一条天皇の第1位皇子という身分に生まれながらも、皇太子になれず、かわいそうな人生を送ります。
ですが、藤壺で、中宮 藤原彰子に愛情を注がれて育てられた、というところが救いです。
「栄花物語」に敦康親王の記述があり、イケメンかなあ、という期待を持ってしまいそうですが、成人した時には誰がキャスティングされるでしょうか?
その死は突然やってきましたが、死ぬまで、藤原道長の陰からは脱出することができなかったようです。
ここでは敦康親王の一生を、その悲劇の面を中心に説明して行きます。
敦康親王、かわいそう。理由その1、戒律破りの生まれ
敦康親王(あつやすしんのう)は、一条天皇(いちじょうてんのう)と中宮 藤原定子(さだこ)との間に生まれた、皇子です。
999年11月7日のことです。
生まれた時から、かわいそうな要素があった皇子でした。
戒律破りの生まれだからです。
どうしてかと言うと、母がすでに出家していたからです。
それも、敦康親王は、すでに出家してしまった後に授かった子供です。
出家したということは、男性でも女性でも、全ての欲を断つことが決まりです。
そんな立場で懐妊してしまっては、仏門の戒律に逆らった、ということで、忌まわしいとされてしまいます。
批判されても良い事件だとは思うのですが、そこは、天皇の寵愛が深い、定子のこと。
天皇が我が子の誕生を喜んでいることで、周りは戒律に関してはスルーしたみたいです。
でも出家後の子供、となると仏教思想が強い平安時代なら、歓迎されない出産だったのではないでしょうか?
敦康親王、かわいそう。理由その2 後ろ盾がいない!
もう一つの悲劇は、後ろ盾がいなかったことです。
男子の皇子が出世するには、母親の実家の力が大切です。
ところが、皇子の母、定子の父、藤原道隆はすでに亡くなっていました。
定子も出家の身。
なぜ出家したかというと、定子の兄、藤原伊周(これちか)がかつての天皇 花山法皇に矢を放ったことが反乱と取られた。
また、矢の事件でけでなく、叔母の藤原詮子(せんし)を呪詛の疑いをかけられた。
この二つが理由で、左遷されました。
これではどうしようもありません。
敦康親王のこれからにも影響が出てくるでしょう。
平安時代はエライ人になるためには、自分を推してくれる有力人物がいないと、出世は難しいのです。
敦康親王、かわいそう。理由その3 母の死にあう
敦康皇子が生まれた翌年、1000年12月に、母 定子は再度の出産が元で亡くなります。
敦康親王は、誕生の翌年に親王 としての地位を一条天皇から受けました。
正室、つまり天皇家で言えば、皇后か中宮 の子供しか親王の位を得ることはできません。
では親王の位を受けたから、地位が安泰するかというと、そうではありません。
なにしろ自分の後見人になってくれる人がいませんから。
父方の主な親戚は、伯父たちが罪人扱いになってしまい、祖母もすでに亡くなっています。
さらに、母親まで失ってしまっては、敦康親王には、心の拠り所となってくれる人もいません。
父 一条天皇はもちろん 不憫に思い愛情をかけてくれますが、なんと言っても天皇です。
子供一人の相手だけをしているわけにはいきません。
敦康親王は、天涯孤独になったようなものです。
敦康親王、かわいそう。理由その4、天皇になれなかった
敦康親王、生まれはピカイチですが、天皇にはなれませんでした。
やはり、後ろ盾がいない、と言うことが大きな理由です。
敦康親王の伯父、藤原伊周あたりが、後ろ盾になれたかもしれないのですが、
そうはなりませんでした。
藤原伊周は左遷を許され、朝廷の地位に復帰でき、伊周なら敦康親王の後ろ盾になれるのでは、と一条天皇からの期待がかかったのですが。
藤原伊周はもともと一条天皇のお気に入りだったので、このまま、朝廷で復職して役職を無難に続けてくれれば、順調に、と言うことないのですが、
しかし、伊周は、今度は、叔母が藤原彰子を呪詛したという疑いがかけられ、伊周自身が関わっていなかったとはいえ、伊周自身の印象は悪くなります。
こうなると、伊周は敦康親王の後ろ盾、どころか、親王を呪詛事件に巻き込んでしまう恐れすらあります。
それは一条天皇も嫌がるでしょう。
これで、敦康親王は自分を支えてくれる人を、全て失うことになります。。
敦康親王が生まれた時代、朝廷で、力を持っていたのは、親王の大叔父にあたる藤原道長(みちなが)でした。
道長は自分の一族の方が大切で、自分の娘 彰子が産んだ男子が皇位がつくことを、望んでいました。
敦康親王はイケメン?
