物おじしない、男らしいところもあり、兄をさとすようなところもありました。

大河ドラマで見るように、暴力的な要素を数多く秘めています。

乱暴者、暴力息子の素質たっぷりです。

政治的野望も強い人物でした。

藤原道兼は、のちに天皇をだますという行動をやってのけます。

それには、冷静さと演技力と頭脳が求められます。

まひろの母を殺した時の、直情的な行動からは想像ができないのですが、後に道兼がどんな変容を遂げていくのか、注目したいですね。

父の死後、関白の位が、道兼でなく兄 道隆が継いだときは悔しがりました。

父の、仕事を長男が継ぐのは平安時代は普通のことだったのに、ここで悔しがる弟というのは珍しいことです、よっぽど自分に自信があったのでしょうか?

藤原道兼と紫式部

大河ドラマ「光る君へ」のなかで、藤原道兼は紫式部の母を第一話で殺してしまいました。

それが史実かどうかはともかく、藤原道兼のこの行為が、紫式部のこれからの人生に影を落とすことになります。

史実には、藤原道兼と紫式部の接点はほとんど見当たりません。

紫式部は、藤原道長(道兼の弟)の娘 彰子が天皇の妃になり、彰子の後宮に入るよう、道長にスカウトされた、という事実しか知られていません。

紫式部と道長の接点だって、幼少期からの知り合い、ということはあり得ないし、その弟の藤原道兼とはは出会ったかどうかもわかりません。

史実とは違う・・・と思っても、「光る君へ」のストーリーの進み具合では、藤原道兼が、生涯に渡り紫式部に恨まれ続けた、かどうかは気になるところです。

のちに、藤原道兼と紫式部との接点でわかっていることが一つだけあります。

それは 1017年ごろ、藤原道兼の次男 兼隆(かねたか)は紫式部に娘、賢子(けんし、または かたこ と読む)と結婚したことからです。

しかし正式な結婚ではないく、妾(しょう)の一人ですが、子供を産んでいます。

なお、賢子は大弍三位という位をもらっています。

子供は生まれるのですが、のち、二人は別れます。

「光る君へ」のドラマの流れで言えば、藤原道兼の息子との結婚は、紫式部にとっては親の仇の息子との結婚になります。

紫式部は、藤原道兼を許しているとは思えません。

その恨みを超えて、賢子は、兼隆と結婚したかったのか?

でも、兼隆は、父 藤原道兼と同等の、いやそれ以上の乱暴者、という記録が残されています。

賢子が兼隆と結婚した時は、藤原道兼はすでに死んでいたので、子孫にまでは恨みを残さないという気持ちが紫式部に、生まれたのでしょうか。

藤原道兼が殺人を?

藤原道兼、紫式部の母を・・・

NHK大河ドラマ「光る君への」第1話で、藤原道兼は、紫式部ことまひろの母を、理由もなく殺してしまいます。

これって、事実なの?・・・

この話はフィクションです。

というのも、もし事実なら、これは平安時代の大スキャンダルになっていますね。

父は右大臣 藤原兼家(ふじわらのかねいえ)、妹は詮子(あきこ)で、天皇の妃の一人です。

右大臣の息子が、人を殺した・・・

事実だったとしても隠蔽されたかもしれませんけれどね。

それでも、噂にはなるはずです。

しかし、現代ではその噂すら残ってません。

「光る君へ」の中では、藤原道兼が、穢れを背負ってしまったため、父 藤原兼家には生涯疎んじられることになります。

藤原一家の中で、汚れ仕事請負人にさせられました。

道兼にとっては、自分の過ちとはいえ、煮湯を飲まされるような気分だったかと思います。

藤原道兼の「穢れ」は無視された?

藤原道兼の殺人の後が、何気なく時間が流れているところが、どこか不自然です。

それは、平安時代の大切な考え「穢れ」を避ける、という点が抜けているからです。

例えば、どこかにいく途中で犬の死骸を見つけたとしたら、それは発見した人の身が穢れたということになり、その日は家に帰り外出を控えます。

血ももちろん穢れです。

穢れた身体のまま、どこかに行くということは穢れをあちこちに広めることを意味します。

藤原道兼は、人を殺めた上で、自分自身も返り血を浴びたとなる、本人そのものが穢れ。

当時の考え方では、そのまま帰宅するなど、絶対にあってはいけないことです。

家に入れば家人全員が穢れます。

母君の、時姫が驚いていましたが、驚くなんてものはなく、家に入る前に家の者たちに、まず止められているはずです。

その穢れをもみ消したのは、父 藤原兼家だったのでした。

抜け道もあった?

