蔦重は、41歳で、脚気で亡くなりました。
脚気というのは、当時の死因としては多かったのでしょうか?
蔦重は自分の死を予想したという不思議なエピソードもあります。
蔦重は自分の死までも演出したかったのでしょうか?
ここでは蔦重の死について、調べてみました。
蔦屋重三郎の死、いつ?
蔦屋重三郎こと蔦重は、1797年(寛政9年)5月31日、47歳で亡くなりました。
江戸時代の平均寿命は、約30歳と言われている中では、まあ、平均寿命?とも言えそうですが。
30歳前後というのは、乳幼児の死亡率が高かったからで、これが平均寿命をさげていました。
ですから、長生きする人もいたわけで、60歳まで生きる人もそれなりにいました。
他の、「べらぼう」の登場人物の寿命を見てみると、
山東京伝 57歳、喜多川歌麿 53歳、十返舎一九 68歳、どれも長寿とまでは行かないまでもそれなりの年齢まで生きました。
ここから見ると、蔦重は早死にだったですね。
蔦屋重三郎の死因
蔦屋重三郎の死因は、脚気(かっけ)でした。
脚気と言い切れるのは、当時に残された記録、日記などの史料、後世の研究からわかっています。
脚気の原因は、下記の項目で解説していますが、脚気の原因はビタミンB1不足です。
食生活が影響する病気で、食生活と生活のリズムに乱れのある人がかかりやすい病気です。
蔦重も、不規則な生活を送っていたようです。
若い時は、絵師や作家たちの接待で、結構な贅沢な食事をしていました。
しかも、蔦重は、東洲斎写楽の売り出しに取り掛かっていて、過労も、蔦重の死因の一つになったのでは、と思います。
蔦重の死、処罰に関係ある?
というのも、1791年、蔦重は処罰され、その財産が半分も幕府に没収されてしまいました。
取られてしまった財産を再び築き上げようとしていのですが、喜多川歌麿とは別れ、次世代のスターとなるはずの東洲斎写楽はすぐに人気が落ちてしまった。
東洲斎写楽に関しては、また別お話がありますので、そちらをお読みください。
この頃の蔦重は、自分の店 耕書堂を建て直すのに、懸命でした。
処罰されて、確かに、蔦重は気落ちしました。
処罰の年、蔦重は41歳頃でした、がいくら平均寿命が短いからといって、41歳ではまだまだで、もう一踏ん張りできる年です。
蔦重は、死を予想した?
予想をした、というのは、曲亭馬琴の随筆「近世物之本江戸作者部類」にあります。
曲亭馬琴の書き物ですので、正式な記録とは言えませんが、本当だとしたら面白いですね。
その内容は、蔦重の病状が悪くなった時、『自分は正午に死ぬだろう』(5月6日の)と言って、今後店をどうするか、などの指示を出した、と言われていることです。
また、妻にも別れを告げていました。
そして、正午を過ぎてもまだ、最期の時は訪れなかったので、『遅い』と、言っていました。
馬琴が書いた、というのなら、蔦重本人が、自分の死そのものをを宣伝として使おうとしていたことが考えられます。
江戸のメディア王と言われた、蔦重。
その考えは、自分の死を利用すれば、「耕書堂」「蔦屋」は、もっと繁盛するのでは?
蔦重時代の脚気
脚気とは栄養の行き渡らなかった時代の病気ですが、食べる物に不足しているからかかる病気ではなく、むしろ白米を多く食べることからくるビタミン不足から起きます。
貧乏人より、胚芽を取り除いた白米が食べられる裕福な人が、かかる病気でした。
それに、田沼意次時代には、米の生産と消費が奨励されことで、むしろ精米された米が、出回っていました。
また脚気は、「江戸わずらい」とも呼ばれていました。
その理由は、参勤交代で江戸にやってくる殿様たちは、江戸で精米されたお米を美味しい、とたくさん食べ、脚気にかかってしまうからです。
「江戸」とあるのは、参勤交代終了後、自分の国に帰り、精米が十分でない米、粟などを主食にするようになると、直ったところから、江戸でしかかからない病気、と思われていました。
よく時代劇ドラマで、災害後の救援として握り飯が配られるシーンがありますが、その握り飯は白米であることが多く見られます。
当初は、時代考証の手抜きかと思っていましたが、精米が市場に出回っていたというのが史実だったからなのですね。
白米をたくさん食べて、脚気になる現象は、日清・日露戦争の頃まで続きました。
ということは、原因とその対処法が発見されなかった、病気だったのです。
蔦重亡き後の「耕書堂」は?
蔦重が、後を託した相手は、「耕書堂」の番頭だった、勇助、そして、二代目蔦重と名乗りました。
蔦重には、子供がいません、つまり子供がいた記録がありません。
「べらぼう」では、蔦重の妻 が妊娠したのもの流産するシーンがありましたが、創作と思われます。
蔦重の子供、と名乗る人物は、蔦屋の後継者となっていません。
その事実から、子供はいなかった、と結論づけられています。
二代目蔦重は、葛飾北斎(かつしかほくさい)との関係を強く持ち、「耕書堂」を盛り立てていこうとしていました。
しかし蔦重の死後から、「耕書堂」はだんだんと経営不振に陥り、四代目までは続きましたが、1861年、ついに廃業となってしまいます。
耕書堂は続いたといえ、やはり蔦重ほどの、アイディアの持ち主、それを広げていこうとする腕を持った人物は現れなかった、ということでしょうね。
蔦重は特別だったのです。
まとめ
蔦重は、脚気で亡くなりました。
処罰されてから、それほど長く立っていなかったので、気落ちして病気になったのかもしれません。
それにしても、自分の死を予想していた、とは驚く限りです。
曲亭馬琴の創作かもしれませんが、自分の死もまた、エンターティメントにしてしまう蔦重は、江戸時代の真のメディア王といえましょう。
「耕書堂」が四代あとには、倒産してしまった、というのは蔦重は予測もしなかったことでしょうけれど。

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