敦康親王がイケメンだった、ことがわかる文書は、残念ながら見つけられませんでした。
清少納言が『枕草子』で、「美しい方」と表現した、藤原定子と、イケメンの噂が高い 一条天皇との子供なら、多分、息子の 敦康親王も美形だったと想像されます。
さらに、敦康親王にとって母方の祖父である藤原道隆もイケメン、道隆の息子 伊周もまた宮中を鳴らしたイケメン。
となると、敦康親王のイケメン度はますます高まってきます。
イケメン、という記載ではありませんが、当時の歴史を記した書物「大鏡」には、「頭が良い人で、その人がらも大変よろしい」とあります。
頭よし、人柄よし、両親譲りの美貌が揃えば、そしてもし人望があれば、道長のような権力を持つ人から見れば、危険な存在だったのでしょう。
美貌で、頭が良くて、ますますかわいそうさが浮き出てくる人物ですね。
敦康親王は人質?
敦康親王は、藤原道長にとっては人質のような存在でした。
どうしてかと言うと、道長は、もし自分の娘 彰子に子供が生まれなかった場合、この子(敦康親王)を天皇にしよう、と計画していました。
そのためには、敦康親王が自分(道長)になついて、道長の言うことをなんでも聞くように育てなければならない、と考えていました。
これは人質というより、まさかの時の身代わり、保険、みたいなものです。
身代わりにするだけでなく、敦康親王目当てに、一条天皇が彰子のもとに通って来てもらおう、という考えもあったからでした。
人質という言葉を最初に行ったのは、道長ではなく、道長の姉 藤原詮子でした。
これもまた、敦康親王のかわいそうポイントになりますが、道長にとっての一つの誤算は、
彰子が敦康親王を可愛がったことです。
彰子は、敦康親王の母としての役割を果たしました、それにさらに、彰子に子供が生まれた時でも、敦康親王が天皇になるべきと、主張しました。
この人質あるいは、保険事件(?)は事実では理由は確認できないことですが、敦康親王は確かに小子の元で育てられたのでした。
また、彰子が敦康親王が天皇になることを訴えたのも事実です。
しかし実は人質、保険の話は、むしろドラマのために作られた、新しい設定だと思います。
敦康親王と道長
敦康親王のことを、父 一条天皇は期待していました。
なにしろ愛する 定子の息子でしたから。
それでも、藤原道長の権勢には叶わない、このまま、一条天皇が敦康を天皇に推し進めても、この親王はきっと苦労する、と思って、天皇になる皇子を、道長の孫に決めたのでした。
これを見た、藤原伊周の弟 隆家(たかいえ)は、一条天皇に対し非常に落胆していました。
確かに、敦康親王を天皇にするチャンスはあったのです。
しかしどれも、藤原道長の意見一つで、潰されました。
敦康親王にあったチャンスとは?
血筋が良いからでしょう。
敦康親王にも、天皇への道が開いたかもしれないチャンスを3回、ここで述べてみます。
- 1回目、一条天皇が譲位(天皇の位を降りること)する時。
- 2回目、三条天皇が譲位する時
- 3回目、敦明親王(あつあきらしんのう)が東宮(皇太子)を退位する時。
どれも、その時の天皇がちょっと頑張って、敦康親王が自己主張を強くすれば良かった、と思ったのですが。
とは言うものの、3つの場合全て、道長からの大きな圧力がかかって、敦康親王側は主張することができなかった、のでした。
ここで補足しておくと、三条天皇は冷泉天皇の親王で、花山天皇とは異母兄弟です。
敦明親王は、三条天皇の皇子です。
とにかく、誰も彼も、藤原道長には敵わなかった、と言う結果になってしまいましたね。
敦康親王は、道長に本当に嫌われていたのだろうか?