平安時代の「穢れ」の考え。穢れは潔斎をしなければならない。

ですが、「潔斎」が終わるまでの期間が長くかかる、手順が面倒などという理由から、単純化されつつあったかもしれない、という研究もあります。

藤原道兼の兄 道長は、「穢れに会ってしまった以上、臨機応変に対応することが求められる」という内容が、日記に書いています。

確かに毎日生活していれば、何らかの「穢れ」に遭遇する可能性があるでしょう。

その度ごとに、潔斎で何日も引きこもっていたら、仕事になりません。

穢れを払う、儀式も簡素化されてきていたことも考えられます。

実は 紫式部(まひろ)の母は殺されていた?!

残されている事実では、紫式部の母は、紫式部が幼いときに病死しています。

「光る君へ」を見るとここで一つの仮説が浮かんできました。

実は、まひろの母「ちやは」は、藤原道兼に殺されていた!

藤原家にとっては、大スキャンダルです。

ありとあらゆる手段を使って、この事件をもみ消しました。

その結果、歴史の残ったのは・・・母は病死。

藤原家の、不祥事を隠すため、そして まひろ一家への罪滅ぼしのために、紫式部の父の勤め口の紹介などに繋がったのかもしれません。

この後のストーリーはどう進んでいくのでしょう?

紫式部(まひろ)は、藤原道兼を憎んで生きていくのでしょうか?

そして、心を通わせた、藤原道長のことも、母の仇の身内として接していくのでしょうか?

藤原道兼に妻がいた!

「光る君へ」で、人にはいえない罪を犯した藤原道兼ですが・・・こんな人が家族を持つと大変!

と思ったのですが、妻がしっかりといました、それも3人。

平安時代の貴族は、妻を複数持つのが普通です。

うち二人は、非常に道兼に近い血縁の女性です。その一人が、藤原繁子

繁子の父は、藤原師輔、これは道隆、道兼、道長 三兄弟の父 藤原兼家の姉妹ですから、藤原道兼の叔母ということになります。

現代は、四親等以降の相手となら結婚できるので、違法というか道理に適っていな結婚です。四親等というと従兄弟、従姉妹以降ということです。

しかし平安時代は、叔父(または伯父)と姪、叔母(または伯母)と甥との結婚は、結婚の許容範囲でした。

もう一人の血縁の妻は、藤原遠量(ふじわらとおかず)の娘で、こちらの方が正妻です。

3人の妻から子供も7人産まれています。

しかし、二人の妻はどちらも、藤原道兼より離れ、他の人の妻となりました。

当時の女性が望んで離縁の道をとれたのか、も含めてこちら、藤原繁子の記事に書いております。

そちらも合わせて、ご覧ください。

藤原道兼、花山天皇をだます?

花山天皇を退位させてしまった事件です。

花山天皇は寵愛していた妃 弘徽殿(こきでん)の女御 藤原忯子(ふじわらのしし、またはよしこ)が亡くなったため、すっかりふさぎ込み、出家してしまいたいと思うほどでした。

が・・・天皇は出家できる強い覚悟はできていませんでした。

そこを、藤原道兼が、出家を勧めてきます。「今出家しないと、後々後悔することになりますよ」という具合に・・涙を流しながら、天皇のことを考えているふりをします。

そして、藤原道兼は自分も、一緒に出家してお供します、と申し出ました。

花山天皇が意を決して、出家のために剃髪すると、藤原道兼は「自分の出家する前の姿を最後に父に見せてから、またやってきます」といって、その場を去ります。

そして2度と戻ってこなかったのです。

ツルツル頭になった花山天皇は騙されたことに気づき泣き崩れますが、時すでに遅し。

以上の話は平安時代後期に書かれた歴史物語「大鏡」に書かれています。

花山天皇は、このとき19歳。天皇になって2年しか経っていませんでした。

まだ若いのに、気の毒なことです。

花山天皇の前の天皇、円融天皇(えんゆうてんのう)のもとにいった娘 詮子 が産んだ男子(藤原兼家の孫)を天皇にして、藤原一族(特に兼家一族)が摂政として力を奮いたかったからです。