敦康親王は、天皇になるチャンスを道長に潰された、と言いましたが、道長は本当に敦康親王を嫌っていたのでしょうか?
もしもの時の保険のために、彰子に敦康親王を育てさせていたのですが、その時に道長は敦康親王に情はなかったのだろうか?と疑問に思いました。
歴史上の事実だけ見ると、道長は自分の実の孫を天皇位につけるため、簡単に敦康親王を放り出した、ように見えます。
しかし、敦康親王のことが本当に邪魔だったら、道長のこと、難癖をつけて敦康親王に濡れ衣を着せて、追放、あるいはなんらかの処罰を与えていたのでは、と思うのです。
しかし、そのような罰を受けたという記録はないということは、とにかく自分の人生を生き抜いた、ということでしょう。
敦康親王の周りにあまり頼りになる人物がいなかったせい、ではありますが、敦康親王は自己主張は強くない方のように見受けられます。
そうやって、ひっそりと生活されていたのが、敦康親王には良かったのではないでしょうか?
もしかしたら、敦康親王を見捨てたのは、道長の一つの計画だったのかもしれません。
このまま静かに生きていってくれれば、何もしない、という、道長の温情だったように思えます。
敦康親王、は「光源氏」?
母を亡くした敦康親王を、彰子が養母として引き取りました。
彰子の住まいが、藤壺だったところから、「光る君へ」をご覧の方には、「源氏物語」のような展開を期待されたかもしれません。
父の妃の一人、美しい方に引き取られる、それも場所が一緒ですが、源氏物語のような展開にならなかった、というのが結論です。
敦康親王は、いきなり彰子の元に引き取られてのではなく、敦康親王はまず、母 定子の妹 御匣殿(みくしげどの)という女性の元に引き取られました。
その女性は、定子の妹だからでしょうか?一条天皇の寵愛を受け、子供を授かるのですが、妊娠中に体調がすぐれず、命を落とすこととなってしまいました。
本当に天涯孤独となって、いよいよ 藤壺という部屋の主人、彰子に引き取られたのでした。
引き取られた時の 敦康親王は6歳、彰子は17歳になっていました。
「源氏物語」では、母を亡くした光源氏が、藤壺の女御(天皇の妃の一人)に引き取られ、育てられ、やがて光源氏は藤壺の女御に憧れ、恋をしてしまいます。
光源氏の藤壺の女御に対する憧れが、やがて恋愛感情になり、そこから男女の仲に発展し、二人はその罪に苦しむ、ところが、「源氏物語」の底に流れるテーマの一つでもあります。
敦康親王、彰子との関係
敦康親王が生まれた日に、彰子(しょうし)は一条天皇のもとに女御(にょうご)として入内しました。
その後、定子は亡くなり、彰子のもとで育てられます。つまり彰子は義理の母となったわけです。
彰子に実の親王が生まれても、彰子が敦康親王に対する態度は変わりませんでした。
次の天皇になる子供は敦康親王を考えていました。
こういう立場から、敦康親王は彰子を生涯にわたり、尊敬したのではないでしょうか?
敦康親王と、彰子の親子関係
彰子の住む、藤壺という部屋に、敦康親王はやってきて、彰子が親王を育てることとなります。
では、「源氏物語」のような展開になるかというと、まず不可能でしょう。
敦康親王が、藤壺に来た時、は6歳、彰子は17歳になっていました。
つまり、敦康親王と彰子の年の差は、10歳以上開いています。
では、参考までに、「源氏物語」を見てみましょう。
光源氏と藤壺の女御の年の差は5歳、光源氏と因縁の恋人となった、六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)との、年の差は8歳です。
しかも女性の方が年上です。
10歳以上、離れていると、恋愛対象にはちょっとなりにくい、と思いますね。
彰子は、敦康親王を、思いやり深く大切に育てました。
敦康親王の、成長を、端午の節句などお祝いごともしっかりお祝いしていました。
敦康親王、彰子の子供の誕生が誕生して
1008年、彰子に、敦成親王(あつひらしんのう)が生まれます。
敦康親王が10歳あたりの時です。
ここで、敦成親王、彰子、道長が呪詛される、という事件が起こりました。
呪詛の話については「栄花物語」に書かれています。
呪詛のふだが内裏から見つかリ、呪詛をした僧がわかり、僧は捉えられ、拷問されました。
そして、白状したのが、藤原伊周の母の妹、高階光子(たかしなみつこ)と、伊周の家人(伊周に従っている者)源方理(みなもとのかたまさ)、というのでした。
僧侶の告白から、伊周は関わっていなかった、ということなのですが、疑いを持たれた、伊周は、朝廷への参内禁止となります。
疑われたこと、停職の処分を下された伊周は、後に許されるものの、ショックで、36歳で死去してしまいます。
呪詛は、敦康親王には全く関わっていないことでしたが、伊周の死によって、敦康親王は自分を支えてくれる人を失ってしまったことになります。
つまり、天皇への道が閉ざされてしまった、ということです。
ここでまた考えられるのは、呪詛事件は本当にあったのか?ということです。
全て呪詛で片付けてしまう、平安時代の闇のようなものを感じさせられます。
敦康親王を、次の天皇にと望む彰子
敦康親王は、一条天皇の第1皇子です。身分の高い女性から生まれています。
皇室では、大抵の場合、第1皇子が皇太子になります。
一条天皇も、敦康親王を皇太子にしたい望んでいました。
しかし、藤原行成(ゆきなり)の説得で、彰子が産んだ敦成親王を次の東宮(皇太子)とすることにしました。
なお、育ての親である、彰子は敦康親王が次の皇太子、と思っており、敦成親王を推す道長と対立します。
その話は、『権記』や『栄花物語』から伺えます。
不幸だったと思われる、敦康親王が、彰子に育てられたことだけは、良い記憶として、生涯、敦康親王の心に残ったに違いない、と私は思うのです。
「栄花物語」で 敦康親王は?
「栄花物語」は藤原氏中心の歴史を語っていますが、それでも 敦康親王には同情的です。
その作者が 赤染衛門(あかぞめえもん)ではないか、という推測がされていますが、赤染衛門は「光る君へ」に見る通り、源倫子(みなもとのともこ)・藤原彰子親子に仕えた女房です。
「栄花物語」に書かれている内容を見ると、
敦康親王を、彰子が養育しており、敦康親王の即位を考えており、藤原道長と意見が合わなかったと、いうことです。
こちらは、藤原行成(ゆきなり)の書いた日記『権記』(ごんき)には、
彰子の性格は、潔癖なところがあったので、自分の産んだ親王より、敦康親王の方が年上、母の身分が同等、というのなら、敦康親王が、天皇位につくのが相応しい、と考えたのでしょう。
それだけでなく、彰子は、一条天皇の気持ちが、敦康親王に向かっていることを察した上での忖度した、発言だったのかもしれない、と言う推測もあります。
でも、彰子のまっすぐな性格からすると、私は、しょうしが秩序を通したい、という気持ちがあったからだと、思いました。
敦康親王、「光る君へ」のキャストは?