藤原道兼の人間性の卑劣さを証明するような事件ですが、これを藤原道兼ただ一人を攻めるのはちょっと気の毒です。

というのもこの事件は、道兼の父、藤原兼家が立てた計画だったからです。

天皇をだましおおすことができた、藤原道兼はなかなかの役者だったのですね。

長男ではなく、弟の道長にでもなく、次男の道兼と図った、ということなら、やっぱり、道兼が一番、悪事(?)をするのに向いてた?のでしょう。

それとも、父親のいうことを一番聞く、利用しやすい息子だったのでしょう。

藤原道兼、関白への執念

藤原道兼、関白に一度なり損ねる

藤原道兼がなりたい、と思ってすぐになれる関白職ではありませんでした。

藤原兼家(藤原道兼、道長兄弟の父)は、花山天皇が退位し、次の一条天皇時代になると、摂政に出世します。

もちろん藤原道兼も出世しますが、まだ関白にはなれません。

父 兼家は990年、関白に地位を長男 道隆に譲り出家します。が、その2ヶ月と62歳で病死しました。

関白の地位のことで、藤原道兼は怒り狂います。

というのも、かつて花山天皇を、退位に導いたのは、手を汚したのは自分・・・道兼・・・

だからこそ関白の地位がもらえると思っていたからです。

怒り狂った、だけでなく、父の喪中最中に、客を呼んで大宴会を催した、といいます。

平安時代の喪中とは現代の私たちの喪中以上に、身を慎まなくてはいけないしきたりがあったので、ここで、ドンチャン騒ぎをした道兼は、相当ひんしゅくを買ったのではないでしょうか。

それとも、人からそしられるのを、気にしないほど、父親に操られていた自分が嫌になったか・・・

ついに関白に・・・でも・・

しかし何が味方するかわからないものです。

兄 道隆は政権を担う関白の地位についたものの、わずか5年で、病気で亡くなってしまいます。

995年 4月10日に 兄が亡くなり、・・・

やっと関白の地位が巡ってきました!

兄 道隆には息子がいたのですが、それでも関白に地位を与えられたのが 藤原道兼でした。

よかったね・・・といいたいところですが、わずか10日後に病気で急死してしまいました。

そこで「七日関白」なんて呼ばれています。

死後に、太政大臣(だじょうだいじん)の位を送られました。

道兼はその性格から始まり、最後まで「残念な人」と呼びたい人物です。

藤原道兼 キャスト

NHK大河ドラマ「光る君へ」のキャストは、玉置玲央(たまきれお)さんです。

玉置玲央は、2023年 秋 NHKドラマ「大奥season2」で赤面疱瘡で治療法を探し奔走する医師、黒木 を演じて好評を得ました。

熱血で善良な医師とは打って変わって、乱暴者の嫌な奴 道兼が「光る君へ」の役どころです。

「あまりにクズ」、「サイコパスな」、「返り血がコワい」、「まさかの展開」などの視聴者からの意見が寄せられています。

今後の藤原道隆に注目したいです。

役を演じておられる 玉置玲央さんは「光る君へ」についてこう言っておられます。

「ドラマの道兼も玉置玲央も嫌って良いから『光る君へ』は嫌いにならないでください」

善人と悪人の両方を上手く演じ分けられる、玉置玲央さんから目が離せません。

藤原道兼の別名

平安時代の、高い役職の人は、名前以外の呼び方をされることがあります。

藤原道兼の場合には、平安時代の歴史物語「大鏡」では「粟田殿」(あわたどの)という名前で登場します。

藤原道兼は、大納言という役職時代(990年頃)、京都の東山方面で知恩院の近くにある粟田山に山荘を構えていました。

この屋敷の話は平安時代の歴史書「栄花物語」に書かれています。

この地名をとって、「粟田殿」と呼ばれています。

他には、二条殿、という呼び名もあります。京都の二条に屋敷があったからでしょうね。

藤原道兼の母

藤原家の三兄弟 道隆、道兼、道長の母は、時姫(ときひめ)といいます。

三兄弟の父、兼家の正妻でした。

当時の女性としては、珍しく 〜姫 と名前が残っている女性です。

それも有名人の母親だからでしょう。

しかし当時の他の女性と同じく、生年月日などの記述は見当たりません。

時姫の父は、摂津守(せっつのかみ) 藤原中正(ふじわらのなかまさ)です。

父親の職務は要職だったことも、時姫の名前が残った理由でしょう。

藤原兼家のもう一人の妻、藤原道綱母(ふじわらみちつなのはは)は、時姫に対し嫉妬していたようです。

そのように、藤原道綱母は「蜻蛉日記」(かげろうにっき)に書いています。

「光る君へ」の中では、三石琴乃さんがキャスティングされています。

三石琴乃さんといえば、人気アニメ「美少女戦士セーラームーン」で月野うさぎ の声優で人気です。

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