NHK大河ドラマ「光る君へ」では、2024年8月時点で、敦康親王はまだ少年時代を過ごしています。
さて成長すると、役者さんが変わります。
今度は、片岡千之助さんがキャスティングされています。
片岡千之助さんは、現在24歳、歌舞伎俳優で、父が 片岡幸太郎、祖父が 15代目片岡仁左衛門という歌舞伎界の名門です。
歌舞伎役者は、大河ドラマで、天皇や上皇、皇族の役によく抜擢されます。
着物を着ての堂々とした動きが、気高く見えるのでしょう。
片岡千之助さんのお祖父様 片岡仁左衛門さんも、かつて 1991年大河ドラマ「太平記」で、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)の役を演じて、天皇の風格を見事に出しておられました。
歌舞伎役者は、物腰、立ち振る舞いはもちろんのことですが、純日本的で古風な美形顔が多い、というのも、天皇、皇族役に抜擢される理由だと思います。
片岡千之助さんは、役について次のように述べられています。
「光源氏のモデルとなったという説のある敦康親王を演じさせていただけること心から光栄に思います」
「僭越(せんえつ)ながら、僕自身も家を継ぐというような環境に長男として生まれた身ということもあり、敦康親王も長男としてお生まれになり、本来ならばそのまま皇太子になられるはずが、人々の思惑、また世の中の流れによって、悲劇的な運命を辿られる生涯であったと思います。ただ、悲劇的であったと言いましても、父上や2人の母上をはじめとするいろいろな方に愛されて育った方だと思っております」
「短い生涯でしたが、そのかけがえのない愛をもらった敦康親王の美しい人物像を僕自身、精一杯勤めさせていただきたいです」とした。
と、すでに、敦康親王の役の性質を捉えているように思われます。
どんな親王になるか、登場た楽しみです。
敦康親王のその後
敦康親王のその後とは、成人して藤壺を離れてからのことです。
敦康親王は、村上天皇の血筋 具平親王(ともひらしんのう)の次女を妻とし、具平親王のもとに婿に行きました。
具平親王は朝臣の位(つまり、臣下のこと、臣下でも上級)、で村上源氏となっていました。
臣下となった家に婿に行ったのだから、これで権力闘争に出ていくことはない、と自己表明したこととなり、自分の身の安全をはかったのです。
娘は、藤原嫄子(げんし、または もとこ)といい、1016年の生まれで、その2年後に、父 敦康親王は急死します。
ですが、藤原道長の息子 頼通(よりみち)の養子となり、将来は後朱雀天皇の元に入内し、将来は皇后まで上り詰めます。
ですが、内親王(姫)しか生まれず、24歳で亡くなってしまうので、父の無念を晴らす、までは行かなかったのですね。
敦康親王の死因
敦康親王は、1018年12月17日 20歳の若さで亡くなります。
天皇家の人物ですので、その辺りの記録は残っていますす、藤原実資(ふじわらさねすけ)の「小右記」にも少し出ています。
『小右記』によると、12月17日に敦康親王は危篤となって、その日のうちに亡くなった、のです。
急な発病だったようで、どんな病気だったか、最後の様子はどうだったか、は書かれていません。
敦康親王は、天皇になるチャンスが3度あったのですが、その度にその話がダメになり、3度目の時はかなり、自分自身を悲観していたと後世の研究家たちは、推測しています。
その内容は、藤原行成の『権記』から読み解いたようです。
12月17日に倒れた後は、彰子も見舞いに行った、という話も『紫式部日記』に書かれています。
一方、道長の日記『御堂関白日記』ではこの年の12月12日から18日までの記述が消えています。
日記だからと言って、必ず毎日書くものではありません。
忘れること、忙しくかけない日もあるので、特に関心を寄せることもないのですが、なんとなく不自然な気がします。
一人の親王の死、ということだから、葬式などの行事に関わらなかった、とは考えにくいです。
ですが、12月末から翌年の1月にかけての記述には、敦康親王の葬儀のことには触れています。
『御堂関白日記』の空白の時間の意味が、解明できるといいですね。
敦康親王 まとめ
道長と敦康親王の間は偶然が重なります。
まず、敦康親王の生まれた日に、彰子が入内しました。
そして、敦康親王の亡くなった日には、道長の娘 寛子(ひろこ、または かんし)が内親王を産んだ日でもあります。
寛子の相手は、敦明親王、これは彰子の娘です。
敦康親王が道長がいるために苦労した人生を送るようになったことを象徴するような偶然です。
本当に運の悪い人がいる、と言っていいなら、敦康親王は運の悪い人のうちのトップテンにはいるのではないか、と思われます。
それでも、天皇の位をめぐって、反乱の勢力に持ち上げられないのは良かった、と思います。
これがあと100年ぐらい後なら、源平の勢力争いに巻き込まれてしまっていたかもしれません。
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